1Cr Drudgery―白黒徒花―

02.Cr of Messiah―救世の剣―Verse 4

 予想通りクロームと村人達の交渉は、そう待たないうちに終結した。交渉の結果、クロームも少しは譲歩したらしく、俺達が泊まっている宿での宿泊費をおっさん達が肩代わりしてくれることになった。

 俺からすれば多少物足りない気もしたが、何もないよりはマシだ。宿泊費だってバカにはならない。少しでも浮くのなら、それはそれでよしとしよう。これだけでも滅多にないことだし。

 クロームに譲歩させる辺り、あのおっさん達の意地もすごいものだ。

 その後、木陰でプラナの回復を待ち、俺達四人はとある場所へと向かっていた。

 例の高度な技術でプログラミングされ、厳重に秘匿されている魔導陣のところへ、である。プラナでさえ驚くほどの技術力によって織り成された、おおよそこの村には不釣り合いとしか思えない魔導陣は、この村に住む人々全員を死滅させるだけの機能を有しているという。それどころか、一度発動してしまえば、この村周辺に向こう数千年、一切の生命が立ち入れなくなるような深刻な傷跡を残しかねないほどの代物らしい。

 魔界との直結ってのはそういうもんだ。周辺の空間そのものを魔界の物にされてしまう。そうなればこちら側の人間が生きていける環境ではなくなる。魔界の生物達が我が物顔で居座り、障気が大気を汚染する。

 例え魔術の効果が切れ、顕現した魔界が消え失せたところで幾らかの魔物は残るし、汚染された環境が治るわけでもない。

 それこそ草木は芽吹かず、踏み入る生命を例外なく殺す、死地と成り果てるだろう。

 看過できるわけがない。

 俺達は村人達に悟られないように、努めていつも通りの気の抜けた態度で進む。こういう時、感情が顔に出ないクロームや、目深に被ったフードで顔を隠しているプラナ、緊張感のないセシウが羨ましい。

 それでも空惚けた空気の下では、俺たちの琴線が引き千切れてしまいそうなほどまでに張り詰めていた。

「あーあ……結局オムライス食べ損ねちゃったなぁ……」

 隣を歩くセシウがくびれた腹部を押さえて、ぽつりと呟く。

 そういえばプラナのことで俺達は店を出てしまったので、すっかり食いそびれたんだな。もう、あんだけ食えば十分な気がするんだけど、セシウからすれば足りないらしい。

 胃袋の構造がどうかしてるとしか思えない。

「腹八分目で抑えておけよ。あ、お前にとっては腹四分目か? あれじゃあ」

「うっさいわ。女の子にはいろいろあるのですよ」

「女の子らしさが一切ないお前が言ってもなぁ……」

「だーまーれー。ぶっ飛ばすぞ」

 ほら、そういうところがダメなんだろうよ。

 ま、俺もぶん殴られたくはないのでこっそりと肩を竦めるだけでそれ以上は何も言わないことにする。

「お前達には緊張感というものがないらしいな」

 前を行くクロームが潜めた声で俺とセシウを諫めてくる。振り返ることはなく、後ろで結われた銀色の髪がゆらりゆらりと揺れていた。

「俺にはあるさ。ないのは約一名だけ」

「お前の緊張感などどうでもいい。どうせ、隅っこでこそこそしているだけだろう」

 ……ぐぬ、痛いところを。それを言われてしまうと、何も言い返せない。

 隣ではセシウがくすくすと笑っていやがる。毎度毎度、俺には仲間がいない。中立のプラナだけが唯一の安らぎである。

「常に生真面目な顔して、周りに威圧感をサービスしてる勇者様からすればそうでしょうね。俺はほら? 空気の読める器用な男なもんでね。周囲に気を配って、こういう明るい振る舞いをだな……」

「おかしいな。だとするとガンマはそろそろ俺の目の前から消えてもおかしくないはずなのだが」

「お前ら本当に性格悪いっ! お前らと話すとなんか心が荒むっ!」

 どうして俺ばっかりこんな扱い受けるわけ!? もっと優しさを俺にも向けてくれよ!

 勇者の慈悲とかないわけなの?

