1Cr Drudgery―白黒徒花―

01.Everlasting Cr―鋼鉄の勇者―Verse 0


     〆

 そこは豪奢に飾られた広い部屋であった。部屋の奥には暖炉が鎮座しているが、今は火を灯しておらず薪が爆ぜる心地よい音も聞こえない。当然だ。うららかな日和が心地よい春の中程。暖炉など不要で、単なる調度品でしかなかった。

 しかしそれも情緒と言ってしまえば悪いものではないのかもしれない。この部屋の暖炉は上等な造りで、複雑な意匠が彫り込まれた高級品だ。調度品として見ていても、つまらないものではなかった。

 床は大理石。頭上に吊されたシャンデリアの拡散する輝きを受け、眩いほどに輝いている。

 天井を見上げれば、そこは半球形となっており、全面で一幅の絵画となっていた。中心に描かれているのは母性を感じさせる柔らかな微笑みを湛えた美女であり、背には三対の白い翼が生えている。おそらく女神なのだろう。

 蒼穹を背負い、血色のよさもしっかりと感じさせる白い肌が映えている。緩く波打つ髪は金色、優しく細められた瞳は碧い。

 女神と思しき人物の周囲には一糸纏わぬ赤子が小さな翼を羽ばたかせ舞っている。きっと天使だろう。

 この絵が何を暗喩しているのか、そもそも深い意味などあるのかどうかも定かではないが、確かに神聖な雰囲気は感じた。感じただけであり特にどうということではない。大多数の人間が感じる神聖とはこういうものなのだろう。

 女神が持っているのは竪琴だろうか。余計な飾りが多く、果たして演奏の妨げにならないのか甚だ疑問である。尖端の突起などはいらないだろう、と彼女も思っているようだ。

 彼女――部屋の中心に設えられた飴色のテーブルに足を載せ、尊大に紅いソファへ腰掛けた彼女は、そんなことばかりを考えている様子だ。

 窓枠がどうして金色なのかが分からず、ベルベットのカーテンの色合いも今となっては目障りなのだろう。立派そうな抽斗の上には羅紗がかけられ、上には金色の杯や高級そうな皿が立てかけられている。皿には料理を載せればいいだろうに、どうして埃を載せているのか、これもまた彼女には疑問であるだろう。

 埃にドレッシングでもかけて食べるのだろうか? だとすればこんな立派な部屋に暮らさずとも洞穴で暮らせばいい。埃よりもいいものは山に行けばたくさんありそうなものだ。

 それとも埃を食べなければ死んでしまう体質でも持っているのだろうか? 埃で人が死ぬことはないと言うが、これはある意味埃で人が死ぬということなのかもしれない。

 或いはそんなことを考えているのかもしれない。

 彼女は深いスリットの入った黒いノンスリーブのリトル・ブラック・ドレスから覗く白く滑らかな足を組み直し、右足をテーブルの上へと載せる。ハイヒールがテーブルの天板に傷をつけるが、そんなことはどうでもいい。

 細い肩紐のかかった撫で肩は薄く、首もとに浮き出た鎖骨は肉感的でさえある。

 体つきは細く、その痩躯を包む黒いドレスは飾りも柄もなく、ワンピースと言った方がいいものなのかもしれない。

 朝焼けの空を彷彿とさせる紫苑の髪は長く、小さな頭の後部、その僅か右寄りの位置でシュシュによって纏められ、肩にかけられている。目に毛先が触れる程度の前髪が垂らされ、顔の両脇には一房ずつ長い髪が残されていた。

 顔立ちは整っており、長い睫毛、物憂げに伏せられた濃緑の瞳、鼻筋はすっと通っている。しかし、その官能的な姿と艶美な表情に反し、顔は幾分あどけなさが残っているようにも感じられた。

 未だ成長しきらない幼さの面影が拭いきれていない。

 肘まである黒い手袋を嵌めた細い指の先には煙管が挟まれ、先端からは煙が燻っている。彼女の肢体のようにほっそりとした煙が身をよじらせ、天井の女神へと昇っていく。

 見るからに暇そうかつ面倒くさそうな顔で、少女は紫煙混じりのため息を吐き出す。

 何十分待たせるつもりなのだろうか。そもそも、ここで待っているようにと執事に言われてから何十分経ったのだろうか? この部屋には調度品は掃いて捨てるほどあるというのに、時計が置いていなかった。そのため、この部屋に来てからどれほどの時間が経ったのか、彼女には全く見当が付かなかった。

