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 午後三時を過ぎ、零と恋歌は遅めの昼食を食べ終わった。
 その後はお互いに各々の時間を過ごしていた。
 零はソファーに座って、愛用しているナイフの手入れを行っており、恋歌は箒で各部屋の掃除をしていた。
 二人の間に言葉はない。というより、恋歌が声を掛けていないことで、零が反応しないだけだった。
 二人が行う会話では、決まって恋歌が声を掛ける役回りとなっている。元々零は口数が少ない方であり、声を掛けられた時くらいしか滅多に言葉を喋らない。
 そんな、決して社交的とはいえない彼がエリア四を統べる統括者として選定されたのは、ある理由が存在する。
 それは他のエリアの統括者も同じく。彼らは一般的な血統能力者とは根本的に異なる異能を備えているからである。
「……」
 不意に、ナイフの手入れを行っていた零の動作が止まった。
 そして、普段の無表情とは違い、どこか殺意を孕んだ貌へと変わっていった。
 その貌は、すでに戦う者、殺す者としての面構え。
「恋歌」
 丁度、自分のいるリビングの床を掃いていた彼女に眼差しを向け、零は低い声で話しかけた。
「どうしたの、零?」
 彼から話しかけられるのが稀有なことであり、それがよほど嬉しかったのか、恋歌は笑顔で応対する。
「悪い。少しリビングから席を外してくれ」
 突然の促しに、恋歌は目を瞬かせた。
 しかし、零がそのようなことを言うのは何か理由がある。二年の付き合いだ。零の放つ言葉の不器用さは誰よりも自分が知っている。
「お客さんだね。分かった。じゃあ、ちょっとあっちの部屋に行ってるよ」
 箒を片手に、恋歌はリビングと通じている隣の和室に移動して襖を閉めた。
 その理解力は、もはや感服の域にまで達しているかもしれない。
「――」
 コツ、コツと。このアパートの階段を上ってくる微弱な音が確かに聞こえる。
 足取りは軽やかで、弾んだものと思えた。その足音は除々にこの家に接近している。
 殺意。
 ピリピリとした、殺意の衝突。
 まだ対面してすらしていないというのに、零とその男は互いに純粋な殺意を放ち続ける。
 静とした、無音と無声の最中。この家の扉の前で足音が止まり、零は手入れを終えたナイフの刀身を仕舞ってロングコートのポケットに入れた。
 ガチャ、という金属音。
 それと同時に姿を現した、赤い髪の男。
「よっ! 久しぶりだな、零!」
 純粋な、それでいて懐かしさを含んだ笑顔を浮かべて、真桐景が家に入ってきた。
 しかし零は、その笑顔が何か嫌な思惑があるものだと思わずにはいられなかった。

