翌朝になっての出来事だった。
鏡夜は起床すると同時に、酷い頭痛に苛まれていた。
頭痛を体験するのは初めてに近いが、これは痛いなんてものじゃない。頭の中で何かが響く感覚は、幻聴というモノなのだろうか……。
そして、不意に。
あの人の声が聞こえた気がした。
「痛ッ……!」
……幻聴だとしても、何かがおかしい。
脳裏を駆け巡るのは、七年前の記憶。
完全に忘却したいと努めてきた、忌まわしい過去。
「くそ……」
家に頭痛薬はないから、鏡夜はしばらく辛抱することにした。
カーテンを開けて、窓の外の様子を窺う。
昨晩、深夜まで雨が降り続いていたせいか、未だに空は灰色で染まっていた。
……それと同じく、鏡夜の心は曇ったままだった。
それは、一人の少女の存在が鏡夜の心に刻み込まれたからだ。
「とおちか、みなと――」
呟く。
『明日からは、ちゃんと話しかけるから』
――そんな事を言われても、自分は普通に話せるのだろうか。
何年間も他人と接していなかったのに、そんな提案を出されても、鏡夜は困惑するしかなかった。
その思考は、無知な子供に似ていた。
子供は、生まれた頃は何も知らない。それは、動物であるが故の至極当然の事だ。
しかし、そこから成長するという過程において――他人と接して、喋って、思って、感じていくことで無知から解放されていく。
そうして、社会で生きる力を身に付けていく。
(……だけど)
そう。鏡夜は無知な子供のままなのだ。
誰とも接しない。それは、そのような状況と環境で育ったから、自ずとそのような人格へと成立してしまったのだろう。
施設で過ごしてきた日々でさえも、一日の半分は牢の中に居たから誰とも接することができなかった。
そのせいで、鏡夜は他人の在り方を知らない。……いや、知る事が不可能になったのだ。
だから昨日も、あのような愛想のない言い方でしか言葉を表現できなかった。
そんな自分が、彼女と普通に接するなど可能なのだろうか……。
ふと、鏡夜は掛け時計に視線を配った。
午前七時五十分。
そろそろ家を出よう。彼女の対処は、学園に着くまでに考えれば良いだけだ。
しかし、自宅のマンションを出ると、鏡夜はすぐに困惑する破目となった。
「あれ? 千堂くんって、このマンションに住んでたの?」
……路上に出た瞬間、湊と出くわしてしまったのだ。
「そっか。私の家と結構近いんだね。私も、この通学路を使って学園に通ってるんだ」
湊は心底嬉しそうに、柔らかな笑みを浮かべた。
一方、鏡夜はどう返答すれば良いのか見当がつかず、結果、逃げるように一人で歩き始めた。
そんな鏡夜の行動に不満を持ったのか、湊は足早に歩み寄って、不機嫌そうに頬を膨らませた。
「返事くらい返そうよっ」
「……そう言われても、どうすればいいか分からない」
鏡夜の本心からの呟きに、湊は不思議そうに小首を傾げた。
「どうすればって、どういう意味?」
「女子と喋るのは、ほとんど遠近が初めてだから……対処の方法が思いつかない」
鏡夜の言葉に、彼女は少なからず動揺したようだ。
「千堂くんって、高校に入る前からこんな風だったの?」
「……そうだ」
だから鏡夜にとって、対処に困るとはこういう事だった。
異性との会話など、七年間もしていなかったのだから。
気軽に話しかけられる経験がほとんど無いから、自分も同様な返答ができない。
こんな風になるなんて、思ってもいなかったから。
