思えば。夢は放課後の教室から始まった。
何で泣いてるのって、自分を心配してくれた。
彼女はいつも笑っていた。
その心に、誰よりも孤独を抱え込んでいながらも。
雪の降る日。
二人きりの教室で、彼女はこう問うた。
――楽しかった? 嬉しかった? 哀しかった?
そして、彼はこう偽った。
――楽しくて、嬉しくて、哀しかった。
◆
夜空を見上げていた。
灰色の満月は光り輝いている。立ち込める黒雲の隙間から覗かせるその月を見た
しかし、地上はそれ以上の眩しい光で溢れ返っていて、無心の内に抱いた感想はガラガラと音を立てて崩壊していった。人工的に設置された様々な光。忙しなく明滅するそれらを、鏡夜は興味なさげに観察する。……やはり、天然モノと人工モノでは抱く幻想も異なるんだなと、実感と痛感が入り混じった感情を覚える。
鏡夜は、町の繁華街を独りで歩いていた。視線はどこへ巡らせても、人、人、人。幾多の人々で繁盛している。午後九時を回った現在、繁華街は様々な人間が集う場所として機能していた。
たとえば、風俗店の客引きをしている若い男性。
たとえば、屋台で酒に溺れている中年のサラリーマン。
たとえば、街灯の前で嘔吐している見知らぬ誰か。
それらをただの傍観者として観察していた鏡夜は、脳裏である連想をした。
――この人間達は、自分とは隔絶された世界に存在する者達だと。
思考する事柄も、行動原理も、その在り方さえも。この繁華街に入り浸っている人々の中で、鏡夜の存在理由と近似、また適合する者は一人として存在しないだろう。
単調な足取りで歩いている鏡夜は、自分がこの繁華街から不在しているように思えてならなかった。まるで自分が幽霊にでもなってしまったかのような、そんな自己疑念が彼の心を侵害していく。
しかし鏡夜は、外的に侵害してくるその不快感を理性で抑え留める。……精神的疲労は免れないが、自分が自分である為には、こうして、理性を正常に保たせるしか手段は無かった。
言ってしまえば、それが千堂鏡夜という人間であった。
生きている実感を持ち得ない人間。正常な人間とは異なる在り方を用いている人種だった。
(――だけど、それは事実だ)
自身に言い聞かせるように心中で呟く。その、ある意味最上級に値する自虐的思考を巡らせているにも関わらず、彼の表情に変化は生じなかった。
無関心、無愛想、無感情の三拍子が揃った、『無で作られた人間』。彼が通っている学園では、そのようなあだ名が密かにつけられていた。
そして、 生きている実感を持ち得ない彼に在るのは、ただ現在を生きるという使命だけだった。
逆に言うならば、今を生きなければ鏡夜は生きていない――生きるべきではないのだ。
幼少期に告げられた言葉は、今も記憶の断片として心に残っている。
不意に、その言葉を思い出してしまった鏡夜は、微かに口を歪ませた。……このような自虐的思考を駆け巡らせている時点で、彼は『負けている』という事も理解しているというのに。
――と。不意にどこからか視線を感じた鏡夜は周囲を見やった。左右に首を回した結果、一人の小さな少女が驚いたように目を見開いて自分を見据えていた。
(……誰だ?)
見たこともない少女にじっと見据えられ、さすがの鏡夜も多少の不快を覚える。彼は交錯する視線を自分から外し、その少女の存在を忘却することに努めながら、その場を後にした。
道崎市(どうざきし)の東区には、広大な敷地を誇る河川敷公園が存在する。この町と隣町を繋ぐ鉄橋も架けられており、河川の向こう側に行くには、この鉄橋を渡るしか手段はなかった。
しかし今、用があるのはこの河川敷公園だけだった。芝生の傾斜を緩慢な足取りで下りながら、鏡夜は無意識にため息を漏らした。
というのも、彼がこの河川敷公園に訪れるのは今日が初めてだからだった。何年間もこの町に住んでいるというのに、自分の無関心さに呆れてしまったが故のため息だった。
鏡夜は周辺を見回す。夜中である事が幸いしたのか、辺りには誰もいなかった。
ゲートボール場やテニスコート、児童が遊ぶ為に設けられた遊具を見る限り、休日には多くの人々で賑わうと容易に想像できた。
(――だが)
そう。それは日が昇っている時だけの喩えだ。
闇夜の最中。風景面を見ると、そこには何の違和感も存在しない。ただ黒という色彩が周囲を覆い、典型的な『不気味』という言葉を表現しているだけだった。
(反応は……確か、この辺りだったか)
――しかし、そんな時。違和感が皆無だった風景面に、物質的な違和感が収束を初め、非日常への扉が開かれた。
鏡夜の内界に宿っている感知能力が、それの顕現を捕捉した。
「きたか――」
故に、呟いた言葉はただ確信だった。
◆
――それは、突然だった。
鏡夜の背後、十メートルほど離れた場所で、それの気配が感じられた。
この河川敷公園の周辺に漂っていた魔気。一般人には視認できない黒色の粒子が収束を始める。その粒子は、螺旋を描きながら存在感を増幅していくことが判る。
最初に現れたのは脚だ。さらに両腕、胴体、頭部と――次々に体の箇所を顕わにしていく。それは、まるで異界からの『門』を通り【現実世界】に現れるかのような光景だった。
――リアル過ぎる。故に、比喩ではなかった。
体は黒く、存在は影のように昏い。
