1Cr Drudgery―白黒徒花―
04.#A757A8 Th―群咲の魔女―Verse 15
「俺は、お前達を救えなかったんだぞ……何故、責めない……? お前にはその権利がある……」
それでも尚罰を求めるクロームに、看板娘はくすりと笑い、そっとその顔に頬を寄せた。
「クロームさんは助けようとしてくれた。勇者であるクロームさんにできないってことは、きっとそれは他の誰にもできなかったことなんです。だからいいんです。そんな私達を助けようとしてくれただけで。ね? クロームさん。いいんです。これで、いいんです」
平凡な少女だと、出会った時から思っていた、本当にどこにでもいるような普通の少女で、特に目立った特技もなく、ひたむきさと純粋さだけが取り柄のような奴なんだろうな、と俺は決めつけていた。
でも、実際はどうだ?
この子は俺達よりもずっと強い心を持っているじゃないか。
こいつの心に比べれば、俺達こそが凡人だった。力に頼って、何かを解決することしかできない俺達とは違う。こいつはその心だけで俺達を救っている。
あまりにも情けない話だよな、本当に……。
「ね……だから、クロームさんは……世界を……うっ!」
突然、看板娘の顔が苦痛に歪んだ。
大きく膨らんだ腹部を押さえ、呻きを上げながらその場にしゃがみ込んでしまう。
「おい! どうした!?」
即座にクロームが肩に手を置き顔を覗き込むが、看板娘は答えることもできずに苦痛に喘いでいた。
「いけません! もう時間が……!」
「クソ……ふざけやがって……」
毒づいて、何かできるわけでもないのに、俺は看板娘へと駆け寄っていた。俺が行ったところで何かが変わるわけではないくらい分かっている。またなんかしようと考えることさえできずにいる。
それでも駆け寄らずにはいられなかった。
「おい! 大丈夫か!?」
そんなバカ丸出しの問いかけまでしちまう自分がみっともなくてしょうがない。どう見たって大丈夫なわけがない。それでも聞かずにはいられなかった。
少女の全身からは汗が浮き出て、荒い呼吸をしながら呻き声を漏らしていた。押さえられた腹部がぼこぼこと蠢いている。胎内から何かが押し上げている?
何が?
分かりきったことだろ……!
バカか、俺は……!
「が、ガンマさん……」
呼びかけられて俺は顔を上げる。少女は激痛に顔を歪め、涙目になりながらも、それでも俺に笑いかけていた。
どうしてなんだよ……なぁ……。
「なんで……お前は笑ってんだよ……」
「どうして、でしょう、ね…………うぐぅ……!」
痛みの波が激しいのか、なんとか絞り出していた声も苦しみに掻き消されてしまう。
「ほ、ほら……わた、しみたい、な……なに、もできないひとは……じ、じぶんで、なに、かをする、なんてでき、できませんから……せ、せめて……わらって、ま、まえむきにいき、る……どりょく、をするし、か、ないんです、よね……あはは、なんて、いったみたり……」
「何言ってんだよ……!」
こんな時でも笑っていられるものなのかよ……。
少女の太股の内側を液体が伝っていく。破水? いや、僅かに紅が差している……血も混じっているのか……?
立っているのもやっとのようで、俺とクロームの支えがあってようやく立っているような状態だ。
この場合は……横にした方が楽になるのか……?
クソ……! んなこと自分には一切関係ないと思って、調べたこともまともにねぇぞ……。
どっちにしても無理に起こしておくよりは横にした方が楽だろうか……?
