1Cr Drudgery―白黒徒花―
04.#A757A8 Th―群咲の魔女―Verse 16
「勇者の名に懸けてあいつを倒すのはやめにしよう。俺は、クロームとして、あいつを――殺す」
言い切る頃にはすでにクロームは駆け出していた。おそらく駆けたのだろう。その経過を俺は観測できなかった。ただ、クロームがトリエラに斬りかかったというその結果から逆算して、駆けるという経過を算出したにすぎない。
クロームの剣が振り下ろされたという経過を、斬りかかったクロームを包み込むように湧き上がった塵埃と響き渡る轟音から認識する。
ホールの一番奥にある階段の踊り場はあっという間に煙に包まれ、金属と金属がぶつかり合う音が何度もそこから聞こえてくる。
おそらく、クロームの剣をトリエラが煙管で防いでいるのだろう。
俺は五感で感じる情報から、現状を把握することに努める。
そうして次に取るべき行動を割り出す。
一定のリズムを以て鳴り続けていた甲高い金属音――そのリズムが僅かに乱れる。ほんのコンマ数秒のズレを感じ取り、俺は煙の向こう、クロームがいるであろう場所、その背中側目掛けて引き金を引いていた。
耳を叩く銃声。放たれた弾丸は螺旋状に空気を裂きながら駆け抜け、湧き上がった煙の中へと飲み込まれていく。
湿り気を帯びた短い音が聞こえる。
銃弾が何かを撃ち抜く確かな手応えを俺は第六感で感じ取っていた。
となれば、次に取るべき行動も見えてくる。あいつは俺の敵対行動を痛みと共に認識したはずだ。どうする?
俺は振り返らないまま、背後に銃を向け引き金を引いていた。
「あぐっ!」
後ろから、今俺を最も苛立たせる声が聞こえてきた。確かな手応えを感じながら、俺は振り返る。そこには右腕を押さえて顔を歪めるトリエラがいた。
こいつはいつも俺達の背後に回るように現れていた。考えれば分かることだ。
まあ、振り返らない分、急所は狙えなかったけどな。
当たったのは上腕の中程か。押さえた手の隙間から紅い血が滴っている。
「どうして……」
「黙ってろ」
痛みに喘ぎながら問いかけるトリエラの言葉をただそれだけで切り捨てる。
まだ、足りない。まだこんなものじゃない。
あいつが受けた痛みはその程度のものじゃない。それでもあいつは最期まで笑っていた。
貴様が痛みに苦しむような素振りを見せる、それ自体が最早おこがましい。
俺は脚を振り抜き、トリエラの顔面を蹴飛ばしていた。小さな身体がいとも容易く吹っ飛び、大理石の床を転がる。
髪を纏めていたシュシュが外れ、纏められていた髪が崩れた。汚れた床に広がる紫苑の長髪。
トリエラは髪を整えることもしようとせず、覚束ない動作で立ち上がろうとするが、撃たれた右腕が痛むのか、身体を支えることができていない。
床に伏せた頭をのろのろと動かし、トリエラは怨むような目で俺を睨み付けてくる。
だから? それで? どうしたっていうんだ?