 自分が惨めに思えてきて、生きる気力を失いそうだ。

「それはよかった。俺達はお前を見るだけで心が荒んでくる。いい勉強になったじゃないか」

「お前ホンットーォッに一回黙れ」

 俺の懇願にも似た要求を背中に投げつけられたクロームは、やれやれとでも言いたげに両手を広げてみせる。その間にも一切、俺を顧みようとしない。

 何なの、この勇者。お前が英雄となった暁には勇者の本性を赤裸々に綴った暴露本を書いて、印税でボロ儲けしてやる。すでに原稿用紙換算八十七枚分の文章は認(シタタメ)めている。三ヶ月分でこれだ。きっと旅が終わる頃には上中下巻で出版できる程度の量になっていることだろう。

 上手く行けば印税でしばらく遊んで暮らせるかもしれない。

「お三方、周囲に気付かれないようにするのもよろしいのですが、くれぐれも目的をお忘れなきように」

 いくらなんでも気の抜けすぎた会話をしている俺達を見かねたらしく、いつも柔和のプラナにしては珍しい硬い声で注意されてしまう。ご尤もな意見である。

「俺は、すでにこいつらとの会話のせいで、目的以前に生きる意味を見失いそうだ」

「なんだ? 生きる意味がお前にもあったのか? これは驚きだな。テーブルナプキンにでも書き留めておかなければ」

「今、俺最も優先すべき事項を見つけたわ。お前にストレスを与えて、胃袋に風穴開けんの。これで俺の人生が大きな意味を持つな」

「闇討ちすらする度胸がないとは、見下げたものだ。お前はいい加減、本職の空気か石ころに戻ればいい」

 うっせ。真っ向から行ってお前に勝てるわけがないだろうが。

 自分の実力を弁えてると言ってほしいものだ。

 勝てない戦いはするタチじゃない。無謀は俺が一番嫌いなことなのである。

「二人とも、今プラナに注意されたばかりじゃん」

 変わらず舌戦を繰り返す俺とクロームに、セシウが呆れてため息を吐き出す。セシウに注意されるというのは頂けないな……。

「全く、貴様の存在は本当に空気を乱すな」

「ほっとけ」

 結局全部俺のせいかよ。

「着きました。この奥です」

 先頭を歩いていたプラナが立ち止まる。小枝のように細い指で示した先は、隣り合った小さな建物の隙間だった。幅はそこそこあり、俺達四人が入っても余裕がある。特に何かがあるようには見えないけどな。

 ただの日陰だ。こんな場所じゃ隠れることもできやしない。

「分かります?」

「いや」

「全然」

 矯めつ眇めつ俺とセシウはそこを眺めるが何も感じない。魔術の気配もしないし、違和感もない。普段なら何かしら感じ取るものがあるはずなのにな。

 要するにそれだけ巧妙に隠蔽されているということなんだろう。ここに魔導陣が存在しているなんて、全然思うことができない。

「クロームはどうです?」

「辛うじて、というくらいだな。意識していなければ、気付くことはできないな」

 さすがは勇者というべきか、少しくらいは分かるらしい。それだけでも十分すごいことだ。

「少し結界に干渉しますね」

 プラナは当然のように呟くと、周囲に人がいないことを確認してから、右手に魔術杖(マジュツジョウ)を具現化させる。何もなかった場所に、小さな光を伴って突然現れる杖。まるでマジックだ。

 まあ、本当はエーテルに分解していた杖を再構成しただけなんだけどな。魔術師にとっては当たり前の技術らしい。

 杖は長く、全長は一六〇センチほど。一五〇センチしかないプラナからすると、ちょっと大きすぎる代物だ。先端には三日月型の銀色の飾りがつけられている。大きさは人の頭くらい。その月の欠けた部分には透き通った大きな水晶が填め込まれており、陽の光を反射して眩く輝いている。

 プラナはその杖を前に掲げる。おそらく目深に被ったフードの奥では目を閉じていることだろう。

「Es Nibel tis sarnd sithie ans cibero dex shiena」

 紡がれる言葉は虚ろで無感情――無機質と言うべきか。プラナの形の整った桃色の唇から溢れた言葉は、いつものプラナの声とは明らかに異なっていた。抑揚のない平坦な声だ、

 喋っているのは、魔術を行使する際に用いられる古代の言語。俺には何を言っているのかさっぱり分からん。

 魔術言語とも言われるこの言葉による詠唱を行う際、魔術師は特殊な精神集中状態になる。

 一種の忘我の境地。

 外部から一切を隔絶され、冥く昏い意識の大海にたゆたっているような状態。今、俺達の言葉はプラナに届かない。蒼天から降り注ぐ白日さえも、今プラナの意識の中にはないのだろう。