どっちが正しいのか分からないまま、俺はとりあえず自分の判断で少女の身体をゆっくりと横たえてやる。
胡座をかいた自分の脚に背中をかけさせ、頭を下から手で支える。
少女の身体が小刻みに震えているのが、全身に伝わった。きっと俺なんかには想像できないほどの痛みが少女の中でお構いなしに暴れているんだろう。だというのに、少女は俺の顔を見上げて、必死に笑みを絶やさなかった。
「め、めんどうおかけ、します……」
「気にすんな……バカ。何かできることはあるか?」
俺は年端もいかない少女に、なんで意見を求めてるんだろうな。いつもムダに回転している頭もパニくってるせいで思考を纏めてくれない。
一番大事な時にどうしてこうなんだろうな。
「じゃ、じゃあ……ちょっと、てを、にぎってもらって……いい、ですか……?」
「あ、ああ……」
力なく上げられた手を俺はなるべく力を入れないように握る。すると看板娘からは考えられないほど強い力で握り返された。
少しばかり予想外だったけど、それでもその痛いほどの力に応えるように、俺も手に少しだけ力を込めた。
そこに何の意味があるのかは分からないけど……。
何故か俺に対して満足気に微笑みかけた少女は、首を巡らし傍らにしゃがみ込むクロームを見上げた。クロームは今にも泣き出しそうな顔で、それでも絶対に涙を一滴たりとも流さず、少女の顔を見つめていた。
「はぁ……はぁ……く、クロームさん……どうか、じぶんを、せめない、で……ください……。あなたが……あなたたちが……わたしたち、を……たすけよう、と……してくれ、た……。そ、それだけで……すご、く……うれしいんです……」
いつの間にか駆け寄ってきていたセシウとプラナにも笑いかけた、看板娘は再びの激痛に歯を食い縛りながら呻きを上げた。
「こんな時にまで人のこと気遣ってる場合かよ……!」
「あは、は……それも……そうかもしれませんね……。でも、ほんとうに……そう、なんです……。だか、ら……みな、さんも……じぶんを、せめないで……くだ、さい……。みなさん、は……うっ……く……っ……なに、も、わるくなんて……ないんです……」
「もう無理しないでっ!」
セシウがくずおれるようにしゃがみこみ、そのまま撓垂れかかるようにして看板娘へと抱きつく。その顔はもう涙でぼろぼろだ。
泣きじゃくりながら縋るように抱きつくセシウの頭を、空いた手で撫でながら、やっぱり看板娘は笑っていた。
「セシウさん……ありがとう……わ、わたしなんかのために……ない、てくれて……。が、ガンマさんと……な、なかよく……して、ください、ね……」
「え……?」
思いも寄らない言葉をかけられて、セシウは少女の顔を見つめる。涙で濡れて真っ赤になった瞳は、驚きに見開かれてる。
まさか、俺もそこで名前が出てくるとは思わず驚いてしまっていた。
「おふた、りは……おにあい、ですか、らね……」
そう言って、看板娘はまたにっこりと笑う。本当にこいつはどこまで経っても人の心配しかできないのか……。
こんな時でさえお人好しすぎる看板娘の姿に、セシウは大粒の涙を流しながら口元を手で覆い、それでも必死に何度も何度も頷く。口を覆った両手、その指の隙間からは堪えきれない嗚咽が何度も何度も漏れていた。
もう話すことも儘ならないんだろう。いや、一度声を出してしまったら、悲しみを抑えきれず声を上げて泣いてしまいそうなのかもしれない。
看板娘は最後に、俺達の輪から外れて独り立ち尽くすプラナへと目を向けた。プラナは小さな拳がさらに小さくなってしまうほどにきつく握り締めて、唇を噛み締め、微動だにすることなく看板娘を見つめていた。痛みを我慢するような顔で、涙を堪えるように目を細めたまま、ただじっと弱っていく少女を見ている。
今、あの子の小さな胸の中にはどれだけの悲哀が詰め込まれているのだろうか?
