翌朝。
休日の土曜日、午前十時に近づきつつある時間。
鏡夜は駅前の広場のベンチに腰掛けて、湊を待っていた。
というのも、彼女から「明日、遊びにいかない?」と誘われたからだった。
本当は約束をすっぽかして自宅で読書でもしようとしていたのだが……気が付けば、マンションを後にしてこの広場にやって来ていた。
(何をやってるんだ、俺は……)
内心で自分の行動に呆れながら、ため息を漏らす。
本来の鏡夜ならば、そんな約束は破って当然の人間だった。いや、それ以前にそちら側の人間と関わるべきではないと判断し、約束を記憶から抹消するのが当たり前だった筈なのだ。
……ベンチに座ったまま、鏡夜は駅前の様子を呆と観察する。
休日だからだろうか、人の数が異様に多い。学生もいるし、子供連れの親子もいる。
その人混みの中に、ふと、湊の姿を見つけた。
彼女も鏡夜を見つけると、ぱあっと顔をほころばせ、足早に駆け寄ってくる。
「お待たせっ。待ったかな?」
呼吸を整えながら笑顔で尋ねる湊に「今来たところだ」、と鏡夜は返した。
彼女は、その容姿に似合った純白のワンピースを着服していた。心なしか、良い匂いが鼻をくすぐる。おそらく香水だろう。
「そっか。それにしても……千堂くんって、いつも同じような私服を着てるの?」
小首を傾げて訊く湊。その言い方は少しおかしく、鏡夜も首を傾けた。
鏡夜は、白いワイシャツの上に黒色のジャケット羽織って、紺色のジーパンを穿いていた。
しかし、鏡夜が湊に私服姿を見せるのは今日が初めてだ。いつもという聞き方が示す意味。それは彼女が、過去に鏡夜の私服姿を見たことがあるということだ。
「……俺の私服姿をどこで見たんだ?」
訝しげに鏡夜がそう口にすると、湊は怒ったように頬を膨らませた……のだが、容姿が幼い所為か威圧感も迫力も全くなかった。
「――千堂くん。三日前の事、覚えてる?」
「……?」
……三日目に、何か心に思い残るような事があっただろうか、と鏡夜は黙考する。確か、その日は学園を終えて夜に鬼人の抹殺に向かい、殺した後に帰路に着いただけだった。
と。不意に、抜け落ちていた記憶の断片が脳裏に蘇った。
そこで、鏡夜は三日前と同じ服装である事に気づく。
「あれ、遠近だったのか」
「そうだよっ。というか千堂くん、夜の繁華街で何をしてたの?」
「……何でもいいだろ」
言葉を濁して、目を背ける。
鬼人の抹殺に向かっていた、などと口が裂けても言えなかった。仮に言ったとしても、馬鹿にされるか頭がおかしいと蔑まれるに違いない。
話の方向を変え、鏡夜は訊ねた。
「それで、どこに行くんだ?」
「……うーん」
と、湊は腕を組んで考え出す。……行き先も決めずに遊びに誘ったのか、と鏡夜は深いため息を漏らした。
それから、湊は五分ほどその場でぐるぐると回り続けた。そして考えた末、喫茶店に入るという結論に至った。
鏡夜もとりわけ意見がある訳ではないので、先導する彼女の後を追った。
駅前のありふれた喫茶店に入店して、向かい合って席に着いた。
湊は紅茶、鏡夜はホットコーヒーを注文して、しばし無言状態が続いた。
しかし、この雰囲気が居た堪れなくなったのか、湊が口を開いた。
「せ、千堂くんって、休日は何をしてるの?」
会話の内容としては、一般人としてはごく普通のものなのだろう。……プライベートの事を訊かれるのは初めてであるが故、鏡夜はしばし考え込んだ。
「読書と……瞑想とかだ」
「瞑想って、目を閉じて静かに考え事をすることだっけ?」
「ああ」
「何を考えてるの?」
(……どうも、遠近は俺に関しての事柄が知りたくてしょうがないような言動をするな)
鏡夜は数秒間、どう答えたものかと黙考する。そして、話せる範囲内での事実を口にすることにした。
「……俺が生きている意味とか、だ」
無意識に、鏡夜は本音を語っていた。他人にこんな事を喋るのは初めてだからかもしれない。
呟きに等しい小さな声に、湊はどう応えたら良いのかと戸惑っていた。
「……滑稽だろ。こんな歳でこんな事を考えてるなんてな」
自嘲気味に薄く笑う鏡夜。しかし湊は「……ううん」と笑顔で首を横に振った。
「生きる意味を考えるのは、どんな歳でも関係ないよ。誰だって、そんな自問をする時は必ずあると思う。……私も、たまに考える時があるから」
「……そうか」
「でね、私は人が信じられなくなって……それなら、死んじゃった方がマシだって考えちゃうの。でも、どれだけ憂鬱になっても、どれだけの傷を負っても、『夢』を見続ける為には生き続けるしかないって答えに辿り着くんだ」
「夢……」