俺は銃を構え、何食わぬ顔でトリエラの両脚、脹ら脛の部分を撃ち抜く。
絹を裂くような悲鳴が耳を打つ。しったこっちゃない。
貴様には悲鳴を上げる権利もない。それはあの子さえ上げなかったものだ。お前が叫ぶ権利など万に一つも存在しない。
目の端に涙を浮かべながら、トリエラはそれでも俺を見上げて、くすくすと蠱惑的な笑みを見せる。
「あらあら……怖いお顔ですこと。何をそんなに怒っているの? あんな小娘一人殺したところで、何も変わりはしないでしょう?」
「ふざけんな」
低く唸るように言い放つ。脅すような俺の声に対しても、トリエラはくつくつと咽喉の奥で笑ってみせた。
飾りもないリトル・ブラック・ドレス――そのスカート部分に穿たれた二つの穴からは紅い液体が浩々と広がっている。
早く泣き叫んで、命乞いでもしてくんねぇかな。いたぶり甲斐ってもんがねぇ。まあ、気丈に振る舞ってる奴を屈服させるのも嫌いじゃねぇけどさ。
「不思議ですわね。うふふ。村人をたくさん殺した時より、たかだか一人の小娘死んだ時の方が、貴方の憎しみは深い。どうしてかしらね? 勇者の仲間も、人の命を天秤にかけていらっしゃるのかしらね? うふふ」
「黙れ」
不快な言葉を囀るトリエラの左肩を撃ち抜き、強引に黙らせる。
トリエラが短い悲鳴を上げた。剥き出しの薄い肩からは鮮血が溢れ、白い肌を穢していく。
もっと汚れてしまえばいい。
乱れて床に広がる髪の毛先が血溜まりへと触れ、紫に紅が浸透していく。
「あは、は……うっ……ぐっ……うふふ、貴方達も私達と同じよ。人の命に値札を付けてる。貴方にとって、あの小娘は他の村人達よりも有益な人間で、私達にとってあの命は全て無価値だった。それだけの違い。やっていることはきっと何も変わらない。きっと貴方もいずれ同じことをする。もうしているかもしれない。だって、貴方は私の命は無価値だと踏んでいるから、こんなことをするんでしょ? うふふ。同じよ、同じ。全部同じ」
「ああ、そうかい。それがなんだ」
俺は倒れ伏すトリエラへと歩み寄り、その腹部へと爪先を叩き込んだ。
腹部へと走った衝撃にトリエラの目が見開かれる。くぐもった声が漏れ、蹴られたせいで赤く腫れていた頬がリスのように膨らむ。
「うぷっ……う、うえ……ッ」
堰き止めて呑み込もうとしていた嘔吐物がトリエラの小さな口から吐き出される。大理石の床へと垂れ流される嘔吐物の中には消化しきれていないものも多く、その気になれば今日の食事のメニューまで分かりそうだ。
結構いいもんを苦ってんだろうな。随分な量を吐くじゃねぇか。
うつ伏せになったままのためトリエラの顔は床に広がった嘔吐物に汚れていた。いい気味だ。見苦しくてお似合いじゃねぇか。
「きったねぇな……クソが」
俺の嘲笑混じりの罵声に、一頻り胃の中身を吐き出し終えたトリエラはぐったりとした顔で俺を力なく見上げてくる。
嘔吐っていうのは案外、体力を使うもんだからな。
疲れ切った目は俺の心を優越感に浸らせる。
口の中に残った胃液をぺっと吐き捨て、トリエラはふんと鼻を鳴らした。
「……貴方、いい顔してるわ。悪人にお似合いの顔よ」
「うるせぇ」
まだ抵抗の意志が残っているらしい。まだ痛めつけられそうだな、こりゃ。
そう判断して、俺はトリエラの床に散らばった髪の一房を引っ掴み、強引に持ち上げる。髪を引っ張られる痛みにトリエラは顔を歪め、少しでも痛みを緩和しようとやむを得なく身体を起こした。
髪に吊られて力なく立ち上がったその姿は、糸の切れた操り人形のようだ。右の頬は蹴られて赤く腫れ、左の頬は嘔吐物塗れ。髪も乱れ、ドレスの肩紐はずれ、先程までの気品なんてどこにもない。
「うふふ、それが本当の貴方っていうことかしらね? とても活き活きしてるわよ? 勇者の仲間なんて、本当はやりたくもない立場なんでしょう? 自分を押し殺して、周りになんとか合わせて、凡庸を気取ってるけど、本当の貴方は今なんでしょう? どうして無理に合わせているの? 全て解放してしまえばいいじゃない。うふふ、押し殺したところで本当の貴方はいずれ露わになってしまう。そうして全て喪ってしまうのは分かりきっているじゃない。なら、最初から隠さなければいい。ずっとそっちの方が楽よ」
「何訳分からないこと言ってやがる」
「だって、貴方、今嗤っているもの」
……何を訳の解らないことを言っているんだ。
俺は今、憤怒にかられている。あの子を痛めつけたこいつを、止め処なく溢れる憎悪に身を預けて殺そうとしている。
そんな俺が笑っているわけがないだろう。
俺の顔は殺意に歪んでいる。そうあるべきだろう。
俺の心を読み取っているかのように、トリエラは目を細め俺を嘲った。
「無理しなくていいわ。いいのよ。あの子のため、そういう理由があれば、貴方は本当の貴方を存分に解き放てるんでしょう? あの小娘の死を利用して、好きなだけ自分の欲望を満たせるんでしょう。いいじゃない、それで」
「黙ってろ!」
俺はあいつの死を利用なんてしていない。俺は本当に、あいつを弄んだこいつを殺したいと思っている。
ただ、それだけのはずなんだ。
「貴方、きっと魅力的な悪党になるわ」
「ふざけんなっ!」
叫んだ途端、俺の手から柔らかい髪の感触が消え失せた。はっとなって顔を上げるが、そこにはもうトリエラの姿がない。
クソ……逃げられたか……。
さっきのは逃げるための隙を作るための芝居だったのか?
