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 ピピピピッ、という機械音で、鏡夜は微睡みの世界から現実世界へと引き戻された。
 ベッドから身を起こし、除々に意識を覚醒めさせていく。デジタル式の目覚まし時計のスイッチを押し、鳴り響くタイマーの音を止めた。
 ……呆、とした表情で辺りを見回す。
 そこは自分の住んでいるマンションの一室だった。施設の研究員が封殺者となった鏡夜の為に提供した部屋であり、もうかれこれ七年も一人で住んでいる。
 最初の内は戸惑う事ばかりだったが、一年も経てば自然と『自分の家』という認識を持つようになっていた。食費や生活用品を購入する為の資金、そして家賃も施設の人間――さすがに一般人の偽名を使用している――が払っているのだが。
 部屋を見渡す限り、およそ男子高校生の部屋とはかけ離れていると言っても過言ではないだろう。生活用品も必要最低限の物しかない。テレビやテーブルなどはあるが、趣味で集めている物も少なく、あるとすれば、二、三冊の分厚い古書が部屋の隅に積まれているだけだ。これは星礼会本部に訪れた際、図書館から拝借した魔道書である。とは言っても、厳重に保管されていた物ではなく、一般人の目に触れても問題のない世間的にも有名な古書である。
 と、そのように自分の部屋を他人の部屋のように観察していた鏡夜は、もう一度時計を見る。
 現在、午前八時五分だった。学園の閉門時間は八時三十分。このままのんきに過ごしていたら、遅刻は免れないだろう。
(朝食は、食べてる時間はないか)
 鏡夜はそう判断し、壁に掛けている学生服に着替え始める。朝食とは言っても、いつもトースト一枚で済ましている。それならば、食べても食べなくてもほとんど同じだろう。
 鞄を持って、玄関口で靴を履き、もう一度部屋を一瞥する。
「――行ってきます」
 誰に言うでもなくそう呟き、鏡夜は廊下に出た。

 朝の通学路を、鏡夜は独り歩く。
 外気はそれなりに冷え込んでいた。昨晩ほどの寒さではないが、吐く息が白く滲んで見えるのは冬も本番の証だろう。
 もう十二月の中旬だ。そろそろ、雪が降ってきてもおかしくはない。
 元々、鏡夜は冷え性という体質もあってか、この季節はあまり好きになれなかった。
 単調な足取りで歩みを進める最中。考える事も無いので、学校名を思い出してみる。
(――確か、黒堂(こくどう)学園(がくえん)(こくどうがくえん)、だったような……)
 うろ覚えであるのは、学校名など鏡夜にとってどうでも良い事柄の一部であるからだ。入学当初はすぐに思い出せていたのだが、今となっては、頭の片隅に保管している程度の知識だった。
 その理由の一つに、学校に興味がないというのが適切な言葉だった。事実、鏡夜は学校に何の関心も抱いていない。それ以前に、自分には何の利益も獲得できない無価値な場所という認識でしかなかった。
 その学校に通っている理由はただ一つ。封殺者は、一般世界に紛れ込んで存在しなければならないからだった。
 彼らは、世間では一般人と同一の存在として扱われている。封殺者として完成され、一般世界で生きられる見込みがあると判断された場合、十歳以下の歳で学校に通うという事もある。
 実例として、鏡夜は十歳で完成された封殺者と判断され、その歳で小学校に通い始めた。一般世界で生き、日常と非日常での思考の使い分けをできるよう鍛錬を積み、自制心を覚えるのだ。
 無論、鬼人を殺すという嗜好を忘れずに。
 そして鏡夜には――これは他の封殺者にもいえる事だが――両親が存在しない。生まれた時に魔術儀式を行う場に連れて行かれる事から、両親は非日常側の人間だと推察はできる。しかし、施設の研究員は封殺者候補の子供に両親の存在も、その真意も真実も教えることはない。彼らとしても、子供達に不要な情報を与え、余計な感情を抱かせてしまう事だけは避けたかったのだろう。
 だが、人間社会で生きていく過程の中で、いずれはその単語を知るようになるのもまた必然である。
 鏡夜がその単語を認識したのは、十歳の頃――封殺者になって、小学校に入った直後だった。
 そこで初めて授業参観という行事を目にした鏡夜は、いつもと違う教室の風景に混乱しそうになった。
 そして、隣の席に座っていた、大して親しくもない同級生にこう尋ねられたのだ。
 千堂くんの親ってどの人なの、と。
 突然の理解できない問いに、鏡夜は数秒間、沈思した。
 しかし、鏡夜はその言葉の意味を理解してしまったのだ。
 故に、返答するべき言葉が見つからず、その生徒の問いを無視して授業に集中することで気を紛らわせた。
(だけど――)
 そう、鏡夜はただ思う。
 自分には親という存在がいなくてラッキーだった。