「liser. Shiner=read. Corn=read. Hyn nemis karben=read――Es Arkhe」

 詠唱による魔術式の組成が完了し、プラナの持つ魔術杖――セレネの三日月に填め込まれた水晶が銀色の光を放ち始める。

 プラナが石突で軽く地面を叩くと、水晶に集約された力が解放され、周囲に波紋を描くように広がり始める。もちろん可視できるものではない。ただ、感覚的なものでしかない。

 干渉式が俺達には知覚することもできない結界に侵入し、実行されていく。

 今、プラナが詠唱によって組み上げたのは謂わば結界に対するウィルスのようなものである。

 何もないはずの場所に電流のようなものが走る。空間が歪む。陽炎のように景色がたゆたう。

 その靄の向こう、地面に刻まれた円上の紋章を俺は視認する。朧気と輪郭もあやふやながらも、確かに見えた。

 伊達眼鏡を鼻先に下げ、裸眼で見てみる。目を細めて、さらにはっきり見ようとするが、輪郭は定まらずゆらゆらと燻っていた。

「どうでしょうか?」

「見えはするな。曖昧だけど」

「なんかはっきりしなくて苛々するなぁ、これ」

 プラナの問いに俺は素直な感想を述べる。隣で悪態をついたセシウは、腰を折って地面に顔を近づけ、眉間に皺を寄せながら地面を睨み付けている。

 はっきりしないのが嫌いだからな、セシウは。

「一応、並大抵の結界ならぶち破れる程度のプログラムを組んだつもりだったのですが、それでもまだ壊れませんね」

 さらりとプラナはすごいことを言う。本来、結界っていうのは鉄壁なのである。物にもよるが、防御に使える魔術の中では上位に位置している。そんなものを容易く壊せるというんだから、プラナは本当にすごい魔術師なんだろう。

 これで少し干渉なんだから、本気だったらもっとすごいわけか。

「クロームはどうです?」

「十分だ。よく見える。ただ……そんな危険な物には見えんな」

 腕を組んで直立するクロームは相変わらずの落ち着いた声で答える。

 まあ、確かにヤバいもの、っていう印象はないよな。普通の魔術陣にしか見えない。あまり大仰なものでもない。イメージと違う。

 もっと禍々しいものを想像していたせいだろう。

「大量殺戮を可能にする魔術も、一億の命を救う魔術も円陣はどれも丸いものですよ。髑髏(シャレコウベ)と蝋燭があったら、説得力が出ますか? 残念ながらあれには魔術的な必要性がほぼ皆無ですがね」

 くすりとプラナは悪戯っぽく笑う。

 目深に被ったフードを上げてくれれば可愛げも出るんだろうが、プラナより遙かに背が高い俺達の視点では口元が見える程度だ。

 全く、勿体ないものだ。

「しかし、魔界に直結するほどの魔術を行おうというのに、これくらいでいいものなのか?」

 クロームの疑問に、プラナは唸る。

「そこがまた恐ろしいところですね。圧縮技術が尋常ではありません。膨大なプログラム情報をこんなサイズに圧縮できる魔術師はそうそういません。本来なら、半径八キロメートルほどになるはずなんですがね……」

 八キロ……ねぇ。

 そんなものがこのサイズ、か。半径五〇センチほどしかないんじゃねぇのか。

 尋常じゃあねぇな。

「正直、これほどの能力を有する魔術師が無名であるというのは考えられません。世界でも有数の力を持つ魔術師であると考えられます」

「先程、酒場の店主に訊ねたのだが……ここ最近、魔術師がこの村に立ち寄った記録はないらしい」

 さりげなく情報収集している辺り、クロームも案外抜かりがない。

 実力を持った魔術師は得てして有名なものである。身分を隠していてもどこかで絶対に気付かれる。これほどの実力を持った魔術師ならば、どこにだって知っている奴は必ずいるはずだ。

 だから、魔術師が立ち寄っていないだけで十分おかしい。

 独学で魔術を学ぶでもしない限り、力ある魔術師の名前はまず世界中に発信される。学院に在籍していればもちろんのこと、有名な魔術師の弟子であったりする限りは力あるものに名声が集約するのが魔術師の基本的な構造だ。

 ただ……これが、独学でできるものなのか?

 魔術はそんなに簡単な学問なのか?

 否、そんなわけがない。先天的素質に左右される学問であるが、だからといって類い希なる先天的素質の持ち主であれば独学で簡単に身に付けられるもの、というわけではない。

 情報が少なすぎる。できる限り、得られる情報は得ておきたいところだ。そう思い、俺はプラナへと顔を向ける。

「この魔導陣が作られた時間は割り出せるのか?」

「最初に見つけた時、いくつか分析用の魔術を走らせたのですが、どれも効果はありませんでした。辛うじて読み取れた組成式の一部から魔術の内容を読み取ることが限界ですね」

「なるほどな。それじゃあ絞りようがねぇな……」

「とはいえ、それほど古いものではないと思われます。魔導陣を形作る二次元魔成物体――まあ、一般的に《膜》と呼ばれるものですね――それに目立った損耗はありません。推測の域は出ませんが、おそらく半年以内に作られたものだと思われます」