ふざけたこと抜かしやがって……。
気にするな、あれは嘘だ……。俺はこの状況を楽しんでなんかいない。
今はあいつを殺すことに集中しろ……。騙されるな。これじゃ相手の思う壺だろう。
殺すことだけを考えて行動しよう。せめて今だけでも意識の外に置いておこう。
ふと、ホールの中心から金属が打ち合わせられる音が耳を劈く。クロームとトリエラが再び交戦を再開したようだ。
視線を向けると、トリエラからは傷が消えており、髪も整い、嘔吐の後さえ残っていない。
自身の再構成は、全ての状態を初期化できるわけか……。面倒な相手だな、こりゃ。
対処法が見つからなければ倒すことも難しいぞ……。
どっちにしろ、俺もクロームに協力しなければな。
クローム一人に任せるわけにはいかない。剣と煙管をぶつかり合わせる二人の元へと俺も駆け出す。
クロームのデュランダルとトリエラの煙管がぶつかり合い火花を散らす。同時にクロームは左手にレイピアを精製し、トリエラの心臓目掛けて突きを放つ。しかしレイピアは虚空を穿ち、トリエラの姿は忽然と消えている。
背後にトリエラが再構成され、クロームの後頭部に向かって煙管を振り上げた。
まずい、と思ったその瞬間、宙を舞ったのはトリエラの右手――二人の間にはカトラスが突き刺さっていた。
上空に精製した剣を飛ばしたらしい。
一拍遅れて、肘から下を切断されたトリエラの右腕が地面にぼとりと落ちる。
腕の断面から血飛沫が舞う。すぐさま飛び下がろうとするトリエラにクロームが振り返りながら、剣を振り抜く。
左腕の手首が斬り飛ばされ、鮮血が迸った。
「うぐっ!」
さらに左手に構えたレイピアの刺突がトリエラの右肩へと突き刺さる。同時に上空で銀色の閃光が走り、三振りの剣が精製され、トリエラへと降り注ぐ。
「ふざけた真似をっ!」
トリエラの姿がエーテルに分解され、俺達では視認できないレベルの極小の粒子レベルへと成り果てる。飛来した剣だけがクロームの目の前に虚しく突き刺さる。次に再構成されたのは、宙へと舞い上がった自身の左手首のすぐ側であった。
両手のないトリエラは器用にも手首に噛み付き、すぐさまエーテルへと分解される。
そして地面に落ちた右腕の前に再構成されたトリエラは繋ぎ合わされた左手で腕を掴み、止める間もなく消え失せた。
……クソ……切断しても無意味なわけか……。
ふざけやがって……。
「斬っているのにキリがないな」
遅れた駆けつけた俺に、クロームはそんな自嘲的な皮肉を呟く。
「試し切りには丁度よさそうだな」
「その発想はなかったな。どれ、では試してみるとするか」
言って、クロームは左手のレイピアをエーテルへと分解し、新たなる剣を精製する。再現されたのは、刀身の幅が俺の肩幅と同程度の広さを持つ大剣だった。刃に当たる部分は全面が鋸のような細かい歯となっている。
「なんだその剣?」
「いや、《万物の記録(アカシックレコード)》に記録されているものでな」
「なんでもあんだな……」
「だろう。人間相手に切れ味を試すいい機会だ」
クロームの唇の端が不敵に吊り上がった。まるで肉の裂け目のような不気味な笑みに、俺の背筋がぞくりと震える。
ギラギラとしたクロームの眼の輝きに嘘はなかった。
餓えた狼のような捕食者の笑みだ。
「全く……勇者の名前も本物のようですわね」
トリエラの声がホールの奥から聞こえる。また、踊り場に戻ったようだ。突如現れたトリエラに、その場でしゃがみ込んでいたベラクレートが引き攣った声を上げて飛び退く。
全く、完全に空気だな、あの男は。
「タネのない切断マジックをやるつもりはない。いい加減、斬り捨てさせてもらうぞ」
「できるのならどうぞご自由に」
クロームの言葉にトリエラはにっこりと微笑み、煙管から紫煙を呑み込み、虚空へと吐き出す。
やはり、傷一つない。俺が蹴った頬も今はもう真っ白だ。
クロームが斬った腕にだって傷跡は見えない。
殺すという心で向かっていってはいるが、それができないんじゃ意味がない。
あいつは一撃で絶命するような傷さえ負わなければ、いくらでも逃げられるんだしな。
普段の立ち回りはおざなりだというのに、致命傷に関してはきっちり避けていきやがる。
分かりきっていたが面倒な相手だ。
「どうせ、貴方達には勝てないんですもの。今は亡きお嬢さんのために精々意趣晴らしすればよくてよ。何回撃っても斬っても、ムダですものね、うふふ」
あんにゃろう……ふざけたことばかり言いやがって……!