 鬼人を殺すヤツが子供だなんて、きっと親が悲しむと思ったから。

 ……ポツポツと。そんな雨音が鼓膜を刺激する。
 一人で色々と考え込んでいたからだろう。空を仰ぐと、いつの間にか暗雲が立ち込めていた。
 なら、雨が降り出してもおかしくはないだろうと納得する。
 十二月に降る雨の冷たさは、春や夏のそれと比較すべきではない。
 冷たい雨滴は、自然の摂理に逆らわずに鏡夜の体を、心までも凍えさせていった。
 おそらく、今日は一日中降り続けるだろうと、鏡夜はそう思った。
 
 学園に到着して、鏡夜は自分のクラスである二年A組の教室に入った。
 それと同時に集中する多くの視線。それは、鏡夜にとって他人に等しいクラスメート達によるものだった。
 しかし、それも一瞬だった。彼らは鏡夜から興味を失ったかのようにHR前の駄弁りを再開させた。
 鏡夜は、自分の席である窓際最後列の席に腰を下ろし、ハンカチで制服に付着した雨滴を拭き取った。
(後は、HRが始まるまで待つだけだ)
 鏡夜の周りにクラスメートが寄り付かないのは、偶然ではない。
 確かに、入学した一年の頃は鏡夜に話し掛ける生徒はいた。しかし、どれだけ接して来られても、鏡夜は意図的に無視を決め込んでいたのだ。
 そんな鏡夜の態度と性格は瞬く間に学年中へと浸透した。そして一ヶ月も経つと、彼に接する生徒はいなくなっていた。
 しかし、鏡夜は自身から孤立を望んだからこそ、意識的にそのような態度を装っていたに過ぎない。
 自分は、彼らと関わるべき人間ではないと自覚していたからだ。
 俺は、日常に生きる人間じゃない。
 俺は、彼らのようにはなれない。
 それが、封殺者としての千堂鏡夜の考えであり、自分の感情を律する方法でもあった。
 ……それでも時折、無意識に教室の風景を傍観してしまう。
 自分の席と、それらを隔てる空間はまるで別世界である。
 そして、鏡夜には決して立ち入る事のできない理想(ユメ)の世界。
 故に、教室で笑顔を浮かべて駄弁っている生徒も、来年の受験に向けて勉学に励んでいる生徒も、鏡夜とは異なる人種だった。
(俺は……)
 あんな風には、なれない。
 彼らが好きな事も、彼らが過ごす日常も、彼らが目指すものも。
 それは、鏡夜には無縁の事柄だ。
 それを知ってしまったから。彼らとは違うと認識してしまったが故の結論。
(なら、独りの方が断然マシじゃないか)
 ……彼らから意識を逸らした鏡夜は、窓の外を眺めた。
 雨は一向に止む気配はなかった。

 時間というものは、呆れるほどに早く進むらしい。
 気が付けば休みが終わり、気が付けば昼休みが終わり、気が付けば放課後になっていた。
 それは、まるで一瞬の時だったかのような錯覚に陥らせる。
 今日、鏡夜がいつも通りに過ごした学園生活も、無意味かつ無価値な時間で終わりを遂げた。
 そして現在。鏡夜は、教室から生徒が散り散りに去っていく光景を呆とした眼差しで観察していた。これから、どんな事柄に時間を費やすのだろう、などと思いながら。
 携帯電話をカチカチといじっている女子。友人と待ち合わせでもしているのだろうか……。
 テニスラケットを肩に担いでいる男子。これから部活に向かうのだろうか……。
 各様、様々な理由があり、教室を後にしていく。
 しかし、そんな当たり前の日常は……程なくして、完全に視界から消え去った。
 無音となった教室にいるのは、千堂鏡夜という孤立を続けてきた生徒。
 孤独。
「それが、当たり前だろう……?」
 誰もいなくなった為か、鏡夜は、微かに震えた唇で呟いた。
 しかし、自分に言い聞かせた言葉は、本音かどうかも怪しい。
 ――無音、無声、無感。
 そんな虚無感が、鏡夜の心を侵すのはいつもの事だ。
 しかし最近になって、暴力的に襲ってくるそれらを理性で抑えられなくなってきた。
 それ故か、覚える恐怖は本物だった。
 この先、自分はこの暴力的な恐怖に抗い続けながら生きなければならないと思うと、死にたい気分に陥ってしまう。
 それでも、鏡夜は自殺を行う勇気など用いていなかった。
 鏡夜に有るのは、鬼人を殺す為に生きるという存在理由だけなのだから。
(……でも)
 そう考えるのならば、自分は中途半端な封殺者なのではないだろうか?
 教室で独りになっただけ。たったそれだけの些細な事で、こんな虚無感に苛まれてしまうほど弱いのだから。
 鏡夜は何年も前から自覚していたのだ。自分は、鬼人を殺す事が虚しくて仕方が無いという存在の否定に。
 そして、自分が矛盾した思考を用いているという事実さえも。
 鬼人を殺す事が存在理由なのに、そうしなければならない意味を自問する。
 自分は日常に生きる事ができる訳がないのに、無意識にそれを期待している。
 孤独に生きるのが当然だと自覚しているのに、それさえも偽りの感情に思えてしまう。
 普通に生きたいという願いさえ、叶わないのに……。
「何なんだ、俺は……」
 掌で顔面を覆って、ため息を漏らした。どうして、こんなくだらない事を考えなければならないのか。
(殺せばいいだけだ)
 そう。殺す事が、鏡夜の存在理由なのだ。
 それだけが、自分の取柄なのだ。
 そう、信じて生きてきたのだ。
 なのに。