「でも、千堂くんって結構モテるんだけどなぁ」
どこか遠い目をしながら、湊は言った。
「……俺が、モテる?」
「うん。身長は高いし、顔も格好良いって、クラスの女の子達が言ってるよ。噂話でも、千堂くんってクールで格好いいよねって感じで学年中に流れてるし」
そのような噂話を、鏡夜は一度も耳にした事がなかった。いや、そんな話は興味の対象ではないから、耳にした時があっても即座に忘れてしまうのだろう。
鏡夜は、必要な情報と不要な情報があるとしたら、必然的に前者を取る人間なのだから。
「俺は、そういう事に興味はない」
鏡夜がそう言うと、湊は「そうなんだ……」と、気分を落としたように顔を俯かせて黙り込んだ。
でも、今の言葉は鏡夜の本音だった。
恋愛なんて興味以前の問題だ。女性に好意を抱くなど、鏡夜は決してやってはいけない事だから。
誰かを好きになると、自分自身が傷つくから。
封殺者であることを隠し通す自信がないから。
嘘偽りの無い気持ちを伝える自信がないから。
「千堂くんは、自分に自信がないんだね」
湊は、ポツリと呟いた。
「……そうなのかもな」
鏡夜も、ポツリと返答した。
「でも反面、そうでいたいと思ってる」
「…………」
「やっぱり、私と似てるね」
そう言って、湊は笑みを浮かべた。
――似ている。ならば遠近も、自分と同じ考えを持っているのだろうか。
実行したい事柄があっても、それを行動に移すことができない。心のどこかで抑制が掛かってしまって。
そうして結局は、自分を偽ったまま人生を終えてしまうのだ。
「遠近は……」
知らず内に、鏡夜は立ち止まっていた。
「……俺と、似ていると思っただけで話しかけたのか?」
似ているという理由で接してこられても、その本質を知らないのだから、鏡夜もどう接すれば良いのか判断がつかない。
湊が何を考えて、何を思って、自分に話しかけてきたのか。
その本質を、鏡夜は聞きたかった。
少し前を歩く湊は、振り返って笑顔を見せる。
「それだけじゃないよ。……一年間。ずっと意識していた人が悲しんでいたから、少しでも癒してあげたかった」
恥ずかしげに笑う湊を、鏡夜は少なからず信用してしまった。
――俺は。
「……余計なお世話だ」
そう吐き捨てた鏡夜は再び歩き始める。
湊は満足そうに笑って、隣に並んだ。
――遠近を、意識し始めている。
しかし、その気持ちに嘘偽りがあった事を、鏡夜はまだ知らなかった。
学園に到着した鏡夜と湊は、二人一緒に教室に入った。
一瞬、クラスメート達からの視線を浴びる。しかし、こんな事はもはや日常茶飯事である。
鏡夜は横目で湊を窺うが、彼女もとりわけ気にしている様子はなく、自然な様子で自分の席に座った。
鏡夜もいつも通り、窓際最後列の席に座り、窓の外に顔を向ける。
……しかし。顔が勝手に湊の方へと向いてしまった。
湊の席は、廊下側から二列目の中間だった。
今まで気づきもしなった存在が、同じ空間にいる。
何か、不思議な気分だった。
それは、鏡夜が彼女を知ってしまったからだ。『遠近湊』という存在が、自分と同じだと思い込み始めたからだった。
と、彼女は鏡夜の視線に気づき、笑顔で呑気に手を振っていた。
当たり前のような日常が、ここにあった。
それは、今まで経験できなかった未知。
それは、経験する事が認可できなかった夢。
(……でも、それでいいのか?)
自分は、そちら側の人間と関わっても良いのだろうか?