それは、鏡夜が鬼人を殺した際にいつも告げている言葉だった。
そして、あの頃――あの人に教わったひとつの単語でもあった。
「……夢なんて幻想だ」
鏡夜はそう反論した。しかし、湊は返答しない。
ただ、淡い笑みを浮かべているだけだった。
その笑みにどんな意図があるかは、所詮、鏡夜のような人の在り方を知らない人間に分かるわけがなかった。
注文した紅茶とコーヒーを飲み干した二人は、喫茶店を後にした。
それから、二人は色々な場所を回った。
デパートに入り服飾店を巡って、映画館に入って恋愛映画を見て、とにかく、様々な場所を巡り歩いた。
気がつけば、既に日は沈んでいた。……遊びというものがこれ程疲れるものなのか、と鏡夜は実感すると同時に痛感した。
それでも、湊は疲労している様子はなかった。笑顔を保ったまま、色々な話を振って鏡夜がそれに素っ気無く返答する。そのやりとりが続いていた。
そんな、時だった。
ピシィンッ
……体に宿る魔力が、反発機能としてそれを感知した。
そして、鏡夜は瞬時に思考を切り替えた。
腕時計を見る。
既に、時刻は八時を過ぎていた。
「遠近、用事を思い出した。悪いが、今日はここまでだ」
「そうなの? ……分かった。じゃあ、また月曜日に会おうね!」
「ああ」
言って、鏡夜は踵を返す。
この時点で、鏡夜は『遠近湊』という存在を完全に思考から外していた。
敵を殺すための封殺者として、自分は生きなければならないと再認識したからだ。
鏡夜が湊と出会ってから、一週間が経過した。
その間、鏡夜は湊と時間を共にすることが多くなっていた。
鏡夜はただ思った。自分の体験した日常は、未知を通り越して怖いほどだと。
それは、鏡夜自身がずっと望んでいた
しかし、鏡夜は一度も笑えなかった。
その分、湊は笑っていた。鏡夜が笑えないということを知っていたのかどうかは定かではないが、おそらく、鏡夜の分を補っていたのだろう。
遠近湊は笑える。
千堂鏡夜は笑えない。
「……くそっ」
夜の街で、彼は苦々しく吐き出した。
目前に在るのは、消滅寸前の鬼人の残骸だ。
いつも通りに殺しただけだった。
なのに――この気持ちは何なのだろう、と鏡夜は苦悩する。
一週間前に鬼人を殺した時も、このような言い様のない不快な気分に陥った。
まるで、やってはいけない事を仕出かしてしまったかのような、そんな背徳感。
(……だけど、これは俺の存在理由だ)
罪悪感を覚えるはずがない。覚えてはいけないと、鏡夜は自身に言い聞かせる。
――何故なら。それが出来なくなってしまったら、自分は存在している意味が無いのだから。
◆
冬休みも間近のある日。
放課後、教室からクラスメート達が除々に消え去っていく様を鏡夜は観察していた。
それは、教室に残っている湊も同一だった。寂しそうな表情で、彼らが去っていく光景を見つめている。
――やがて。無音となった教室には、鏡夜と湊だけが残った。
「……帰らないのか?」
「うん。千堂くんが帰るなら、私も帰るよ」
「俺は、まだ帰らない」
「そっか。なら、私もまだ残るよ」
それは、ただ言葉を受け取り、返すだけの行為だった。
この一週間で、この行為をどれだけ繰り返しただろう、と鏡夜は考えた。
(……俺の人生では、そんな経験はほとんどなかった)
湊と一緒に登校して、湊と一緒の時間を共有して、今、こうして二人きりになった。
そして、鏡夜の心には、こんな時間がずっと続けば良いと思っている感情が在った。
(こんな気持ちを抱くことになるなんて思ってなかった……)
しかし、その感情を否定している自分がいるのも、また事実で。
やはり、自分は中途半端なのだと思い知らされる。
湊は、いつもと変わらない様子で机の上に座り、窓の外を眺めていた。
「……雪、降ってるね」
「……そうだな」
大粒の白い結晶が、灰色の空から舞い降りている。
暦は十二月の下旬だ。雪が降っていても、おかしな事は何もない。
雪が降っているから、ただ、それを呆と見つめているだけ。
何の意味もなく、何の変哲もない。ただ、舞い降りてくる雪を、無心で見つめているだけ。
それなのに、こんなにも心地よい。
故に鏡夜は、この瞬間を大事にしようと思った。
いつかは消え行く刻だと思うと、こうした無意味な行為でさえ大切にしたかった。
「千堂くん」
不意に、湊は鏡夜に話しかけた。
鏡夜は首を彼女の方へと向けて「なんだ?」と返す。
彼女は机から下りて、
「この一週間。私と話してみて、どう思った?」
と。いつも通りの微笑を浮かべて、いつも通りの幼い声で――そう、鏡夜に問うた。
「楽しかった?」
彼女は、言葉を重ねる。
「嬉しかった?」
