1Cr Drudgery―白黒徒花―

03.Hopes Similar to Cm―希望は美女に似ている―Verse 2

 存外、酒場から宿屋に帰るのは早かった。俺が酒場に戻る頃にはセシウはべろんべろんに酔っていて、そう待たないうちに潰れた。プラナもあまり酒に強いわけではないため、酒にはほとんど手を付けずおつまみのチーズばかりを食っていた。クロームは一人酒を嗜んでいたわけだが、俺と一緒に酒を少し飲み交わした後、早々に切り上げることを決めた。

 酔いつぶれたセシウは俺が背負い、クロームは足下がふらつくプラナに肩を貸して、のんびりとした足取りで宿屋に帰ることになったわけである。

 クロームも帰ってすぐ、床に就いた。俺もそれに合わせてベッドで横になり、クロームが寝静まるのを待って、部屋を出た。

 帰ってすぐ、机の抽斗の中から本がなくなったのを確認している。キュリーが持っていったのだろう。

 隣の女性陣の部屋からも物音は聞こえない。二人ともすでに酩酊状態だったので、あっという間に寝たようだ。

 消灯されて真っ暗な廊下に出て、俺は深呼吸をする。看板娘もその親父である店主もすでに寝ているだろう。

 田舎の夜は早い。

 俺達が帰ってくるのを宿屋の二人は眠気に耐えながら待っていてくれたようだ。悪いことをした。これからは帰りが遅くならないようにしなければならないな、などと反省してしまう。

「さて、と……」

 俺は三号室の隣の扉、一号室の扉に目をやる。扉の隙間から灯りは漏れていない。そりゃそうか。なんせ隠れ潜んでいるわけだしな。

 目は暗闇に慣れ、ある程度の距離は十分見える。歩くのにも支障はない。

 これから会う相手は《魔族(アクチノイド)》――謂わば俺たち人類の敵だ。そんな奴とこっそり約束を交わし、律儀に約束を守ろうとしている俺は、まるで内通者のよう。

 キュリーと会うということは一線を超えるということ。

 どんな理由があっても敵との密会に変わりはない。

 それでも行くしかない。

 今は少しでも情報がほしい。もし仮に向こうが俺たちを混乱させるために誤った情報を与えようとしているんだとしても、何とか情報を引き出せばいいだけのことだ。

 俺だって勇者一行の一人。

 鉄風吹き荒ぶ戦場の最前線には立てないならば、蛇蝎の謀略蠢く情報戦の最前線に立てばいいだけのことだ。それすらできなくてどうする。

 覚悟を決めて、俺は一号室の扉をノックする。

「来たか」

 扉の向こうから聞こえてくるキュリーの声。

 鍵はかけていなかったらしく、扉がそのままゆっくりと開けられる。蝶番の軋む音がやけに耳についた。他に物音がないせいだろう。

 僅かにできた隙間から女性の顔が覗く。初めて見る、おそらくキュリーの顔であった。

 想像を絶するほどの美女だ。それが最初に抱いた印象。

 顔は小さく、目鼻立ちがはっきりとしている。鼻梁はすっと通っているが高すぎず、個人的には適度な高さだ。切れ長ながらも丸みがある黒い目はそれほど大きくはなく、キュリーの落ち着いた雰囲気らしい力強さがあった。柳のように細い眉とよく合っている。

 瞳が大きいな。黒目の部分が多い。

 顔の脇から零れる髪は長く、膝まであるんじゃなかろうか。驚くほど艶やかなストレートヘアでダメージなんて一切ない緑の黒髪だ。

 外見的な年齢で言うと俺に近いくらいか。その気さくな笑みは姐御肌の印象を与え、人当たりのいい姉ちゃんみてぇな感じだ。

 あ、左目に泣きぼくろ発見。イイ女の証だ。

「どうした、そんなに人の顔をじっと見て」

「いや……別嬪だな、と」

 俺の正直な感想に、キュリーはにっこりと微笑む。本当にいい奴がしそうな笑顔だな。

「それはどうも。さ、入ってくれ。立ち話もなんだ」

 言って、キュリーは顔を引っ込めて、扉を開ける。さてさて、ここまでは俺の好みにドストライクの女である。あとはスタイルだ。

 一体どんなナイスバデーなんだか……。

 そんな期待を抱きながら、開かれていく扉の向こうに注目し、俺はやがて言葉を失った。

「ちょ……! お、おい……!」

 声にならない声を喉から漏れ出しながら、俺は咄嗟に目を逸らす。

 お、おい、なんだ? 今、肌色しか見えなかったぞ……?