 対面を果たした真桐零、そして真桐景。
 同じ一族に生を授かり、幼少期を共に過ごした双子の兄弟。
 しかし、その在り方は全くの正逆――いや、もはや対極と言えるだろう。
 零は射貫くような視線で景を見据え、二つの質問をする。
「エリア三の統括者が何の用件だ。いや、それ以前に、境界線に待機させておいたヤツらはどうした?」
「うん? ――あぁ、あいつらね。殺したよ」
 零の問いに一時の間が生じたのは、つい先ほど――わずか三十数分前――の出来事を完全に忘れていたからだ。
 景がいとも簡単に言い放った言葉に、零はさらなる殺意を放つ。
「そんな怖い顔すんなって。あいつらが弱者だったんだからしょうがねーじゃん。大体、境界線に血統能力者を配置させなかった零が悪いと思うぜ? クイックドロウを放つにしても一秒以上掛かるのは遅すぎる。いや、それ以前に――俺っていう存在を知らなかったあいつらに非があったと思うんだけどなぁ」
 唇の両端を吊り上げながら、景は愉快気に言う。
「まあ、お前ん家に来たのはそんなことを話すためじゃないんだけどな」
 言いながら、景は静かな足取りで零の座っているソファーの前に立つ。
「零。今日の一時半頃、お前は閉鎖街に来たばかりの弱者を封殺したらしいじゃねーか」
「……どこで聞いた?」
「ウチのエリア全域の情報担当を担ってるヤツから。二十三人が殺されたらしいな。そいつらは、いずれも血統能力者ではない一般人。まあ、エリアの秩序を守ることがお前の使命らしいからな。封殺されたヤツらは不運だったとしか言い様がない」
 未だ笑みを浮かべたまま、景は淡々とした口調で話を紡いでいく。
「で、俺はその力を借りにきたってわけ」
 景は、零の肩にポンッと片手を置く。
「どういう意味だ?」
 眉を顰めながら零は怪訝に問う。
「まあ、簡単な話だって。『兄貴』」
 ここにきて、景は初めて『家族』と接するかのような態度に変えた。
「実はさぁ、俺の『お気に入り』がエリア三から誘拐されたんだよな。お前も知ってるだろ? ほら、一年ほど前まではお前に懐いてた女」
「――」
 零は無表情のまま、過去の記憶を掘り起こしていく。自分に懐いていたエリア三の女性。
「――夜風静巳(よかぜしずみ)、か?」
 そうそう、と彼女のことを忘失していなかったことに満足げに頷く景。
「俺のお気に入りの中でも最上位に位置する女だ。で、明日からあいつの奪還作戦を開始するんだけど、その作戦に兄貴も加わってほしいってわけ」
 思いもよらなかった言葉に、零の表情が少しばかり揺らいだ。
 エリア三は、このエリア四よりも血統能力者が集っている。その連中を使えば良いのに、エリア三の統括者がわざわざこのエリアにまで訪れ、そのようなことを頼み込んできた。
 ということは。
「何人殺られた?」 
 零は率直に尋ねた。
 景は笑顔を保ったまま「五人」と、こちらも端的に答えた。
「その全員が血統能力者だ。……ったく、俺の物を勝手に殺しておいて、さらには最高のお気に入りを誘拐するとは、全く想定してなかったぜ。それで――」
 と、景の笑顔が跡形もなく消え失せ、目を細めて零を見下ろした。
「協力するか、否か。とっとと答えてもらねーかな、兄貴?」
 一瞬で。
 ジーパンに挟み込んでいたナイフを取り出し、零の首元に切っ先を当てる。
 答えを間違えたら殺す。真桐景という人間性、人格性を考えてみれば、その答えに辿り着くのは容易だった。
「――」
「それとも、恋歌ちゃんが殺されてもいいのかなぁ?」
 景は襖で仕切られた部屋を横目で見据え、ただ笑う。
「――殺らせると思っているのか?」
 景の言葉で、零の殺意が増幅していく。
「俺は別に、ここで殺し合ってもいいぜ? 兄貴との殺し合いなんて久々だし、愉しめそうだ」
 互いに譲らない状況が続き、それは永遠の時間とも思える。
 そして、零が出した答えは――
「分かった。協力する。ただし――」
 零も同じく、一瞬でコートのポケットからナイフを取り出し、切っ先を喉元の一センチ前に突き立てた。
「次に恋歌を殺すといったら、お前の存在記録を完全に抹消する」
 恋歌を守れる唯一の存在として。
 恋歌に救われた無二の存在として。
 零は、実の弟に対して最終警告を行った。
 その言葉に、景は一瞬だけ目を瞬かせた。
 しかしそれも一瞬だ。
 その顔は、すぐに歓喜を想像させる、狂気的な笑みに変わる。
「――へぇ。閉鎖街に来て少しはマトモになったじゃねーか、零。無能者だったあの頃と比べると、在り方がはっきりとしてるぜ。それも、この町で『未知の異能』を発現できたからか?」
「――」
 零は景の問いに応じない。
 そんなことはどうでもいい。
 ただ、恋歌を傷つけるヤツは容赦なく封殺する。
 二年前に、そう誓ったのだから。
「おっし、じゃあ交渉成立だな! いやいや、恋歌ちゃんを殺すなんて冗談だって! 本気でそんなことするわけねーじゃん!」
 途端、景は笑顔を浮かべてナイフを仕舞った。
「恋歌ちゃーん! 二人きりの時間を邪魔して悪かった! 俺はもう帰るから、思う存分零とイチャついていいぜー!」
 思いっきり余計な言葉を放ち、景は玄関口へと歩いていく。
「じゃあ、明日の早朝五時にエリアの境界線に来てくれ。俺の部下にもちゃんと零のことを伝えておくから、誰も封殺すんなよー」
 そう言い残して、景は片手を上げながら扉の向こう側へと消えた。
 そして途端、奥の襖が開き、頬を赤らめた恋歌が現れた。
「……えっと、景さん帰ったの?」
「ああ」
「そ、そっか。じゃあ、掃除再開するね」
 どこかぎこちない表情を浮かべる恋歌に、零は一つため息を漏らした。
 ――それから小一時間、恋歌は零とまともに顔を合わせられなくなってしまった。

「さて、これで戦力としては充分だな」
 零の自宅を後にした景は、エリア四の町を出ようと境界線へと向かおうとしたのだが、不意にその足が止まった。
「……うーん。このエリアに来るのは久々だし、ちょっとだけ町をうろつこうかな」
 予定になかったことだが、景は気まぐれでそんなことを思いついた。
 元々、真桐景という人間は気まぐれな――常識を逸しているともいえる――性格で有名だった。現在地であるエリア四はおろか、『塔』が存在する『絶対危険地帯』であるエリア一にも頻繁に足を運んでいる。
 自由気ままに。己がしたいがままの行動を取るのが彼の主義だ。そして行く手を阻む者は容赦なく殺すという冷酷さも持ち合わせていた。
「おっし、久々にあいつの所に顔出してみるか!」
 元エリア三の滞在者であり、昔の仲間。彼は今、このエリア四で一人暮らしをしている。その実力はエリア三の血統能力者の中でも群を抜いていた。景としても、密かに右腕として誇りに思っていたほどだ。
 景は内心、どこか高揚を覚えながら、その者の自宅へと向かった。

「えー、留守かよ〜!」
 その者の自宅に辿り着き、玄関のドアノブを回した景だったが、生憎と外出中らしく鍵が掛かっていた。
「久々に話でもしようと思ったんだけどなぁ……」
 はあ、と心底がっかりしたように重いため息を漏らす景。
「仕方ねぇ。自分のエリアに帰るとしますかね」
 弾んでいた足取りが、いつしか緩慢なものになっていることに気づかず、景はエリア三へと戻ることにした。


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