彼女は笑みを崩さずに。
「哀しかった?」
純粋な気持ちで――そう、鏡夜に問うた。
故に、鏡夜はその気持ちを裏切ってはいけないと思ったからこそ、こう返した。
「全部だ」
そう。想いを明確に表すのならば、そう応えるのが一番だった。
「遠近と一緒に登校して、楽しかった。遠近と時間を共有して、嬉しかった」
だけど、それでも。
「それを許してはいけないと思う自分がいることが――哀しかった」
それが、嘘偽りのない本心。
嬉しいからこそ、哀しい気持ちになってしまう。
楽しいからこそ、虚しい気持ちになってしまう。
どれほど素晴らしい『日常』を体験しても、千堂鏡夜はそれを許容できなかった。
それは、鏡夜が封殺者という鎖から抜け出せないだけかもしれないけれど。
でも、それはただの言い訳に過ぎない。
(やっぱり、俺はこの少女を否定していたんだ)
結局、千堂鏡夜は『日常』へ行く事は不可能なのだ。
――だから。
「ありがとう」
そう告げた鏡夜は、湊の隣をかわした。
彼女の顔は見なかった。見てしまうと、きっと立ち止まってしまうから。
だから、見たくはなかったのだ。
扉が閉まると、湊は教室で独りになった。
(また、独りぼっちになっちゃった……)
思い出すと。
去り際の鏡夜の顔は、酷く哀しそうに思えた。
勿論、今の湊がそうであるように。
窓を見ると、自分の顔を薄く映し出していた。
――あぁ、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「結局……」
湊は思う。この一週間は、自分だけの自己満足だったのではないか、と。
湊が嬉しくても、鏡夜が嬉しい訳ではない。
湊が楽しくても、鏡夜が楽しい訳ではない。
『ありがとう』
……あの言葉は、おそらく決別での意味だろう。
これ以降、自分に全くの関心を見せないという意味での、絶対的な否定。
もっと、千堂くんと話したかった。
もっと、千堂くんを知りたかった。
たった一週間の付き合いでも、遠近湊の心は満たされたというのに。
それが、たったの一週間で終わりを告げてしまった。
……湊の頬に、何かが伝った。
それはおそらく、涙。
彼のことを想っていたからこそ、こうして溢れ出した。
……涙は、一向に止まる気配はない。
それほどまでに、湊は千堂鏡夜に好意を抱いていたのだ。
涙が止まって、湊は学園を後にした。
外は雪景色。
灰色の空から舞い降りてくる白い結晶は幻想的だった。
しかし今は、湊の体を凍えさせるだけの自然現象だ。
――雪は、スキだった。
雪だるまを作るのがスキだった。
雪合戦をするのがスキだった。
いつか、鏡夜と雪だるまを作りたいと思っていた。
しかし、それは叶わぬ願いに終わった。
独りで帰り道を辿る。
路面は雪で覆われていて、どこか足取りが重い。
それでも、独りで歩く。
鏡夜は、もう隣にいないのだから。
孤独だった。
涙は乾いているから、誰にも気づかれずに済む。
「……気づかせない」
そう、湊は決意した。
父親にも、母親にも、絶対に気づかせはしない。
これは、遠近湊一人で解決しなければならない問題なのだから。
(……でも)
何日掛かるだろう、と湊は顔を落とす。
明日になれば、また気軽に鏡夜に話し掛けている遠近湊が想像できる。
そんな事は、考えてはいけないというのに。
しかし何故か、鏡夜も話を聞いてくれそうな気がする。
それは、なんてくだらない
――夢、幻。
鏡夜が話を聞いてくれたならば、それは夢。
鏡夜が返事をしてくれたならば、それは幻。
現実にはありえない想像風景。……妄想の世界。
だというのに、それを期待している自分が今、ここに在る。
「……駄目だな、私」
独り言のように、呟く。
「何が駄目なんだ?」
……それは、独り言ではなくなった。
顔を俯かせて歩いていたからだろうか、前方に人が佇んでいる事に気づかなかった。
湊は、ゆっくりと顔を上げる。
黒い傘を差しているからか、顔は判らない。
しかし、判った。判って、しまった。
―――その、声だけで。
「あ……あぁ……」
湊は呻き声を漏らした。
その男だと、確信してしまったから。
……背中の傷が、亀裂を起こしたように痛み出す。
その男は、黒い傘を畳んで、歪んだ顔で湊を見据えた。
「会う事はないと思っていたんだけどな……」
その瞳に映るのは、六年前と同じ殺意の黒色。
「でも、会っちまったんだよなぁ」
そう呟いて、ゆっくりとした歩調で湊に歩み寄る。
湊は逃げられなかった。いや、逃げ出すことさえ叶わなかった。
何故なら。この時点で男は湊の『傷』を抉ってしまっていたのだから。