 日の傾きで時間を見ようとも考えたが、この部屋の窓からは日を見ることができない。

 少女とも呼べる女性はもう一度ため息を吐き出した。

 同じ体勢で座り続けるのも疲れた。本当は尊大な態度で迎えイニシアティブを取ろうと考えていたらしいが、そろそろ慣れない体勢が辛くなってきたのだろう。組んでいた足を解き、ずるずると体を傾け、肘掛けに腕を敷いてそこに顎先を載せる。

 待ちくたびれている。もうこのまま寝てしまいそうなほどに少女は退屈そうだ。

 しかしそんな醜態を曝すわけにはいかないという意識もあるのだろうか。少しでも威容を演出できるように心がけている。

 肘掛けに顎を載せたまま煙管を吸い込む。薄い唇が軟らかく吸い口を包み込む様は妖艶で、官能的なものだ。

 血を塗ったように紅い唇の隙間から煙を吐き出し、女はゆっくりと項垂れる。

「暇だわ……とても暇だわ……脳が蕩けてしまいそう」

 何もしないで待つのは退屈以外の何物でもない。これを退屈と呼ばずして、何を退屈と呼ぶというのだろうか。何故、自分は律儀に待たされているのだろうか、と少女は現状に疑問を抱き始めていた。

 理由は決まっている。それが彼女に与えられた役目なのだから。

「カルフォル様……トリィは退屈ですわ。とてもとても退屈ですわ。このままではトリィは退屈すぎて死んでしまいますわ」」

 独り愚痴を零す。その声に答えてくれる者は当然いない。

 しかしその代わりとでも言うように返ってくる音があった。

 外から聞こえてくる微かな足音を彼女は耳敏く聞きつけ、跳ねるように体を起こす。

 足音自体は遠いが響く音は重く、偉そうに大仰な足取りで歩いていることが簡単に予想できた。

 トリィと自らを呼んだ少女は素早く背筋を伸ばし、僅かに崩れた髪を手櫛で簡単に整えて、足を組んでテーブルへと投げ出した。

 元の体勢へと戻り、少女は尊大に背凭れに寄りかかり煙管を咥える。

 しばらくと待たないうちに部屋の分厚い立派な扉が開かれた。現れたのは純白のレースの胸襞飾りが施されたシャツの上に、金色の刺繍が鏤められた緑色のジャケットを着た、恰幅のいい初老の男だった。腹部は何か詰めているのではないだろうか、という疑問を抱く程に膨れており、癖の強い髪も量が少なく脂の浮いた額が広くなっている。シャンデリアの光が反射されて眩しいほどだ。

 目は小さく、その奥に宿す卑しい輝きは低俗さを感じさせる。また鼻は低く潰れており、たっぷりと蓄えられた黒い髭もあまり似合ってはいない。

 指一本一本が醜く膨らみ、まるで芋虫のような手はステッキを掴み、億劫そうに動いている。足が悪いわけではなく服がきついのだろう。シャツのボタンが今にも弾け飛びそうなほどに内側から押し上げられていた。

 トリィはその姿を見て、まず最初に不快感を表した。そして男と目が合い、彼が不潔な笑みを零した瞬間、目に殺意が宿った。

 こんな匹夫を一日千秋の想いで待っていた過去の自分も殺してしまいたそうな殺意だ。

 男の白いタイツが気に食わないのだろう。

「これはこれはトリエラ様、お待たせして申し訳御座いません。何分込み入った事情がありまして――」

「能書きはいいわ。早く座って頂戴」

 冷たく、静かな口調でトリィは男の滑舌の悪い低い声を遮った。その声もあまり耳に心地よいものではない。

 トリィは煙管から煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出すと、その吸い殻を大理石の床の上へと、何気ない動作でぽんと落とした。

 視界の端で、不釣り合いな豪華な衣装を纏った男の顔がわなわなと動くのを確認する。少しだけ、気分がよくなった。

 男があからさまな咳払いをすると、それまでその存在さえ気取らせなかった執事が、さっと男の脇を通り抜け、吸い殻を片付けに向かう。

 よく出来た執事である。燕尾服を着こなした老執事で、元々の身長の高さに加え、背筋がぴんと伸びていることもあってとても長身だ。体つきも痩身とはいえ細すぎず、身長との比率が整っている。