あいつはきっとあの子の死なんて何とも思っていないんだろう。村人の死さえどうでもいいに決まっている。
むしろほんの暇潰し程度のことなのかもしれない。
だからこそ、赦すわけにはいかない……。
クロームも最早挑発を聞き流す余裕がなくなっているらしく、歯を食い縛り静かに一歩踏み出す。
「ふざけるなよ……貴様に――」
「いい気になるのもいい加減にしろ、この雌猫がぁっ!」
突然の咽喉を枯らすような怒鳴り声に、俺もクロームも眼を瞠る。トリエラもまた同様だった。
視線がホールの最奥、トリエラよりもさらに向こう側、手摺りに縋るようにして立ち上がったベラクレートへと向けられる。
腰が抜けているらしく手摺りに完全に寄りかかったベラクレートは恐怖か怒りのどちらかに唇をわなわなと震わせながら、人差し指を突き付け血走った目でトリエラを睨み付けていた。
「どうかなさいましたの? ベラクレート卿?」
呆れかえったトリエラはため息混じりに、それでも慇懃な口振りで肥え太った豚へと問いかける。
「何を気取っているんだ! 私は、貴様が私を不老不死にするというから、この計画に手を貸してやったんだぞ!? なのに、これはなんだ!? 貴様らのせいで勇者なんぞに目をつけられてしまったではないか!」
トリエラがうんざりした顔でもう一度ため息を吐き出し、両手を広げて肩を竦める。この世に数ある呆れの感情表現を出来る限り詰め込んだような呆れ方だな。
「あー、はいはい。勇者はどうせ殺すのですから、それでいいじゃありませんの」
「だったらさっさと殺せぇっ! 余裕ぶっている暇があるのならさっさと殺せ! この雌猫が! そして早く私を不老不死にしろっ! あんな屑どもはどうでもいいが、私の使用人まで差し出したんだ! 何が何でも永遠の命にしてもらうぞ!」
「はぁ……はいはい。やればいいんでしょう、やれば」
額に手を当て、おざなりに返答したトリエラは煙管を指先でくるりと一回転させる。雁首の先端、煙の吐き口にぽうっと青白い光の球が浮かび上がった。
あれは……さっきも見た村人の魂じゃねぇのか?
嫌でも視線を惹きつける魔性の魅力を持った光球を凝視し、ベラクレート卿は気味の悪い引き攣った笑声を漏らす。
「おお……そう……それだ……! それを早く私に寄越せぇっ!」
「はい、承知致しましたわ」
トリエラは煙管を片手にベラクレート卿へと歩み寄り、雁首を脂ぎった額へと近づける。
「それではベラクレート卿、さようなら」
途端、煙管を勢いよく振り上げたトリエラはその先端を力任せにベラクレート卿の眉間へと叩き込んだ。
「う……うが……! な、何を……」
「ベラクレート卿申し訳ありません。実は、魂は当然のように、高濃度エーテルの塊であるわけでして――よほどの才能がない限り、肉体も精神も保たないんです。然るべき処置をしてから、と思っておりましたが、一刻も早くという願いに答えるためには仕方ありませんことよね」
媚態を作ってわざとらしい謝罪をするトリエラに、ベラクレート卿の目が見開かれる。
まんまと騙されていたわけか。あのおっさんも。
「ガンマよ」
「あんだよ」
「俺は今、非常に不服であるがトリエラに賛辞を送りたい」
「あー、俺もだ。いい気味だぜ。精一杯感謝の宴を開いた後に参加者全員であの小娘をタコ殴りにしてやりたいくらい感謝してる」
別に良心は傷まない。永遠の命だとかいう幻想のために、罪もない村人を犠牲にしたような奴だ。
どうにでもなってしまえばいい。
殺す手間が省けただけのことだろう。
ベラクレートの額に青白い球が沈み込んでいく。肥え太った芋虫のような指が自身の額に爪を立てて、何とか掻き出そうとしているが脂ぎった表皮が掻き取られていくだけだ。
「魔女が……! 騙しおったな……!」