 ふむ、確証がない点は不安要素だが、天才と謳われるプラナの言葉だ。それだけでも十分、信用に値するものだと思える。

 その情報を主軸に動くのは愚の骨頂だが、判断材料として覚えておこう。

 腕を組み、建物に腰を預けていたクロームが浅く息を吐き出し、静かに目を開いた。

「ガンマ、森に魔物が棲み着いたのは一年ほど前になるそうだ。それ故に今の村はこれほどまでに寂れているらしい。本来はもっと活気づいていたとのことだ」

「へぇ……」

 今からじゃ想像できねぇな。

 いや、しかし、酒場でのあのバカ騒ぎ様を見ると、案外あっちの方が素なのかもしれねぇな。どこか寂れた感じはあるが、村人達の性格は温かいというよりは気さく、優しいというよりは器が大きいっていう印象がなんとなくある。

 確かに、内外の人の行き交いが蘇れば活気付きそうだ。

「北の森の狼の化け物と同等の力を持つ魔物が、他の方角にも巣くっているとすると、通り抜けられる奴はほとんどいねぇな。曲がりなりにも勇者に一撃加えられるような奴だ。逃げ足だけじゃなんともなんねぇ」

 つい昨日、新たに作られてしまった汚点を蒸し返され、クロームは何か言いたげに口を開きかけるがすぐに閉ざす。

 下手に反応するのもみっともないと思ったのかもしれない。誇り高い限りだ。

「これほどの魔導陣を組める魔術師なら、まず間違いなく通り抜けることもできるでしょうけれど、確実に村人に気付かれます。私達の時が、まさにそれでした」

 ああ、そういやそうだな。あの獣をやり過ごして、俺達は村まで辿り着いたもんな。情報もなく、あれがどういう魔物か分からなくて、体力を浪費するのも面倒で撤退を選んだのだった。

 思えば、あそこにいた黒い虎は東の森に巣くった厄介な魔物なのかもしれない。

 森を抜けてすぐ、俺達の姿を見た村人達はみんな例外なく驚いていたモンだ。魔物が棲み着いてから一年近く、ほとんど外部の人間がやって来なかったのだから、見覚えのない顔なんて目立つことだろう。

「魔物が現れて以降、魔導陣が組まれたってことは、それ以前にこの村にいた奴が犯人っていうことになるのか。でも、この村にそれほどまでに優れた実力を持つ魔術師はプラナを除けばいないはずだ……」

 これは、ミステリ小説でいう密室と同じようなものなのかもしれない。村そのものが一つの密室空間に近いものと化している。

 犯人はこの中にいるはずなのだが、実行できそうな奴が思い当たらない。

 顎に手を当て、しばし思考を巡らせる。

 俺やクローム、セシウにだって魔術師の気配を感じ取る能力はある。魔術師達はみんな魔術の波長を常に体から発してる。

 長時間魔術的物質に触れていると、身体そのものが魔力を帯びるようになる。本当に微弱な魔力を発し、常に周囲のマナを励起させている状態になってしまうからとのことだ。

 魔術的物質に触れている時間が長いということはそれだけ修行をしているということにも繋がり、発せられる魔力の出力からある程度実力を推し量ることもできる。

 今のところ、俺達のアンテナに引っかかるような村人はいない。狭い村だ。いたらすぐに気付くはずだろう。

「……犯人に心当たりは?」

 クロームが俺に尋ねる。こういう推理は俺の担当なんだが、どうにも情報が少なすぎて、決定的なものがない。目星すらつけようがないじゃないか。

 俺はただ短く唸るしかない。

「私としては一つ、思い当たる節がありますね」

 今度はプラナが口を開く。進展の可能性を示す一筋の光明に、俺達三人の視線がプラナへ一斉に注がれた。予断の許されない状況であるためか、俺達三人の視線は鋭く、多少の苛立ちさえ帯び始めている。剣呑な眼光を一身に受けたプラナは僅かにたじろぎながらも、咳払いを一つし顔を引き締めた。

「これほどの実力を持ちながら、世間一般に認知されておらず、また村人達の目に触れることもなく姿を隠し続けられる魔術師。そんな存在は限られています。もし無数にいたとしても、それは私達に認識されないように息を潜めて暮らしています。ただ、その中で、ずば抜けて高度な技術を持ち、凶悪な用途に力を注ぎ込む連中――私達はただ一つだけ、該当する集団を知っているではありませんか」