 老いてなお、その顔立ちは整っており、若い頃は相当の好青年であったことが窺えた。

 トリィは、こちらの方がよほど貴族らしいとさえ思ったことだろう。

 そう、あの醜く肥えた匹夫は貴族なのである。

 信じ難い話ではあるが事実だ。そうでもなければ、トリィはこんな男を待っている義理もなかった。

「さあ、ベラクレート卿、どうぞお掛けになってくださいな」

 まるで自分の住処であるかのようにトリィは艶然と微笑み、テーブルを挟んだ向かい側の席を煙管で指し示す。

 男の顔が再び怒りに歪んだのが分かった。この男のプライドの高さを、トリィは知っていた。だからこそそのプライドを傷つけるような振る舞いを意識していた。

 例え彼女がどんな無礼を働いたところで、男は逆らうことなどできない。

 小娘一人に文句を言うこともできないのだ。

 プライドと立場、命など様々な物を天秤に架けた結果、ベラクレートと呼ばれた男は微かに頷いたような素振りだけを見せ、大仰な足取りで無言のままにソファへと腰掛けた。

 もしトリィの腰掛けるソファと同じ構造であるならば、相当頑丈にできているはずのソファがギシギシと不平を訴えるように軋んだ。もちろん、外見は同じで中身が違う可能性も否定しきれないわけだが、そんなことを考えても意味がない。

 この場には一切関係のないことを考えて、トリィは必死に笑いを堪えていた。

 目の前でソファに沈み込む男は実に滑稽だ。くすくすと笑いながら、トリィは脇に置いていた革製の小さな巾着袋を引っ張り上げ、窄まった口を緩める。中に詰まっているのは大量の刻み煙草。糸のように細く刻まれた煙草を摘み上げ、丁寧な指使いで丸めていく。そうしてできた刻み煙草の玉を煙管の火皿に詰め込み、吸い口を唇使いも艶めかしく銜え込んだ。

 当然火はない。トリィの煙管は羅宇も異常なまでに長いため、彼女の手が届かない。だというのに、トリィは当然のように吸い口から煙草を喫う。すると、火の気もなかった火皿から、一瞬だけ炎が燃え上がり、トリィの白い頬を橙色に染めた。

 炎は一瞬にして消え去り、火皿に詰め込まれた刻み煙草には火が灯されている。

 炎が湧き出た瞬間、ベラクレートは驚き、その大きな体を器用に跳ね上げさせ、執事も目を剥いていたが、当の本人であるトリィは何食わぬ顔で美味しそうに煙を吐き出していた。

 否、当の本人であるからこそ当然のこととすることができるのかもしれない。

 トリィの扱う煙管は全体が金属製で出来ており、雁首には唐草模様が彫られ、羅宇は黒壇でできている。また吸い口の部分にも桜の花の彫刻が施されていた。一見しただけでも、高級なものであることは明白だ。

 何も言わずに煙草を味わい続ける少女に、痺れを切らしたベラクレートが恐る恐る口を開いた。

「それでトリエラ様、一体どのような用件で――」

「ベラクレート卿? 今は何時(ナンドキ)で?」

 その言葉さえも遮り、トリィは問いを投げかける。続く言葉を飲み込んだベラクレートは脂肪に埋もれた目を執事へと向け、時間の確認を促す。執事は何も言わずに懐中時計を取り出し、穏やかな動作で盤面に視線を落とした。

「十五時二十四分で御座います。トリエラ様」

「あら、そう? ところで、私は一体何時、ここに来たのかしら?」

「十五時丁度で御座います」

「あーら、二十四分。二十四分ですって、ベラクレート卿。二十四分もあったら、一体どれだけのことができるのでしょうか? ベラクレート卿」

 分かりやすいほどにあからさまな嫌味を言いながら、トリィはゆっくりと腰掛けから背を離し、体をテーブルの上に乗り出し、ベラクレートの表情を窺うように見上げた。

「二十四分もあったら、村一つくらいなかったことにできるのではありませんか? ベラクレート卿」

 くすくすとトリィは笑う。どこまでも無邪気に、あどけない顔立ち相応の、鈴を転がすような笑声を垂れ流す。

 しかし意味はどこまでも冷たい。それだけの時間があれば、彼のいる村一つくらいは容易に消し去れる。だから、待たせるようなことはするべきではない。

 そんな警告であった。

 ベラクレートは唇を引き結び小さく唸る。

 固く組み合わされた両手が微かに震えていた。恐怖に彼は凍えていた。目の前の年端も行かぬ顔立ちの、好奇心で少し背伸びをした服装で着飾っただけのような少女に初老の貴族が怯えている。