「ん? ああ、すまない。服を着るのは苦手なんだ」

「だ、だからって……! おま! ……ぜ、全裸じゃねぇか……」

 必死に俺は廊下の方へと目をやる。が、謎の引力が俺の眼を引っ張る。他でもないキュリーの方へと。

 これは俺の意志ではなく、何らかの引力のせいであって、決して俺のせいではない。不可抗力である。

 む、胸は大きい。俺に掌から少し零れるであろうくらいの程よいサイズである。幸いなことに髪が乳房の上にかかっているお陰で全体は見えない。ざんね……いや、よかったよかった。チクショウ、よかった。

 腰は細いながら、肋骨が浮かぶほど脂肪がないわけではない。女性としての柔らかさを感じさせながらもしっかりと細い適度なくびれ具合だ。ケツもいい締まり具合だな。肉付きがよく、さらさらとしていそうだ。

 太股も肉厚な感じがグッド。下に行くほど細くなっていく脚線美にそそられる。特に膨ら脛のハリがある膨らみ具合と、きゅっと締まった足首がヤバイ。

 決してまじまじと見たわけじゃないぞ……。これは謎の引力が原因であって、俺は何も悪いことはしていないのだ。何度も言うが。

「あんまり気にすることはないぞ。別に見られて困るものでもない。さ、上がれ」

 言って、キュリーは部屋へと引っ込む。部屋の机には手元を照らすために蝋燭が一本だけ置かれており、ぼんやりとした橙色の光がキュリーの白い肢体を照らし出す。あ、背中のラインと浮かび上がる肩胛骨がヤバイ、エロイ。尻なんてまるで白桃のようで……。

「だ、だから……俺が落ち着かねぇんだよ……!」

 抑えた声で必死に反論するも、キュリーは何食わぬ顔だ。渋々と部屋に入りながらも、俺はずっと視線を彷徨わせるばかりだ……。

「ふむ……と、言われてもなぁ。服を着ると私が落ち着かないのだぞ」

 ふんっと腰に手を当て胸を張るキュリー。

 わー! 馬鹿やめろ! 乳房にかかっていた髪が零れそうだ!

「せ、せめてだ。下着くらい着ろ……」

「下着が一番いやなのだがなぁ。密着するようなものが一番嫌いなんだ」

 そんな堂々と宣言すんなよ。何、こいつ裸族なの?