……決して辿り着く事のない自問に、鏡夜は頭を苦慮し続けた。
「千堂くんっ。一緒にお昼ご飯食べよう!」
昼休みになり、湊が鏡夜の席に駆け寄ってきた時の第一声がこれだった。
自分は元々、昼休みは何も食べずに読書で時間を潰す方なのだが、と鏡夜は口にすると、湊はずいっと顔を近づけて低い声で問いかけた。
「千堂くん。お昼休みは何の為にあるか分かってる?」
「自分のやりたい事に時間を潰すた――」
「違うよっ!」
鏡夜の言葉を素早く遮り、湊は拳を強く握り熱弁する。
「お昼休みっ! それは購買にいる生徒達との戦争! 敗者は潔くあんパンを食し、勝者は焼きそばパンを頬張れるっ! さあ行くよ! 焼きそばパンが売り切れる前に!」
鏡夜の意思を無視して、強引に腕をひっぱり出す湊。
……読んでいた最中の小説の続きが気になって仕方がなかったと、鏡夜は机に置いた本を見つめ続けた。
「うわぁ、今日も多いね!」
鏡夜は二年生になって初めて職員棟の購買に立ち入ったが、その光景に少し動揺した。
生徒の数が半端なものではなく、カウンターの前では、生徒達の群集が鬩ぎ合っていたからだ。
「あの人だかりの後ろに並べばいいのか?」
「違うよっ。あそこに突入するの!」
「でも、結構……というか、生徒が多すぎるぞ。それに、遠近は体が小さいから危なくないか?」
「それは……そうなんだけど」
顔を俯かせて、湊はこれまでの経緯を説明し始めた。
曰く、湊は毎日、あの人だかりの中へと突入しているというのだが、高確率――というか100%――で人ごみの中から弾き出され、あんパンを買う破目になっていたらしい。さらに、今日は鏡夜を教室から連れ出すのに二分の時間を費やしたため、この人混みの中に突入するのが遅れてしまったということだった。
「……じゃあ、俺が行く」
「え、いいの?」
「出遅れた責任は俺にあるみたいだからな。焼きそばパンでいいのか?」
「あ、うん」
本人に確認を取ると、鏡夜は人混みの後方に佇み、軽く状況を分析した。
(――なるほど。確かに、これじゃあ遠近が突入するのは困難だ)
しかし、侵入が不可能というわけではない。人混みで溢れているのは確かだが、その『隙間』という空間は確かに存在している。
しかし、その空間が刹那で閉じられるのも確かだ。ならば『隙間』ができた瞬間に、次の『隙間』へと移れば良い。
後方から人混みに近づきつつ、鏡夜は神経を集中させた。
「ほら、焼きそばパン」
人混みの中から帰ってきた鏡夜は、湊にパンを渡した。
しかし彼女は、呆けたようにだらしなく口を開けた。
「ど、どうやって……?」
「普通に、人と人の隙間を通っただけだ」
「……もしかして、千堂くんって凄いひと?」
「早く教室に戻るぞ」
鏡夜は踵を返して、さっさと歩き始める。湊も、「あ、うん」と鏡夜の言葉に反応して、足早に追ってきた。
鏡夜はこれ以上、ここには居たくはなかった。
……背後から多くの視線が集中しているような気がして、居た堪れなくなったからだ。
教室に戻り、鏡夜は自分の席で小説の続きを読む事にした。
と、今まさに読み始めようとしたその時、湊が自分の椅子を持って近寄ってきた。
おもむろな動作で机の隣に椅子を配置して、座り込む。
「……何してるんだ?」
「お話しようかと思って」
そう言って、満面の笑みを浮かべる湊。
「俺は小説を読んで、遠近は昼食を食べる。それでいいだろ」
「むう。小説を読みながらでもお話はできるよ」
「小説は自分ひとりで黙って読むものだろ。食事だってそうだ」
鏡夜の言葉に、湊は不安そうな表情に変えた。
「……千堂くん、いつも一人でご飯を食べてるの?」
「そうだが」
「家族の人とは一緒に食べないの?」
「いない」
「……そうなんだ」
そう言って、湊は数秒間黙り込んだ。しかし、鏡夜が無意識に溢した『家族がいない』という事に関しては何も触れてこなかった。
湊はすぐさま笑顔に変えて、鏡夜に色々な話を聞かせた。
身長が一向に伸びない事。遊園地のアトラクションにほとんど乗れない事。その小さな口で美味しそうに焼きそばパンを頬張りながら、彼女はずっと笑っていた。