 何とも、面白い構図であった。

「ベラクレート卿? 私はカルフォル様の使者ですのよ? 何か、それ相応の持て成しというものはありませんの? 私、咽喉が渇いておりますの」

 トリィの要求にベラクレートはわざとらしい咳払いをする。すぐに執事がその意味を察し、紅茶を淹れようと一歩踏み出した。トリィはそれを制するように執事へと煙管の雁首を突き付ける。

「私、ベラクレート卿に申しておりますの。彼は貴方の忠実なる僕(シモベ)かもしれませんが、私にとってはそうではありません。カルフォル様に忠誠を誓っているのは貴方でしょう? ベラクレート卿。そして私はそのカルフォル様の使い。私の言いたいことご理解頂けませんか? 今この時、私がカルフォル様であり、カルフォル様が私。忠誠を誓っているのであれば、ベラクレート卿自身が、私を持て成すべきではなくて?」

 艶然と微笑み、煙管を吸ったトリィはゆっくりと紫煙を虚空に漂わせる。

 しかしベラクレートは目を剥いたまま、動かない。彼にもプライドというものがあった。このような小娘一人のために、貴族である自らが紅茶を淹れるなどということは我慢ならなかった。

 確かにベラクレートはカルフォルという人物に忠誠を誓った。それでも小間使いになった覚えはない。

 今後の上下関係も考えれば、ここで従うのはあまりに愚かだ。

「あら? ベラクレート卿? 耳が不全ですの? いくら辺境伯様と言えど、老いには勝てないということでしょうか? うふふ」

 紅い唇を綻ばせ、細めた濃緑の瞳でベラクレートを見つめる。

「このままですと、私は貴方の欲するものを永遠に与えることができませんわね。それどころか、貴方が私達に忠誠を誓ってまで守りたかったモノを奪うことにもなりかねないですわ。それは残念、とても残念なことです」

 首を傾がせ、愛くるしい仕草でトリィはベラクレートに答えを促す。その言動は到底残念そうには聞こえず、むしろ別段どうでもいいことであるという認識が垣間見えた。

 ベラクレートの顔が苦虫でも噛み潰したかのように渋いものとなる。

 今、この脂肪に覆われた男の心の中で、二つの感情が鬩ぎ合っていることは簡単に読み取れた。貴族としてのプライドと、人間としての願望。その二つを天秤に架けているのだろう。

 唇を蠢かせ何かを言おうとしては唇を紡ぎ、しかしすぐに何かを言いたげに視線を彷徨わせる。

 滑稽だ。実に滑稽だった。

 とはいえ醜い男の葛藤を見続けるのはすぐに飽きてしまう。どんなものも冗長となってしまえば興が冷め、うんざりとしてしまうものだ。

 ここは一つ、男の背を押すことにしよう、とトリィも思いついたようだ。

 前のめりになっていた痩躯をさらに浮かせ、艶めかしいラインを描く臀部がソファから離れる。煙管を持った手をテーブルの上に置き、浮かせた膝も天板に載せ、するりするりと子供染みた動作で、トリィはベラクレートへと擦り寄っていく。

「ベラクレート卿?」

 音一つ一つを噛み締めるように、甘くゆっくりとした声で、トリィは再確認するように彼の名を呼ぶ。

「命は――誰だって惜しいモノですわよね?」

 煙管の雁首がベラクレートの心臓へと突き付けられた。

 トリィは無邪気に微笑んでいる。少女なのか妖女なのか、はたまた魔女なのか、彼女の挙動はそのどれにも固定されていない。

 ベラクレートは彼女のどんな仕草よりも、その無邪気な微笑みが怖かった。

「命の盟約を共に破戒するのでしょう? ベラクレート卿。ならば――素直に私達に従いなさいな」

 クスクスと笑い、四つん這いになっていた体を起こしたトリィは、そのままテーブルの上に座り込み、足を組みながら、妖艶に煙管から煙を吸い込む。

 黒いドレスのスリットから零れた白い太股は多くの男達の目を奪うに値するきめ細かさだ。

「こんな辺鄙な場所で一生を終えるつもりではないでしょう? 何より、今ここで一生を終えるのも嫌ではなくて?」

 念を押すように、トリィはベラクレートを見下ろしながら問うた。

 頭上に君臨する女神は、下界で交わされる会話になど興味を示さずただ優しく微笑んでいる。その世界に対する不干渉な姿は、確かに人々の思い描く神らしいものであろう。

 人にとって神はただそこにいるだけのものでしかない。

 それこそが間違った認識だというのに。

 神はただ、人を救う気がないだけだ。


     〆