 なぜ、頬に涙が伝うのだろう?

 ボロボロと溢れ出す。
 感情の一部である水滴が、木製の机を変色させていく。
 嗚咽は漏らさなかった。自分が無表情なのは、自分自身がよく解っている。
(――あぁ、俺は、こんな感情も持っていたのか)
 そんなものは、いらないのに。
 どうして、こんなにも中途半端なのだろう……。

「泣いてるの?」

 ……不意に。悲哀を感じさせる細い声が、鏡夜の耳に届いた。
 鏡夜は振り向かず、ただ無言で泣いていた。
「……なんで、泣いてるの?」
 その言葉に、鏡夜はただ考えた。
(……なんで、だろう。知っている筈なのに。知らない筈がない、のに……)
 思考の結果、鏡夜はかすれた声でこう呟いた。
「解らない」
 そう。解る筈がないのだ。矛盾した思考を持っていて、それで自分の事を理解しているのなら、こうして『泣く』という行為に至る訳がない。
 と、鏡夜の返答に反応したのか、声の主は足早に席へと駆け寄ってきた。
 鏡夜は横目で、その人物を観察した。
 小さい少女。それが第一印象だった。百四十センチにも満たない低身長に、その小柄な体格に似合う幼さが残る顔立ち。色素の薄い、長く伸ばした髪。
 しかし何より、その哀しげに見つめる表情が、鏡夜の心を一層狂わせていった。
「――何か用か?」
「用ならあるよ」
 少女は、鏡夜の素っ気無い言葉に笑顔で返した。
 その微笑は、純粋で無垢で、邪気を感じさせない。だからこそ一瞬、鏡夜はその微笑みが自分に対してのものだという錯覚に陥りそうになった。
「千堂くんと、お話してみたかった」
 そんな温かい言葉が、何故か嬉しく思えてしまった。
 しかし、その反面。
(駄目だ……。関わってはいけない)
 詭弁だ。俺がこの少女と会話をして得られるものなど何もないんだ。
 そう自分に諭しても、鏡夜は返答してしまった。
「……なんで、俺なんだ?」
 何かに期待をしている自分が在る事に自己嫌悪してしまう。
 それは、少女の嘘偽りのない笑顔を見てしまったからだろうか。だから、そんな言葉を口にしてしまったのだろうか。
「私が、千堂くんの事を知りたいから」
「何のために?」
「……友達に、なってほしいから」
 その一瞬。少女の逡巡した顔を見て、鏡夜の疑心は確定に至った。
「友達作りなら、他を当たってくれ」
「ううん。私は、千堂くんがいいの。……千堂くんは、私と似てるから」
「は……?」
 ……この少女が自分と似てる? そんな筈がない。
 この少女は一般人だ。鏡夜のように、正常な思考を持っていない『異常者』とは違う。
「……俺とあんたの、どこが似ている?」
「他人と関わろうとしないところ。……でも、私の場合、ケースが違うかな」
 そう言って、少女は弱々しくはにかんだ。
「私の場合、誰かを信じて傷つくのが怖いだけなんだけど、千堂くんの場合は絶対の否定でしょ? そうなるのを自分が許せない。そうなった自分を許したくない」
 少女が紡ぐ言葉に、鏡夜は何も返せなかった。
 それは、核心を突かれたように思えたからだ。この少女の言う言葉は全て的確だと思ってしまったからこそ、鏡夜は押し黙ってしまった。
 この少女は、鏡夜の心の奥底を覗いているようだった。
「学園に入学した頃から、千堂くんは私と似てるなって思ってた。だから、ずっと気になってた。……でも、話しかけるキッカが中々なくて」
「じゃあ、何で話しかけた?」
「泣いてたから」
 と。少女は迷い無く、間髪入れずにそう返した。
 瞳が訴えかけるのは純粋な答えだった。それだけが理由、それだけしかないと言わんばかりに。
「千堂くんでも涙を流すんだなって、知ってしまったから。孤独が辛いんだなって、知ってしまったから。だから、話しかけたの」
「……」
 少女の、言葉。
 信じて傷つくのが怖いから。……鏡夜は、過去に似たような体験をした事があった。
 忘却したいあの頃の記憶が蘇りそうになり、咄嗟にその思考を断絶させる。
 そして鏡夜と同じく、この少女はそれを経験してしまった。
 根本の部分では異なるのだろうが、孤独という点でいうなら、鏡夜とこの少女は近似していた。
「今日は、少しでも話せてよかった」
 少女は踵を返す。
「私、遠近(とおちか)(みなと)っていうの。明日からは、ちゃんと話しかけるから」
 最後に柔らかな微笑みを浮かべた少女――遠近湊は、静かな歩調で教室を後にした。
 再び独りになった教室で、鏡夜は何を考えれば良いのか判らず、ただ、思考を停止させていた。

