1Cr Drudgery―白黒徒花―
04.#A757A8 Th―群咲の魔女―Verse 14
「来ないでっ!」
前髪を握り締め、思考を巡らせている最中、背後から悲鳴のような声が聞こえて俺達は振り返る。
クロームが頬を押さえたまま目を瞠り呆然としていた。突然の出来事に理解が追いついていないようだ。
そしてクロームの目の前には身体を起こした看板娘の姿があった。ジャケットで身体の前を隠し、腕は振り抜いたまま下ろされていない。
看板娘に平手打ちをされたのは明白だが、なんでまた?
俺達四人の顔を見回し、目のすぐ下までクロームのジャケットを引き上げた看板娘は立ち上がって俺達から数歩下がる。
何かに怯えるような、そんな動きだ。
「おい……どうしたんだよ……」
「お願いします……! 来ないで下さい……!」
一歩近付こうとする俺に、看板娘は懇願するような声を悲痛に絞り出す。その必死な否定に、俺もそれ以上近付くことはできない。
……おいおい、何があったっつぅんだ……。
「どうしたんだ? お前のことはクロームが助けてくれた。何も気にすることなんて……」
「そうじゃないんです! そういうことじゃ……ないんです……! だって……私、私……ま、魔物に……!」
言葉の後半は嗚咽交じりになっていて、最後にはその声さえも途切れてしまった。看板娘は顔にクロームのジャケットを押し当てしゃくりを上げ始めてしまう。
セシウが俺に指示を求めるように顔を窺ってくるが、俺は首を横に振っておく。今は下手に刺激しない方がいい。
俺達はこの子にかけるべき言葉なんて持ち合わせていない。全ては俺達の責任だ。クロームを始め、全員がそれなりになんとかすることができる力を持つ連中が、一夜のうちに抵抗することもできずに、身も心も蹂躙された非力な少女にどんな慰めの言葉をかけろというのだ?
俺達四人は身に危険が迫っても、自分の身をある程度守れるだけの力と技量を持っている。危険に身を晒す覚悟だってしている。
でもこいつは違う。
そんな覚悟なんてしていなかっただろうし、もし自身に危機が迫ったこいつはただ恐怖に震えながら嵐が通り過ぎていくのを待つことしかできない。
そんな少女が一夜にして受けた惨劇を、俺達がどうやって取り消せるというのだ?
今、こうして、理性を保てていること自体、本当は信じられない部分もあるんだ。ずっと理性を手放さないように耐えてきたんだろう。
クロームも、俺も、かけるべき言葉なんて見当たらない。どんな言葉だって、この場所では薄っぺらい。俺達が言ったところで何の価値もない。
こいつを救済できるのは、こいつと同じ仕打ちを受けてしまった弱者だけなのだ。
でも、そんな奴は今ここに誰もいない。
弱者は一人残らず死んでしまった。誰もいないのだ。もう何もない。
そして、だからこそ、今こうして助け出し、尚も救いきれない人の心一つ、俺達は癒すことができない。
……あまりにも情けなすぎる話だ。
俺達の掲げた正義は、こんなにも脆く弱いものだったのか?
悔恨に沈み俺の隣に、背後に立っていたはずのプラナがいつの間にか立っていた。今にも泣き出しそうな顔で、下唇を噛み締めている。
「……ガンマ、まずいです」
「まずいことは分かってるよ……」
「そうじゃありません。何故、あの子が目覚めたということがまずいんです……おそらく卵の魔力が活性化しています」
……プラナの前だというのに、俺はつい舌打ちをしてしまう。後悔に浸らしてくれるような生温さは、どうやら世界にないらしい。
分かりきってたことだけどさ。
「孵化が近いってわけか」
「猶予は、もう……助けることも……」
「そうか……」
それ以上を、プラナには言わせなかった。言わせたくなかった。これ以上こいつに辛い思いをさせたくなかった。
クロームにも、セシウにも、苦しみを与えたくなかった。
せめて、俺は、あの子の心だけでも救済してやらなければならない。
こんなことをしでかしてしまった者として、せめてそれだけはしてやりたかった。
せめて? せめてってなんだ?
結局、自分の苦しみを、罪悪感を少しくらい軽くしたいだけなんじゃねぇのか?
そのためにあいつを利用するのか? そんな行為こそ腐ってるんじゃねぇのか?