俺には分からない。
「ごめんなさい……私には、貴女を救う術がありました。組成式も私の脳髄に保管されている。それでも私には貴女を救うことができない。私の力が足りないばかりに、私は貴女を見殺しにすることしかできない」
薄情とも思えるほどに淡々とした口調で、プラナはただ事実を告げる。それは冷酷なことなんだろう。優しさとは程遠く、偽善で本人が悦に浸れるわけでもなく、また言われた側からその一瞬だけでも救われるような言葉でもない。
それでも俺は責められない。
今にも泣き出しそうな顔で、それを気取られないように抑揚をつけず話すプラナを誰が責められるか。
今、こいつはきっと、看板娘に責めてほしいと思っているんだろう。自分のせいで救えない命から、責められ、罵られ、貶されてしまいたいのだろう。
同じ事を二度と繰り返さないように、自分を戒めるために。
しかし、責め苦を求めるプラナに対しても、看板娘は微笑みを絶やさなかった。それはある意味、最も残酷な仕打ちだったのかもしれない。
「わたしには……まじゅ、つのことは……よく、わからない、ですけど……でも、プラナさんがむり、なら、きっとそれは、しょうがな、いこと……なんです、よ。それ、に……みごろ、し、なんて……いわない、でください……。みなさん、に……看取ってもらえる、なんて……わたし、ぜいたくすぎじゃ、ないですか……?」
えへへ、と看板娘は無理に笑ってみせる。時々苦痛に顔を歪めながらも、それでもまた力強く元気に穏やかに笑おうとする。
それでも、俺の身体にかかる温もりはどんどんと重くなっていく。もう、自分の身体を支えることさえ難しくなってきているんだろう。だというのに左手は尚も俺の手を強く握り締めている。
まるで残り僅かな生にしがみつくようにして……。
「……こんなすがた、を……みられちゃったのは、ちょっとはずかしい、けど……でも、あなたたちに、みまもられ、ながら……なら……いいじゃ、ないですか……。みにあま、る……ほど、ですよ……うあ……ッ!」
「こんな時に何を言っているんですか!? わ、私は……貴女を助けることもできないんですよ……!? 私のせいで……貴女は……!」
未だに弱音を吐かず、責めることもしない看板娘にプラナが声を荒げる。でも、感情が堰を切って溢れてしまった以上、最早悔しさだけを堰き止めることはできず、少女の声は嗚咽に掻き消されてしまう。
泣き顔を見せないようにプラナは俯き、フードを引っ張って顔を覆い隠す。それでもおとがいへと流れる涙の筋だけは隠せない。
「だれのせい、でも……ないです、よ……。プラナさん、も……わるくない、です……。だから、そんな……に、せめない、で……くださ、うっく……あぐっ……!」
一際強い痛みに襲われたのか、少女の細い身体がびくんと撥ねる。握り合っている手に予想外の痛みが加わり、一瞬砕かれるんじゃなかろうか、とさえ思ってしまった。
歯を食い縛り痛みに耐え、波を沈めようと少女は肩を上下させながら荒い深呼吸を繰り返す。
「ぷ、らな、さん……わたしたち、みたいなよわ、いひとたちにも、とっておきのおまじないが、あるん……ですよ……?」
「え……?」
「それは……ぷらなさんみたい……な……すご、いまじゅつしさまには、くだらない、ものかもしれない、けど……わたしたち、には……とっておきの、じゅもん……なんです、よね……」
そうして少女は脂汗で汚れきって、ぼろぼろで弱々しい顔で、懸命に笑顔を見せた。
「それは……『ありがとう』……ていう、じゅもんなんです……。それだけ、で、みんな……しあわせに、なれるんです……だか、ら……ありが、とう……」
……なんで……なんでこいつはこんな状況で、俺達にお礼を言ってられるんだ?
最後の最後まで責めてくれればよかったのに……。
どうしてこいつはこんなに笑顔で……どうして俺達を憎まない……?