闇の根源である彼らはそれに相当する像でなければならない。
故に、現れた存在は妖的だった。
体格は成人男性と例えれば良いだろうか。しかし、体を覆うその色だけは、決して人間の持つものとはいえなかった。
その存在は、脳天から足の先まで黒色で彩られていた。この夜空などとは比較すべきではない、闇を体現化させた存在。
唯一異なっている部分は、両目の色だけだ。
連想させるのは人間の体液。禍々しく、歪な色彩で構成させられている眼。
黒と赤。その、統一性がゼロな色彩で構成された存在は、鏡夜を視界に捉えた。
『鬼人(きじん)』と呼ばれる者だった。闇の密度が上昇し、人間の負の感情が一点に収束した時、【現実世界】に姿を現す存在。
負の感情には、大きく類別して四種類ある。
――『疑心』、『不義』、『後悔』、『絶望』。
このような、人間を苦悩させようと苛む感情が一固体の生命体となり、彼らは顕現するのだ。
鬼人は、負の感情の集合無意識体である。故に、創り出した者達を襲うという法則が鬼人の排除を目的とした組織――【
星礼会は、鬼人の体を構成している物質を、『自身の邪悪な感情に敗北した』と言葉で表し、【
――創り出したのは人間であり、創られたが故に襲う存在。
この相対関係は、決して変わることは無いだろう。
しかし、鬼人が一般世界に顕現した時。その行動を阻害し、抹殺する者がいるのもまた事実。
鏡夜は振り向いて、鬼人と対峙する。
それが、星礼会に所属する【魔術師】の手によって人工的に作られた、人間を超越した存在――
彼らはこの世に生を授かった時、魔術儀式によって、その内界に在る魔力を強制的に認識させられる。
そして、儀式に成功した乳児は【施設】という封殺者の育成を目的とする機関に監禁され、物心が付き始めた頃より様々な殺人技術を身体に叩き込まれる。
そして、気づいた頃には既に遅い。
何の逡巡も覚えずに、鬼人を殺すという嗜好が身に付いてしまうのだ。
……鏡夜は、あの時の言葉を思い返す。
――鬼人を殺すためだけに生きて、そして死んで逝け――
それは、当時十歳だった少年にとって、呪いに相当する言葉だった。
――しかし。
「それしか、できない」
まるで機械が喋っているような語調で、鏡夜は呟いた。
そう。自分に有るのは、ただそれだけだった。
当たり前の日常を想像する事も、未来を夢見る事も、幸せになる事も、赦されはしない。
それが、今まで何千という数の鬼人を殺してきた彼の罪であり、存在理由でもあった。
「だから、殺す」
鏡夜は、鬼人に敵意を定める。
鬼人と鏡夜の視線が交錯した。
――鬼人は、何も答えない。
ただ、禍々しい赤い眼が鏡夜を凝視していた。
赤い眼は、鏡夜に何も教えない。
赤い眼は、鏡夜に何も語らない。
この存在には、何もない。
――ならば、殺しても良いのだろう。
◆
鏡夜が疾走を開始する。人間の身体能力を超越した優雅な走りだった。
鬼人との距離はおよそ十メートル。だというのに、鏡夜は一瞬でその距離を詰めた。
右の手刀に収束するのは体内に蓄積されてある魔力。鏡夜の意志により物質的変化を成した魔刀が、鬼人の胸部を穿った。
鬼人はびくん、と一瞬だけ体を痙攣させた。突き刺した箇所から溢れ出したのは、鬼人を構成している物質――負邪だ。
しかし、その攻撃だけでは、鬼人は消滅しなかった。
突如、鬼人の体に変化が生じる。右腕の部分が、西洋の槍を連想させる形状へと変態したのだ。
鬼人は負の感情の思念体だ。思念のみで体の形状変態が可能であるのは、負邪という物質が、人間世界で定められた物理法則から完全に逸したものであるからだった。
漆黒の槍が鏡夜の胸元に狙いを定め、放たれた。
しかし鏡夜の表情に変化は窺えない。
彼は槍を軽く一瞥し、瞬時に次の行動を起こす。貫通した胸部から腕を振り切り、胸部の右部分を切断した。そして振るった魔刀は、漆黒の槍を一撃の下に破壊した。
しかし、鏡夜の動作は止まる事を知らない。
槍の破壊を確認した鏡夜は、そのまま体を反転させる。遠心力を利用して、より勢いを持った一撃で首を切断。さらには、左腕、両足と、次々に体の切断を実行した。
――それはまるで、舞っているかのような美しい動作だった。
……気が付けば。
鬼人は原型を留めておらず、無様な肉片へと成り下がっていた。
切断された箇所から溢れ出す漆黒の思念は、夜の空へと消えていく。
鏡夜は毅然とした顔で、鬼人が消滅する様を見届けていた。
それはあたかも、圧倒的な実力を誇る上位者に、下位者が敗れたかのよう。
……そして、鬼人の肉片が完全に消失する寸前――
「夢くらい見ろよ」
鏡夜の感情を表すかのような小さな余韻が、静寂な闇夜に木霊した。
だが、それと同時に。鏡夜の内界で、言い様のない正逆の思考が鬩ぎ合い始める。
――こんな事を続けて、何の意味があるんだろうか。
それは、鏡夜の存在理由を無にしてしまう禁忌の考えだった。
――でも、俺にできる事はこれだけだ。
それは、自分の行為が正当なものだと認識できる考えだった。
――でも、封殺者という鎖が、今の俺を繋ぎ止めているのなら、
――その鎖を断ち切れば、俺はどこへでも行けるかもしれない。
「そんな事は不可能だ。俺は、どこにも行けはしない」
彼の矛盾した思考は相変わらず続いていた。