そう思うと、たった一言さえ言葉をかけることができない。してしまえば、自分がとても汚い人間に成り下がってしまうような気がする。
こんな時でも綺麗にあろうとする俺は、どんだけ最悪なんだろうな。もうとっくに汚れきってるっていうのによ。
自分で自分が嫌になるな、本当に。
俺達は誰も優しい言葉一つかけられない。どんなことをしたって助けられないのは分かっているから、優しい嘘一つつく覚悟もできなかった。
もうそんな簡単な嘘を突き通すことができないほどに俺達は疲弊しきっていた。
嗚呼、なんてことだろうか。
俺達は諦めてしまっていた。少女を助けることが不可能だと理解してしまった。
抗うことを放棄してしまった。
その時点で、もう全ては確定したのだろう。
「どうして……どうして……よりによって……。なんで、なんで……ガンマさん達なんですか……! 一番見られたくなかったのに……!」
掠れた声で、看板娘が呟く。絶望に彩られた、涙に濡れた声で。
どうしてお前なんだ、って思っているのは俺も同じだ。お前じゃなければよかったのに。
この村に来て、一番時間を共有したのはこの子なんだ。例え、この一件で犠牲になったとして、こいつの死に様だけは見たくなかった。
情報なら受け容れることもできたんだろうが、現実としてこいつの死を目の当たりにして、認識してしまうことだけは絶対に避けたかった。
なのに、どういうわけかお前だけが生きてここにいて、最も凄惨な形と成り果てていた。
俺だって直視したくなかった。看板娘だって見られたくなどなかっただろう。
尊敬している人が、恋慕しているであろう人に最も見られたくない姿なのだろう。
見てほしくない相手が、唯一少女をあの場所から救い出せる力を持っていたというのも皮肉なものだ。
「どうして……助けたんですか……? こんな姿を見られるくらいなら助けられたくなんてなかった! 独りの方がよかった!」
俺達を責めるわけでもなく、ただこの場所に広がる現実を否定するように少女は叫ぶ。でもそんなことしたって、この現実は変わらない。
少女の悲痛な声に、セシウは顔を歪めている。きっと同情しているんだろう。あいつは人の痛みが分かる奴だから、どうしても悲しみを感じてしまう。
なのに俺はなんで、こんなに冷静に思考してるんだろうな。
後悔だの、自責だの、憐憫だの、人間らしい感情を持っておきながら、俺はこうやって普通に事態を分析している。
思考が感情に染め上げられることもなく、考えることを続けられている。気持ち悪い奴だな、本当に。
「見過ごせるわけがないだろう」
ぽつりと誰かが言った。詰まった咽喉から、無理矢理声を押し出したような声だった。
その声の張本人は今、俺達の先頭に立ち、拳を握り締めていた。震えもしない背中、でもそこに冷たさはなく、ただ力強さがあった。
ジャケットに顔を埋めていた看板娘がおずおずと顔を上げる。
殴られて青痣のできている頬、腫れ上がった左目、傷だらけでかつての朴訥とした可憐さなんてものが消えかかった顔。それを見るだけでも心が痛んだ。その上涙で顔はぼろぼろで、あんなにも優しかった微笑も今はない。
「あんなお前を見て見過ごせるわけがないだろう。お前を助けないわけにはいかないだろう」
クロームが一歩、歩み出る。少女は震える足で一歩下がる。その顔には自嘲するような笑みがあった。看板娘にこんな疲れた笑いをさせてしまっている事実もまた、俺達の心を抉る。
こんな顔ができない子だったように思う。
「あなたが勇者だからですか?」
卑屈な問いだった。
目を伏せ、涙を堪えるようにしながら看板娘は濡れた微笑を絶やさない。
トリエラが行った仕打ちは、確かに少女の心を穢したのだろう。世界の悪意というものを少女に染み込ませたのだろう。
横目でトリエラの様子を窺う。
あいつは今も欄干で頬杖をかき、静観を決め込んでいる。ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて、俺達の苦悩を悠然と鑑賞していやがる。
あいつだけは絶対に殺してやる。
「あなたが勇者だから助けたんでしょう? 私の気持ちなんてどうでもよくて、ただ勇者として助けなければいけないから助けたんでしょう? ただ自分が勇者であるために、私の気持ちなんて考えることもせずに助けただけ――」
「違うっ!」
吠えるようにクロームは看板娘の言葉を遮る。勇者を勇者たらしめる威厳を具現化させたような衝撃さえ感じる声に、看板娘の肩がびくんと撥ねた。
「そうじゃない。そんなことのためだけにお前を助けたわけじゃない」
力強い足取りで拳を握り締めたまま、クロームは看板娘へと歩み寄っていく。足早に近付いてくるクロームの拳を見て看板娘は暴力が来ることを予想し、肩を縮こまらせて目をぎゅっと閉じた。
今、俺からはクロームがどんな顔をしているのかは分からない。もしかすると鬼のような形相をしているのかもしれない。
それでもクロームは決して罪なき人に手を上げない奴だと俺は思っている。看板娘だってそれは分かっているはずだ。
ただ、これまでに受けた容赦のない暴行が植え付けたトラウマが、人を一途に信じるという尊い感情を少女から奪っていた。
そんなところまで哀れで、大切に取っておいた宝物をなくしていた時のような喪失感が、俺の胸にぽっかりと穴を空けている。
