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 翌日の早朝三時半。
 その時間まで一睡もせずに過ごした真桐零は、ナイフの手入れを終え、エリア三に向かうことにした。
 零はいつも通り黒色のロングコートを身に羽織った。
 恋歌は既に就寝している。彼女を起こさないよう足音を立てずに玄関に向かう。が――
「零〜、行ってきますくらいいいなよー」
 突然の声に振り返ると、リビングの隣にある部屋から恋歌が顔を出していた。パジャマ姿で、おまけにいかにも眠そうな顔をしている。
「……お前、まさかずっと起きてたのか?」
「うん。零が出かける時、ちゃんと行ってらっしゃいって言う為にね」
 寝ぼけ眼を指で擦りながら、恋歌は言う。
「それより、黙って出て行こうとしたでしょ?」
 眠たげな顔だが、その目は真剣だった。
「……」
「やっぱり。気を使われるのは嫌だって知ってるでしょ? まったく、二年の付き合いなのに、未だにそういった気の使われ方をされるなんてね」
「……悪い」
 自分に非があったと理解したのか、零は小さく零した。
 そんな零を見て、恋歌は薄く笑った。
「ちゃんと帰ってきてよ?」
 それは、精一杯の愛情を篭めた問い。
 美島恋歌という女性の心からの願いだった。
「――あぁ、約束する」
 だから、零もちゃんと返答できた。
 ――こんなに想われているという実感が、零の弱い心に灯をともしてくれるのだから。
「じゃあ、行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい」
 
 ◆

 深夜の最中。エリア四の町並みは静謐な世界を形作っていた。
 自分の足音がやけに甲高く聞こえる。それは聴覚が向上したかのような錯覚。
 街灯は灯っていないのに、徐々に視界は鮮明になる。それは視覚が向上したような錯覚
。  だが、やはりそれは錯覚に過ぎなかった。
 足音が大きく聴こえるのは、単に周りが静かだから。
 視界が鮮明になっていくのは、目が闇に慣れていったから。
 しかし零は、そういった錯覚に疎かった。
 言うならば、ただの錯覚を本物だと実感してしまう質なのだ。
 それは、彼の持つ『未知の異能』――【封殺】がそういった錯覚を実感させているに過ぎない。
 人間の『存在の因』を封じ殺すことのできる零は、そのような様々な錯覚さえ正しい認識だと理解してしまう。
 こうして歩いている街路も、目に映る闇色の町並みにも――存在の因は在るのだから。
 しかし、それが真桐零の当たり前だ。
 この閉鎖街で生きている限り、この未知の異能は強制されてしまう。
 閉鎖街に辿り着いた頃は、正反対にこの封殺の力を行使して、強者になろうとしていた。弱者を殺して、殺して、殺して。自分が圧倒的な強者だと証明する為に。
 しかし、零は気づいたのだ。
 この力が使えるのは閉鎖街だけの話で、この街から出て行くと力は消失してしまう。
 ……零は、閉鎖街に来たばかりの五人の中の一人に言った言葉を強く反芻する。

 ――この町で弱者を殺すことによって、強者になることができる――
 
 ――閉鎖街に来たばかりの人間は皆同じだ――
 
 ――強者へと成立させたい感情を持てても、それは強者だと錯覚していることに気づけない――
 
 ――俺達は、ただの弱者だ――

 あれは、紛れも無い自分に宛てた言葉だったのだ。
 真桐零は弱者だ。ともすれば一般人よりも弱い心を持っているかもしれない。
 どれだけ強い力を持っていても、その力に溺れてしまった馬鹿野郎だから。
(こうした自虐こそが、俺を弱くしてるんだろうな……)
 零は自嘲するような小さい笑みを刻む。
 気づけば、いつの間にかエリア三とエリア四を区切る境界線まで来ていた。
 境界線の付近には、エリア四の仲間の一人が配置していた。
 筋肉質の体型をした短髪の男――龍城は、零を発見すると即座に立ち上がって頭を下ろした。
「お疲れ様です、零さん!」
「龍城(たつき)。お前も少しは睡眠を取れよ」
「そういうわけにもいかないですよ。昨日だって、真桐景に三人殺られたんですから。誰かが見張っておかなければいけないでしょう?」
 龍城の言葉からは、自分に対する意識は感じ取れなかった。
 しかし、それでも罪悪感が襲うのは間違いないことで。
「……すまないな。あれを止められなかったのは俺の責任だ」
「い、いえ! そんなことありませんよ。たとえ兄弟だとしても、零と真桐景は違う人間なんですから」
「そんな俺が、あいつと手を組むことになったわけだ。その内、信用も無くなってくるさ」
 自虐する零だが、龍城はその言葉に賛同はしなかった。
「恋歌さんを殺すって脅されたんでしょう? それなら仕方ないですよ。零さんの大切な人なんですから、俺だってそこら辺は理解しているつもりです。それは、皆同じ気持ちの筈です」
 龍城は真剣な顔でそう断言した。
 事実、此度において零が景と手を組むことになった件でも、誰ひとりとして零を責めてはいなかった。
 景によって仲間の三人が殺されたとしても、皆それを許容したのだ。
 この閉鎖街において死は日常茶飯事である。この街で生きる人間はその掟を弁えている。ゆえに仲間が殺されたとしても情が移ることはない。
「そうか。――なら、安心した」
 一言呟いて、零は二つのエリアの境界線を踏み越えた。

「――なぁ。俺達はいつからこの街に染まってしまったんだろうな」

 零は振り返ることもなく、誰に宛てたかも分からない言葉を発した。


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