 ……反社会的な魔術。

 ……認識されない姿。

 ……高度な技術。

 ……並外れた実力を持つ魔術師。

 確かに、それらを掛け合わせた時、至るべき解は一つだ。

 俺も察しはついていた。

 ただどうしても認めたくなくて、俺はそれを敢えて口にはしなかった。

 プラナが集団と呼称したことにより、それは全て確定してしまったわけではあるが。

 クロームは黙したまま、ただプラナの言葉に耳を傾ける。眉間の皺は深い。クローム自身も予測がついていたことなのかもしれない。

 セシウさえも思い詰めるように、表情を曇らせ唇を噤んでいる。拳を握り締め、今にも壁に叩きつけそうな勢いだ。

「三人ともすでに予測はしていたでしょうが、今回の一件にはおそらく、いえ、ほぼ確実に魔族(アクチノイド)が関与しています」

「…………」

 俺達三人は誰も口を開かなかった。誰一人否定の言葉は見つけられず、沈黙が示すのは明確なる肯定に他ならない。

 その事実こそが、俺達の存在価値を示すものでもある。しかし歓迎できるものじゃあない。

 なんせ相手は魔族(アクチノイド)――全世界を敵に回してなお、途方もない歳月を生き延びてきた連中だ。この世界に終末を齎す生ける天災――終末龍(プルトニウス)の完全復活を望むイカれた連中。

 正面から相手にするのはできれば避けたい敵なのである。

「確証は?」

 念のために俺は訊ねてみる。

「ありません。しかしこれほどの魔術式を組める人間で思い当たるのは、彼らくらいです。しかも、このプログラミングから察するに、魔族でも上位の実力かと」

「なるほどな。クローム? お前はどう思う?」

 続いてクロームの意見を窺うことにする。先程から全く動かず腕を組んだままのクロームはやはり特に動きを見せることなく視線だけを俺に向けた。

「どうもこうもない。その魔導陣を組み上げたのが誰であれ、如何なるものであれ、村人に危害を及ぼすものであるのならば、容赦なく破壊する。それだけだ。敵が魔族となるのであれば尚更のこと。一切の容赦も情けもなく、諸悪は全て斬り捨てるのみだろう? 考慮する余地もなく、俺達は民衆に害をなす全てを斬り伏せ、斬り捨て、斬滅する」

 剣のように真っ直ぐな瞳が俺達へと注がれる。声音は鋼のように硬質で、例え如何なる一撃にも決して揺るがないことは明らかだった。

 本当にこいつは勇者だ。

 勇者は稼業じゃなく生き方っていう言葉に基づくのなら、こいつは本当に生まれた時から生粋の勇者なんだろう。

 ここまで実直に真っ直ぐに勇者としての在り方のままに突き進むことができる奴なんて、そういるもんじゃない。

 こいつのこの使命感ってのは、どこから来るモンなんだかな。

 セシウが肩にかかった、長いポニーテールを指先で弾き、一歩前へと歩み出る。

 視線は鋭く、いつものお気楽な雰囲気なんてこれっぽっちもない。引き絞られた瞳は魔導陣を睥睨し、しなやかな痩躯全体に力が伝達されているような感覚を覚える。滾る血潮に乗せて、指先まで力が行き渡り、今にも全てを破壊し尽くしてしまいそうな緊張感。

 俺の今まで見てきたセシウとは全てが異なる。脳天気に笑うこともなく、憤怒にも似た静かな表情だけがそこにはある。

 いつものことながら、戦闘モードに入ったセシウを見ると、俺はそいつが別人なんじゃないか、なんていうことばかり考えてしまう。

「で? どうする?」

 馬鹿らしさが欠片もない、落ち着き払った冷たい声で、セシウはクロームに問う。勇者もまた壁から背を離し、腰に佩いた剣を鞘から引き抜いた。

「粉砕しろ」

「了解」

 獰猛な笑みで答えながら、セシウは拳を強く撃ち合わせる。岩同士をぶつけ合わせたような鈍い音が拳から零れた。

 唇の両端が引き上げられ、セシウの唇の隙間から犬歯が覗く。それは獲物に狙いを定める捕食者の笑みに他ならなかった。

 姿勢を低くし、両手が地面に触れる。陸上競技などのスタート前の構えとは異なる、茂みに隠れ機会を窺っているかのような姿だ。

 双眸は炯々と輝きを放ち、不敵な笑みも相俟って残忍な印象さえ見る者に与える。

「魔導陣を包んでるのは上位の結界です。砕けますか?」

「上等ッ! 私は細かいことは分からないから、やることは一つだけ」

 ぐっとセシウの足に力が籠もった。俺の常人程度の眼がそれを視認した頃には、セシウの身体はすでに遙か先にあった。

 まるで放たれた矢のように、セシウの身体は魔導陣との距離を一瞬で翔破する。

「ただ全力で殴るのみ!」

 獅子の如き咆哮が上がり、セシウは右の拳を振りかぶって、速度と体重を乗せた一撃を結界へ叩き込んだ。

 猛々しい雄叫びが俺達の耳朶を打ち、次いで結界と拳がぶつかり合う重厚な音が鳴り響く。衝撃は波動となり俺達の身体にまで衝撃が叩きつけられる。

 本来結界なんてもんは生半可な干渉は全て弾き返すものだ。一般人がセシウみたいな真似をすれば、結界に弾かれて身体が虚空へ吹っ飛ばされるか、拳がイカれる。だというのに、セシウの拳は結界の反発と拮抗していた。