「仕方ありませんわぁ、ベラクレート卿。大いなる犠牲の上に成り立つのが成功とは限りませんのよぅ。うふふ、来世への教訓になったではありまんかぁ。よかったですわねぇ。来世は家畜としての人生をお楽しみあれ」
「お、のれ……雌猫が……」
「雄豚に言われたくないのですわぁ」
恨み言も冴えないベラクレートの額にエーテルの塊は完全に沈み込んだ。同時にベラクレートの両目から、口から、鼻から、耳から、眩いほどの光が溢れ出す。
「うごあ……!」
ベラクレートのぶくぶくと太った身体がよろける。光はさらに強さを増し、豚の全身さえもが光り始める。
「肥えた豚が光源でなければ綺麗だったな」
「肥えた豚じゃなけりゃな」
俺もクロームも、大してベラクレートの末路に興味はない。クロームもいくら勇者といえど、あいつの犠牲に心を痛めるつもりはないようだ。フリをするのもバカらしいしな。
光は尚も弱まることを知らず、ホール全体を照らすほどだ。あまりの眩しさに俺も目を細めずにはいられない。そうして一際眩い閃光が破裂するような音と共に瞬き、俺とクロームは手で光を遮り目を閉ざした。
ベラクレートの断末魔の叫びが聞こえた気がする。それも濡れた破裂音が邪魔してよく聞こえやしない。聞きたくもなかった。
光が過ぎ去り、ちかちかとする眼で何度か瞬きをして周囲を見渡す。ベラクレートはどうなっただろうか?
踊り場の方へと目を向けると、そこには変わらずトリエラの姿があった。そしてその背後は恰幅のいい人型……まさか、成功でもしちまったのか?
しかしその予想が外れていたことは、人型のシルエットを観察することですぐに分かった。
頭から生えた奇妙に曲がりくねった二つの角、広すぎる肩幅、前のめりになっているため分からなかったが身体もベラクレートより遙かに大きい。顔の中心には平べったい鼻があり、二つの穴からは荒い息が絶え間なく漏れていた。
……ありゃ……なんだ?
「うふふ、よかったですわねぇ、ベラクレート卿。生まれ変わる前から家畜になるなんて思いませんでしたけど」
トリエラが実に愉快そうに上機嫌な笑声を零している。
ありゃ……ベラクレートだったものなのか……?
人と豚を足して割ったような姿の化け物が鼻を鳴らす。円らな両目は血走っていて、涎を振り撒くだらしのない口からは鋭い牙がはみ出していた。
剥き出しの身体は分厚い筋肉に覆われ屈強で、腰にはベラクレートが着ていたものと思われる豪奢な布が巻かれている。
「何がどうなってんだよ……こりゃ……」
「何ってベラクレート卿ですわよ。少しワイルドになってしまいましたけれど、こちらの方がずっと魅力的ですわ」
何がそんなに面白いのか、トリエラは楽しそうに笑い煙草の煙を味わっている。これも予測済みの事態だったわけか……。
「イメチェンにもほどがあんだろ……」
「笑えない冗談だな」
俺の苦し紛れの冗句をクロームは鼻で笑う。
「笑える冗談があんなら俺に教えろよ、この状況でさ」
「そんなことに頭を悩ましている暇があるか。もっと有益な事を考えろ」
言って、クロームは剣を構える。
豚の化け物もそのつもりらしく勇ましいことに踊り場から直接飛び降りて、ホールへと着地する。大理石の床がその重量と衝撃にひび割れ盛り上がる。
うへぇ……ぞっとするね……。
「相手が人間なら良心も痛むが、化け物ならば容赦なく斬れる。都合のいい相手だ」
「ああ、いいねぇ。ぶった斬るだけでいい奴はさぁ。羨ましいよ、本当」
何にせよ、あれはトリエラの忠実な下僕と化しているらしい。生かしておく価値もない。
遠慮なく戦わせてもらおう。
なんでこう次から次へと面倒が増えるのかね……。
化け物の雄叫びがホールに響き渡り、俺達へと突進してくる。俺は銃を構えながら後ろに下がり、クロームが駆け出す。
誰も救えず、救われない戦いは月さえ見守ることもなく続いていく。勝者なんてどこにもいないんだろう。