それどころか、トリエラに対して恨み言さえ言いやしない。
おかしいだろ……そんなの……。
「が、がんま……さん……? どう、して……そんなに、かなしそう、なんです、か……?」
「お前はどうしてそんなに笑顔なんだよ……」
弱々しく問いかけてくる看板娘を見つめ、俺はかろうじて言葉を吐き出す。
目の前に命があるのに、それすら救えない。分かりきっていた事実が、俺の心をずたずたに斬り裂いていた。
俺の問いに、やっぱり看板娘は曖昧に笑った。
「どうして、でしょうね……? えへへ……」
また看板娘の手に力が入る。今も激しい痛みを必死に耐えているんだろう。先程から何回も俺は少女の苦しみを感じていた。
それでも笑顔を絶やそうとすることはなく、少女はできるだけ明るく振る舞っていた。苦しみを感じ取っていながら、何もできない自分が不甲斐ない。
「がんまさん……さいごに、ひとつだけ……わが、ままをいって……いい、です……か?」
「なんだよ……。なんでもしてやる……」
どんな願いでも叶えてやりたかった。遠慮深いこの子の最期の我が儘一つ叶えられなかったら、俺達は本当に何もできないまま終わってしまう。
せめて、何か一つだけでも、少女を満たしてやりたかった。
「わた、しを……すくって……くだ、さい……」
「え……?」
「たすから、ないのは……わかってます……。だか、ら……いちばん、ひどいすがたになっちゃ、う……まえに……おねがい、です……わた、しを……」
それが……お前の最期の我が儘だっていうのかよ……。
奥ゆかしく、謙虚で、朴訥としたお前が、最期に叶えて欲しい願いがそれなのかよ……。
クソ……なんで、なんで……こんな子が……こんな目に遭わなきゃいけねぇんだよ……。
こいつが何をした? 何がいけなかった?
どうすればこうなることを避けられたんだよ……。
もし時を遡れるのであれば、今すぐ摂理をねじ曲げて、こいつの手を引いて、他の全てを投げ出してでも救ってやりたい。
村を捨て、森を抜け、山を越え、草原を駆け、できるだけ遠い場所へと連れて行ってやりたい。
でもそれを少女は望まないんだろう……。
躊躇に視線を彷徨わせるが、少女の縋るような瞳が視界の端にちらついてしまう。
……何を迷っているんだ、俺は……。
間違った行為だってことは分かっている。正しいものではないことは分かっている。
だけど、もしこの子がそれを望んでいるのであれば、俺は叶えてやるしかない。
何より、この子の踏み躙られた尊厳、その最後の一片を守り通すために。
「……いいんだな?」
「……はい……」
か細い声で、それでも力強く少女は頷いた。
俺は他の三人の顔を見ることもなく、ただゆっくりとホルスターから銃を引き抜いた。
「ガン、マ……? 何してるの……?」
涙に湿り震えた声で、セシウがおずおずと問いかけてくる。俺は返事をすることも、目を向けることもせず、慣れた手つきでセーフティを外し、口で遊底を押さえて弾丸を薬室へと装填する。
「ねぇ……? ガンマ……? うそでしょ……?」
俺は答えない。
セシウも分かりきっているんだろう。それだけが少女を救済しうる最後の手段だということを。
だから、受け容れがたい真実を否定する答えを俺に求めていながら、決して力尽くで止めようとはしてこない。
クロームも、プラナも、同じなのだろう。
汗ばんだ手でグリップを何度も握り直す。そうやって避けられない結末を先延ばしにしながら、なんとか決心をつけようとしていた。
でも、どんなにグリップを握り直しても銃は手に馴染まない。まるで銃さえもが行為を拒否したがっているかのように。
でも、それじゃあ、ダメなんだよな……。
せめて、出来る限りのことをしてやらなければならない。
平素の力加減を忘れ、力任せに銃を握る。力みすぎているせいで銃口はかたかたと震えていた。
情けない……情けないよな……本当。
そんな頼りない銃を、俺は自分の膝の上に横たわる少女へと向けた。
どこに銃口を当てるのか、しばし迷ってしまう。
顔には向けたくなかった。死に顔は綺麗にしてやりたい。
こんなに傷だらけになってしまっているけれど、それでも看板娘の顔を傷つけることは憚られた。
なるべく苦しませずに死なせてやりたい。やっぱり、狙うのは心臓か……。
少女の胸に銃を向ける。痛い思いを出来る限りさせないために、銃口は看板娘の身体から僅かに離した。
でもそのせいで、銃はかたかたと震えていて、まともに撃てるかどうかも怪しかった。
……クソ……止まれよ……。
震えてる場合なんかじゃねぇんだよ……。
勇者の仲間なんだろ?