 人間業じゃねぇ。

 一応セシウが嵌めている革の手袋は特別製である。第二魔術――地の元素を用いた魔術――による付加魔術が施されており、力を増加させている。また拳を地の元素で編み込まれた薄い膜で包み込むことで保護する効果もあり、先程拳を合わせた時の音は実際のところ、岩同士をぶつけ合わせたような音ではなく、岩同士をぶつけ合わせた音と言った方が表現としては近いわけだ。

 とはいえ、基本となる力はセシウの腕力によるもの。付加魔術なんてこいつの馬鹿力のおまけ程度のようなもんだ。

 こいつの拳は俺の銃弾で貫けないものも易々と砕いてみせる。基礎的な力が大きく違うのである。

 強大な脅威の干渉を結界は認識し、非常時のプログラムが動き始める。結界全体の厚みが増し、俺のような常人の目でも結界を視認できるようになっていく。

 拳と接触してる結界の周囲には無数の罅が走り、あと一押しで砕け散ってしまいそうだ。しかし、修復プログラムも駆動を始めたようで、新たに罅が生じていく中で、古い罅が消えていく。

 しぶとい結界に業を煮やし、セシウは舌打ちをする。

「さっさと――壊れろッ!」

 低い声で唸り、セシウは左腕を振り上げ、渾身の力をさらに結界へと叩き込む。

 再び激しい衝撃が俺達の身体に叩きつけられる。

 それが最後の一撃だった。

 すでに負荷限界を迎えつつあった結界全体を夥しい数の罅が覆い、次の瞬間無数の硝子細工が割れるような繊細な音の群衆が濁流となって俺達の耳へと流れ込む。透明な破片が虚空を舞い、それらはやがて形を保てなくなりエーテルへと戻り、消滅していく。

 消えていく破片の中、次第に剥がれていく結界の向こうに魔導陣があった。

 おかしな光景だ。何もないはずの場所に半球状の罅が入り、その隙間からは魔導陣が見える。

 まるで騙し絵のよう。

 そんな能天気な感想を抱く、俺の隣を銀色の閃きが駆け抜ける。

 クロームだ。

 引き抜いた剣を振りかざし、結界の向こうの魔導陣へと真っ直ぐに疾駆していく。

「よくやったぞ、セシウ」

 短い賛辞の言葉を述べながら、クロームは魔導陣へと斬りかかる。クロームの愛剣デュランダルは魔術的な物質に対して、かなりの有効性を持つ。結界や障壁などという防御主体の物に関しては破壊に特化したセシウの打撃の方が優秀であるが、魔導陣を無力化するのであれば、クロームの剣の方が向いている。

 この辺の役割分担は俺の練った戦闘を効率的かつ確実に行うための構想の一つである。

 クロームの剣が振り抜かれ、魔導陣を断ち切ろうとしたその刹那――突如魔導陣が紫苑の輝きを放ち、黒い煙が噴出した。

「なっ!?」

 予想していなかった事態に俺は驚きの声を上げるだけで、判断が遅れる。だが、セシウの反応は機敏だった。即座に飛び下がり、すでに前に踏み込みきって戻ることのできないクロームの腹部に腕を回し、強引に引き戻す。半ば力任せだった為か、腹部への圧迫にクロームは唇の端から短い苦悶の声を漏らした。

 セシウの反応の早さのお陰で二人は黒い煙から逃れ、俺達のすぐ側まで戻ってくることができた。

「ちょ! 何なの! あれ! 聞いてないよ!?」

 何故か俺へと文句を言ってくるが、俺どころかプラナでさえ予想外だったんだ。そんなこと言われてもどうしようもない。

「プラナ、ありゃなんだ?」

「……即効性の毒素を含んだ煙ですね。濃度で言えば、人体への影響は少ないですが、おそらくあのまま吸い込んでいたら、クロームもセシウもすぐには動けなかったでしょう……しかし、あの魔導陣にあんなものまで仕込んでいるなんて、にわかには信じ難い話ですね」