 ◆

 学園の昇降口に出ると、大粒の雨滴が灰色の空から降り注いでいた。
「……雨」
 ポツリと呟く。
 遠近湊は、基本的に雨が嫌いだった。
 雨を目にすると、否応無しにあの日の事を思い出してしまうからだ。
 それは忘却したい記憶だというのに、六年の月日が経った現在でも、雨を目にすると容易に蘇ってしまう。
 故に、湊は頭を振って即座に思考を切り替えた。
 遠近湊が千堂鏡夜を意識し始めたのは、一年前の春だ。
 黒堂学園に入学して、友達を作ろうと決心したあの頃。
 しかし湊は、それを実行する事ができなかった。
 誰かに関心を抱こうとすると、背中の傷が疼き、拒否反応を訴える。
また傷つきたいのか、と。
 湊は、自分の負っている傷が未だ癒えていなかったことを再認識した。
 ……だから、諦めかけていたのだ。
 そして、入学して半月が経過した、ある日の放課後。
 クラスメート達が教室から散り散りに帰り去る様を呆と眺めていると、最後には独りになった。
 いや、独りではなかった。
 窓際に目を向けると、湊と同じく、呆とした様子で外の景色を眺めている男子がそこに在った。
 何を考えているのか分からなかったが、湊は一つの確信を覚えた。
 彼は、自分と同じだと。
 それが錯覚でも、ただの思い違いだとしても、湊にとってはそれでも良かった。
 ……同じ存在が、同じ空間にいる。
 それが、それだけの事が、凄く心地よかった。
 それから、湊は鏡夜を意識するようになった。
 鏡夜は寡黙だった。そして、その孤立性は酷く虚しく思えた。
 そんな鏡夜の在り方に、湊は興味を抱き始めたのだ。
 鏡夜はクラスで孤立していた。……いや、それは彼の望みでもあったのだと湊は思う。
 他人が嫌いなわけではない。おそらく、全くの関心がないのだ。
 関わりを持ってしまったら自分自身が傷つく。故に孤立を選んだのだと、その頃の湊はそう決め付けていた。
 鏡夜はただ、窓際最後列の席に座って窓の外の景色を眺めているか、読書をしているかの二択しかなかった。
 そして、今日もいつものように鏡夜の様子を窺いに言った。
 おそらく、いつもと同じく窓の外を眺めているか、本を読んでいるかのどちらかだと思っていた。
 その姿を見るために、湊は放課後の教室を覗いただけだった。
 しかし、今日は違っていた。

 鏡夜は、泣いていた。

 そこにどのような理由であったとしても、彼にも『泣く』という感情があった事が何より嬉しかった。だから、湊は衝動的な行動を起こして鏡夜に話しかけたのだ。
 孤立を続けてきた鏡夜の心境に、涙するほどの変化が起こった理由が知りたくて仕方がなかったから。
(千堂くんがこの想いを聞いたら、きっと怒る……怒るのかな?)
 もし怒られても、それでも嬉しい。
 それは、鏡夜と関わりを持てたという証だから。
 拒絶で隔てた鏡夜の空間に入る事ができたという証なのだ。
(今の私の気持ちは、ただそれだけ)
 もっと、彼と話したい。
 もっと、彼を知りたい。
 抑制が効かないが、とても素直な気持ちだった。
 これで雨が止んだらもっと高揚していたのかもしれない。
 ……彼と一緒の傘に入れたらな、なんて事を思いながら湊は学園を後にした。

 ◆

 彼は町に戻ってきた。
 以前、住んでいた頃と全く変わっていない街並みを眺める。
 同類が、この街にいる。
 故に、彼は歩みを進めた。

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