こんな時くらい、らしく振る舞ってみせろよ……。
演じるのは、偽るのは、得意じゃねぇのか?
こんな時にできなくてどうするんだよ……。
何度も何度も唾を飲み込んだ。口はやけに渇いている。咽喉に何かが詰まっているかのように息がし辛い。
咽喉の奥からこひゅーこひゅーと掠れた呼吸音が聞こえる。
だっせぇな……。
そんな震える銃身を、そっと肌荒れの酷い繊手が握り締めた。水仕事ばかりでボロボロになってしまった看板娘の手だった。
「がんまさん……なきそうなかお、してます、よ……」
くすくすと看板娘は悪戯っぽく笑う。もう憔悴しきっているっていうのに、どうしてそんな余裕があるんだろうか……。
俺は――釣られたように、そっと笑みを零す。ちゃんと笑えてるかどうかは分からないけど、俺の中では笑っていた。今はもうそれでいい。
「うるせぇ……」
俺は銃口を軽く振って、少女の手を払う。
最後くらい、しっかりやらねぇとな……。
銃はもう震えていない。震えてはいけない。
引き金に指をかけ、そっと少女の心臓に銃口を向ける。
もう誰も、俺を止めようとはしなかった。
セシウも嗚咽こそ漏らしているが、覚悟は決めたらしい。
ゆっくりとしんと冷えた夜気を吸い込み、肺の中に溜まった鉛のような空気を全て吐き出す。
少女の目を見つめる。荒い呼吸を繰り返す少女は目に涙をいっぱいまで溜めながら、じっと俺を見つめていた。
握る手に力が籠もる。怖くないわけがないんだ。こいつだって怖いに決まっている。それでも一人の人間として死ぬために少女が選んだのなら、俺はその選択に従うしかない。
俺は、ゆっくりと、それでも決して力を緩めることなく、引き金を引いていく。
「ありが、とう……がんまさん――」
俺は答えることはせず、ただ絡め合わせた視線だけは絶対に解かなかった。最後、引き金を一息で引き切る。
――好きです
声が聞こえた気がした。
でもその声は、銃声に掻き消され、現実のものなのかどうかさえはっきりとはしない。
ただ、撥ねた鮮血が、俺の頬を叩いた。硝煙の匂いが鼻を衝いた。
それだけは、間違いなく事実だろう。
握り合った手に感じていた痛みを今となっては本当にあったのかさえ分からなくなるほどに綺麗さっぱりなくなっていて、少女の微笑みも今となっては消失した。
消えた。何もかもが。
あるのはただ一つ――人間の、亡骸だけだった。
死に顔は、穏やかだった。
眠るように安らかで、今にも目覚めそうなほどだ。
顔を撃たなくてよかった、と思う。そんな顔で死ねたのなら、俺の行為も無意味ではないと思えそうだった。
そんな思い込みも赦されそうだった。
少女の胸の谷間を鮮血が滴る。止め処なく溢れた絵の具のような赤が、少女の白い肌を滑っていく。
青に透けるような白い肌と赤黒い血液の対比はどうしてか美しく、惨いものとは思えなかった。
ああ、お前の死は美しいよ。
汚くなんかない。
綺麗なままに死ねたよ、お前は。
それで、よかったんだよな?