 結界を破壊した相手を無力化することによって、魔導陣自体は守りきるシステムってわけか。

 ただ、それなら強力な毒を用意すればいいだけのはずだ。相手の身動きを抑えるだけじゃ意味がない。

 なら次に出てくるものはある程度予想ができる。

「プラナ、念のため煙散らしておけ」

「あ、は、はい」

 俺の指示を受けて、プラナは杖を構えて詠唱を始める。俺はその透き通った声音を聞き流しつつ、傍らで膝をついたままの二人へと目をやる。

「二人とも立っておけ。多分、こっからが本番だ」

「はぁ? まだあんの?」

 悪態を吐きながらもセシウは渋々と立ち上がり、ジーンズについた汚れを叩いて落とす。隣のクロームも悠然と立ち上がり、剣を一度振り抜いた。

「ガンマ、何が来る?」

「さっきの煙は神経毒だったみてぇだ。そこで動きを封じるってことは、身動きが取れなくなった奴を何らかの方法で仕留めきる必要がある。つまりは――」

「召喚獣か……」

 クロームが苦虫を数十匹ほど一度に噛み潰したように顔を顰める。黒い煙に隠れてしまった魔導陣を、クロームはじっと睨み付けた。質量が空気よりも重いのか、噴出された煙は地面を這うように充満していっている。

「下手に暴れられた場合、村人に気付かれる可能性もある。できるだけ迅速に倒すっきゃねぇ。お前とセシウにかかってる。頼むぞ」

「愚問だ。俺を誰だと思っている」

 言ってクロームは指先で剣を半回転させ逆手に持つ。俺もヒップホルスターから銃を抜き、人差し指に引っかけてくるくると回す。

「そうだった。そういやお前は勇者だったわ」

「任せておけ。お前の予測が外れていなければ、勇者の名に恥じぬ伝説の一片を見せてやろう」

 いつもの抑揚のない落ち着いた声。だが、その唇が微かに笑んでいることを俺は見逃さなかった。

「そりゃ楽しみにしてるぜ、勇者様」

 皮肉もなく素直に言って、俺達は剣の柄頭と銃把の底を軽く打ち合わせる。

「セシウ、行けるか?」

「もち!」

 セシウもまた親指を突き立てて、にこやかに答えてくる。先程までの獰猛な表情とは大違いだ。あの姿を見た後だと、この普段は苛立ちを覚える能天気な笑顔にも安心する。

 俺の知ってるセシウなんだと分かってほっとするところがあった。やっぱ、どうにも昔から馴染みのある奴のああいう表情を見るのは慣れないな。

「プラナ、準備はできてる。煙を払ってくれ」

 すでに詠唱を終えプログラミングを完了しているプラナの正面には、すでにその身長より少し大きめの魔導陣が展開されている。虚空に刻み込まれた魔導陣――その紋様と組成式は緑色の燐光を放ち、風の元素が十分に充填されていることも明らかだ。プラナは小さく頷き、杖を胸の前で横に構えると、閉ざしていた紅い目が開かれる。

「Si ee swinon――Es Arkhe」

 最後に始動式が実行され、魔導陣は駆動を開始する。魔導陣が回転を始め、周囲に燐光を散らし始めた。

 一陣の風が吹く。セシウの結い上げた髪が、フードから零れるプラナの脇髪とローブの裾が揺れ踊る。

 次いで、どこからともなく狭い空間に強風が吹き荒れた。

 耳のすぐ側で風が唸りを上げ、俺達の服の裾がはためき翻る。

 黒い煙は逆巻く疾風に絡め取られ、舞い上がり、渦を巻き、霧散していく。それでも尚魔導陣から吹き出す黒い煙も、風の力には勝てずもうすぐ消え失せるだろう。舞い上がった煙の向こうには僅かな影も見える。

 人型に近くも人とは決定的に違う輪郭――予想通り召喚獣が出てきているようだ。とはいえ下半身の部分はまだ再構成が不完全だ。

 これは好機……。

「クローム!」

「言われずともっ!」

 静かに、それでも力強く答え、クロームが動き出す。追い風の力も相俟って一瞬で最高速に達したクロームは白銀の閃きと化し、煙もろとも再構成が終わっていない召喚獣を一刀両断した。

 いや、俺の主観からすれば、したと思われると言ったところか。俺が気付いた時には剣を逆手に持ったクロームがすでに魔導陣の向こう側におり、煙に一条の切れ目だけが残っていた。