「勇者だから? 違う。そんなものはどうでもいい。お前の気持ちがどうでもいい? そんなわけがあるか。そんなことできるわけがない」
クロームが近付くほどに看板娘は拒絶するように下がろうとするが、その場所から逃げだそうとはしていなかった。
怯えた瞳がクロームをずっと凝視している。
やがてクロームは看板娘の目の前で立ち止まった。あと一歩も踏み出さないうちに身体が触れ合ってしまいそうなほどの距離、クロームは看板娘を見下ろしていた。少女は勇者を見上げていた。
「どうして助けたか? そんなのは簡単なことなんだ。確かにこれはエゴなのかもしれない。でも勇者としてのエゴじゃない。俺としてのエゴだ」
クロームの声音は先程までとは打って変わって柔らかいものであった。少女を気遣うような、繊細な声でクロームは語りかけていた。
「どういう、ことですか……」
恐る恐る、少女が訊ねる。その最中、クロームは両手を少女へと伸ばし――
「お前が、俺達にとって大切な人だからだ」
細すぎる裸身を抱き寄せていた。
突然のことに肩から覗く少女の目は見開かれていた。状況をまだ理解しきれていないのだろう。
俺だって理解できていない。
「え……?」
看板娘が弱々しい声を漏らす。その声はあまりにも情けなく、瞳はきょろきょろと動き回って必死に理解しようとしている。
抱き締められている。そんなことはとっくに分かっているんだろう。そんなことになったわけが分からないのかもしれない。
「ゆう、しゃ……さま?」
「お前が大切な人だから助けたいと思った。そこに嘘はない。俺達はお前に感謝している。ありがとう、本当にありがとう」
「そん、な……そんなこと……」
クロームの両腕がより一層強く、看板娘の肢体を抱き締めた。その命を手放さないようにしているのか、その温もりを記憶に刻みつけようとしているのか、俺には分からない。
「わ、わたし……私は……」
「すまなかった。もっと早く助けにこれればよかった。いや、本当はこんなことになる前にお前達を助けるべきだった。……全て、俺の責任だ。俺達が無力だったばかりに……」
クロームの声に感情の変化は見当たらない。いつも通りの抑揚の少ない声だ。だけど、どうしてだろうか?
その声を聞く俺達の心には、苦い疼痛が生まれていた。
あいつの背中がとても痛々しいものに思えて、見ているこっちが辛くなってくる。
あいつはあの背中に、どれだけの十字架を背負っているんだろうか?
「そ、そんなことないです……! 勇者様は私達のために……」
「そこに何の意味があるというんだッ!」
こんな時でさえ他人を気遣うような看板娘の言葉をクロームは遮る。びくり、と看板娘の細い肩が撥ねた。
「そこに……一体、何の意味がある?」
クロームの声は僅かに震えていた。
今までどれほどまでの感情を押し殺し、あいつは勇者としての振る舞いを続けていたんだろう。
自分自身を壊してしまうほどの自責を抱え、襲いかかる不条理の責任を自分一人に背負い込ませ、それでも尚、勇者として毅然とあろうとし続けていた男が見せたあまりにも深すぎる苦しみを、俺程度が推し量れるわけもない。
「お前達のために戦おうとした。お前達を絶対に守ろうと決意した。そうして死に物狂いで戦った……。それでも、結果がなければ意味なんてない……。俺はお前の村を救うこともできず、みんなも救えず……今ここでようやく救えたお前の命さえ助けられずにいる……すまない……本当にすまない……」
きつく抱き締められた看板娘はクロームの言葉で全てを理解したのだろう。
今にも涙で滲みそうな声で謝るクロームの横顔を見つめ、やがて少女は安らかな笑みを零した。この状況には不釣り合いなほど穏やかで温かい、慈母のような微笑だった。
少女は知ったはずだ。自分はもう助からないのだと。クロームの謝罪が全てを示している。
なのに何故、あの子はあんなに穏やかなのだろう。
力なく下ろされていた少女の両手が上げられ、優しく包み込むようにクロームの背中へと回される。
「クロームさん、私達のためにそこまでしてくれて、本当にありがとうございます」
そっと静かに、子供でもあやすような声で看板娘はクロームに語りかける。クロームを抱く手は、ぽんぽんと穏やかなリズムで背中を叩いていた。
「そこまで想ってもらえただけで、私は幸せです。ありがとうございます、クロームさん。あなたの想いはムダなんかじゃない。私にとって、いいえ、きっとみんなにとっても十分すぎるほどのものです。ありがとう……本当にありがとう」
死を目前にしていることを分かっているはずの少女の言動に、俺達は言葉を失っていた。
なんで、こいつはここまで強くあれるんだろうか? なんで、こいつはここまで他人を思い遣ることができるんだろうか?
少女の言葉を俺達の膿だらけの心さえ温かく包み込み、そっと癒していた。
心から想う。こいつを喪いたくない、と。
こいつが今ここで凄惨に死んでいくことを許容したくなかった。
なんていう皮肉だろうか。
勇者一行として持て囃されていた俺達は少女一人救うことができないというのに、何の力も持たない少女一人が俺達の心を救済している。
おかしな話だ。
三文小説みたいなもんだ。
くだらない。
なのに、なんで、こんなにも視界がぼやけるのだろうか……。