問いかける相手も、答える人も、今はもういない。
記憶に刻み込むように、事切れた少女の裸身を見ていくと、腹部に先程までなかったはずの突起物があった。
黒い何かだった。腹部からまるで生えているかのように思える。
目を凝らせば、すぐに分かった。
それは深々と腹部に突き刺されたナイフの柄であった。
今になって、頭はいつも以上に良好な動作をし始めていた。思考が冴え渡り、深く考えるまでもなくそのナイフの意味を理解することができた。
クロームがやったのだろう。
少女の胎内の卵が孵化することを防ぐために。
「……クローム……」
俺は少女の顔に目を向けたまま、静かに呼びかける。
「……心臓が止まった後だ」
言葉足らずなこいつの言葉も今は理解できた。ナイフは、少女が事切れた後に刺されたものだったか。それならよかった。無用な痛みを感じることはなかったんだろう。
「穢させたくなかった」
腹部に深い傷はできてしまったけれど、魔物に胎内を蹂躙されるよりはマシだろう。少女が死んだところで、卵まで死んでくれるわけではないのだ。
クロームの判断は正しい。この状況での行動としては何も間違っていなかったはずだ。それが全体として正しいわけではないけれど。
もしかしたら、殺すことなんてせず、最後まで抗うべきだったという人もいるかもしれない。俺だってこれが善だとは思わない。
だけど、俺は、もっと早く殺してやるべきだったとさえ思ってしまっていた。こんな苦しみを受ける前、できるなら触手に拘束され意識を失っていた頃に、何も知らないままで殺してしまうべきだったのかもしれない。そうすれば余計に苦しむこともなかっただろう……。
俺はそっと絡み合わせた、少女の手を外す。そうして少女の身体を少しだけ持ち上げ、胡座をかいていた脚を引き抜いて、そっと地面に横たわらせた。
立ち上がり、未だにその場に座り込み、見開かれた瞳で看板娘を見つめ続けるセシウへと目をやる。
「……そいつを……頼む……」
セシウは返事をしなかった。
あまりにも辛いことばかりが起こりすぎた。茫然自失となってしまうことを責めるつもりはない。そうなる気持ちも分かるし、そんな状態に陥ることができる正常さに安心さえした。
代わりにプラナへと目を向ける。プラナもプラナで今にも泣き出しそうな顔でわなわなと震える唇を力一杯噛み締めていたけれど、それでも確かに、力強く頷いてくれた。
あの子は、二人に任せよう。
俺達は、俺達のするべきことをしなければならない。
看板娘を背に向け、セシウの脇を通り過ぎ、俺はエントランスホールの最奥を睥睨する。隣にはいつの間にかクロームが立っていた。
何を言うこともなく目配せをし合うこともなく、俺達はただあいつを睨み付けていた。
今もまだ、艶然と上機嫌に微笑み続けているトリエラを。
煙管から紫煙を漂わせながら欠伸をかいていたトリエラは俺達の存在に気付き、くすりと子供のように笑った。
「あら? もう終わりましたの? 青臭すぎて、退屈で、飽き飽きしてましたの。冗長なのは嫌いですわよ。もう少し乱れてくれれば面白かったというのに」
俺もクロームもトリエラの言葉には答えない。ただ示し合わせたわけでもなく、俺達二人は同時に歩き出していた。
「ガンマ……分かっているな」
「分かってるよ」
もう、殺さない配慮なんてしてられる状態じゃなかった。
仮にも勇者一行。一般人を殺すことは出来る限り避けたい。例えそれが殺人鬼であろうと極悪人であろうと、生かして捕まえるようにありたかった。
悪を裁く権利を持っているからこそ、それを濫用せずにいたかった。
だけど、それももう限界だ。
俺もクロームも、あいつを殺さなければ気が済まない。八つ裂きにしてやらなければ収まらない。