 いや、それも違う。

 煙に次々と新たな切れ目が生まれていく。やがてそれは煙を容赦なく切り刻んだ。

「造作もない……」

 クロームの手の中で銀色の剣が半回転し、滑らかな動作で鞘へと納める。鯉口を締める金属質の澄み切った音が鳴り、一拍置いて煙の間隙から召喚獣の血飛沫が噴き出した。

 魔術によって、エーテルで構築された仮初の模造品である召喚獣の血潮は、組成式の束縛から解放されエーテルに還り、消え失せていく。

 召喚獣の肉体は完全に切り刻まれているが、それでもまだ実体を保っている。

「うおらああッ!」

 クロームより僅かに遅れ、走り出したセシウの拳が雄叫びと共に召喚獣の崩壊寸前の実体へと叩き込まれる。

 肉を潰し、骨を砕く、濡れた破砕音が鳴る。さらに一撃、残った拳を下方から突き上げるような軌道で腹部へと叩き込む。獣の身体が腹部を中心に折れ曲がる。まるで折り畳まれるような曲がり方は、背骨が完全に折れていることを暗示していた。

 短くセシウが笑う。無邪気で、残酷な、短い笑声が俺の耳に突き刺さる。それは骨を砕く音なんかより、肉を抉る音なんかよりずっと平穏な笑い声なのに、だからこそこの場所には不釣り合いで俺には何よりも気持ちが悪いものに思える。

 召喚獣の原形は最早ない。肉は切り刻まれ、セシウによって殴られた胸部と腹部は陥没し、四肢の末端はすでにエーテルの分解が始まっていた。

 拳を引いたセシウの右脚が弧を描きながら撥ね上がる。

「砕けろっ!」

 ボロボロになったスニーカーの踵が振り下ろされる。頭頂部に容赦なく踵が叩きつけられ、頭部が沈み込む。比喩ではなく本当に、頭部そのものが首元へと沈み込んでいた。

 顔は縦に押し潰され、最早異形の顔さえ窺うことができなくなる。

 容赦のない限りだ。

 俺はただ拳を握り締め、その様子を見ていた。最早俺が何かをする必要もない。一度も引き金に指をかけていない銃をヒップホルスターへと突っ込み、眼鏡を押し上げた。

 心臓も脳みそも潰され、背骨を折られ、その上あれだけの大出血。さすがの召喚獣でさえ生きていられるわけがない。

 どう考えても決まりだ。

 俺の予想通り、めり込んだセシウの踵が外された召喚獣の肉体は前方に傾いていきながら、エーテルに分解されていく。完全に生命としての機能が停滞した模造品の崩壊は早く、目前に立つセシウに触れるよりも先に、肉体は完全に霧散した。

 粉雪のような破片は風に巻き上げられ、すぐに極小のエーテルへと分解されてしまう。それらは大気に溶け込み、最早俺達の目には見えないものとなった。

 煙も晴れ、風も止んだ。すでに魔導陣からも黒煙が消え失せている。

「終わったのか? 今度は魔導陣が爆発したりとかしないだろうな?」

 恐る恐る訊ねる俺に、プラナは静かに首を横に振る。

「おそらくそのようなことはないと思います。元々あの魔導陣にはギリギリまでプログラムが押し込まれていました。そこへさらに非常用の防衛魔術のプログラムを無理矢理突っ込んでいたような状態。もともと神経毒も召喚魔術も、片方だけを限界まで入力するだけでは満足な効果を期待できないので、組み合わせることで効果を底上げしようとしていたのでしょう」

 なるほど、ねぇ。毒も召喚獣も俺達にとっては大したこともなかったが、クロームとセシウが毒をまともに吸って身動きができなくなった場合のことを考えると恐ろしくはある。

 前衛二人が潰れたら、俺達はどうすることもできない。俺もプラナもサポートがメインだ。プラナの魔術があれば倒すこともできるが、詠唱が終わるまでの間は俺一人で召喚獣を相手にしなければならない。正直、守りきれる自信はなかった。

 実は結構危ない状況だったのかもしれねぇな。

「まだ終わっていないだろう。魔導陣を破壊するのが本来の目的だ。最後まで気を抜くんじゃない」

 落ち着いた声で俺達を諫め、クロームは魔導陣へと歩み寄る。腰に佩いた剣を引き抜き、クロームは剣を魔導陣の中心へと突き立てた。

 まるで地面がバターのようだ。あっさりと剣の尖端が沈み込んだ。

 剣を突き刺された瞬間、魔導陣が一瞬強い光を放ったと思うと、急速に光が衰え始める。光を放っていた紋章はやがて完全に輝きを失い、魔導陣全体に剣を中心とした罅が広がっていく。

 そしてまた崩壊。結界や召喚獣の時と同じように、魔導陣は硝子が割れるような音を立てて粉々に砕け、飛び散った破片もすぐに霧散する。