 俺の理性がやばいんだけど。

「じゃあ、せめてこれくらい着ろ」

 言って、俺は自分の着ていたジャケットを脱ぎ、キュリーに差し出す。

「……んー、仕様がない奴だな。別に童貞というわけではないのだろう?」

 キュリーはジャケットを俺から受け取りながら唇を尖らせる。そんなに服を着るのがいやなんだろうか。

「あったりめぇだろ。これでも結構遊んでる方だ」

「ふふ、罪な男だな」

 言いながらキュリーは俺のジャケットに袖を通す。ちょうど胸元が隠れて……逆に官能的だ。こ、これはまずい。

 蝋燭の自然な灯りでぼんやりと浮かび上がる柔らかな肢体、そして裸にジャケットという普段はお目にかかることのない姿。

 ま、まずいだろ……。

「これで、いいのか?」

「あ、ああ。それなら、まあ、良しとしよう」

 まあ、目のやり場には多少困らなくなってきた。

 お陰で周囲を観察する余裕も生まれる。部屋の間取りは俺達の部屋とほとんど同じだ。ベッドは二つ、机は一つ、その他の調度品にも大差はない。

「いつからこの部屋を使っているんだ?」

「お前達がここに泊まる少し前、くらいかな」

「なるほどな。お前が使ってるから、あの娘さんがいつもここを片付けてたわけか」

 それなら納得がいく。たまに隣の部屋から感じた誰かの気配も、こいつのものだったんだろう。

 看板娘も甲斐甲斐しい。

「あー、本は読ませてもらったぞ。時間が余ってな。二巻の方も借りたがよかったか?」

 机の上に置いてあった本を手に取り、俺に掲げてみせる。こいつ、俺の鞄を漁ったな……。別に文句はねぇんだが。

 敵の一時的な拠点で堂々と物色をするとは、こいつは本当に大胆不敵だな。

「読むの早い方か?」

「そうだな。読書は趣味でな。いつの間にか速読になっていたよ」

 答えながらキュリーは机の椅子に腰掛ける。一糸纏わぬケツで木製の椅子に座って痛くならないものなのだろうか?

 キュリーは俺にベッドへ座るように促す。拒む理由もなく、俺は素直にベッドへと腰を下ろした。

「感想は?」

「なかなかに面白かったよ。最後の伏線回収は一巻の方が巧妙であったが、反面二巻はすでに世界観が固定されているお陰で物語が伸び伸びとしていた、かな」

「ふぅん」

 悪くなさそうだな。ちなみに俺は一巻の中程までしか読んでいない。

 まあ、俺は暇を見つけてちょくちょく読む感じだし。

 部屋には蝋燭の優しい灯りのみ。キュリーの姿がぼんやりと浮かび上がっていて、余計官能的に見えてくる。

「さて、早速本題に入ろうか、ガンマ。魔導陣をどうするか、だ」

「魔導陣の起動は本当に明日の晩なんだな?」

「ああ、そこに間違いはない。とはいえ、あれは術者の手で起動するもので、時限式ではないんだが。術者はおそらく予定通りの時刻に起動させることだろう。偶然ではあるが、勇者一行もいる。なおさら予定は変えないはずだ」

 俺達を待ち受けていたわけではないか。当然と言えば当然だけど。なんせ、俺達はプランもなくその場の考えで行き先を決めているし。

「術者の意志で起動できるとするならば、下手を打つと予定は早まるか?」

「効果が大きく削がれるレベルであれば、その可能性も考えられる。奴は、その程度には柔軟な思考を持ち合わせている」

 まあ、そりゃそうか。予定を尊重して、計画が頓挫したら意味はねぇ。

 そうなると地道に魔導陣を破壊するようなことも危険なのかもしれない。

「一番、手っ取り早いのは術者そのものを叩くことか」

 キュリーは机に頬杖をかいて、くすりと笑う。さらさらと流れる黒い髪は見惚れるほどに美しい。

 本当に俺の好みドストライクなんだよな、こいつ……。

「それは確かに一番早い方法だ。その上確実でもある。ただ、私も一応《魔族(アクチノイド)》だ。仲間を売るわけにはいかない」

「ふぅん、術者も《魔族(アクチノイド)》ってわけか。やっぱ」

 仲間を売れないってことはそういうことだろう。

 まあ、分かっていたことだけど、確信できる要素が手に入ったのは大きい。

「賢しいな」

 皮肉を言うようにでもなく、純粋に褒めるようにキュリーは呟く。

「こんぐらい序の口だよ」

「そうだな。そうでなければ、お前にこのようなことは話さないだろう」

 キュリーの遠回しな褒め言葉に俺は渇いた苦笑を漏らす。そうだな、仮にも認められたからこそ、俺が選ばれたわけだ。

「《魔族(アクチノイド)》に認められるってのはある意味光栄かもしれねぇな」

「私はお前を高く買っているよ。なかなかに見込みがある」

 こいつもこいつで知性的だ。考えを巡らせる頭脳と知識、そして最後に物を言う経験があるのだろう。

 キュリーが味方であれば、どれだけ楽なことだか。

「そらどうも。で、そうなると村人を生還させるのはさらに難しいんじゃないのか?」

「一番確実なのは村人を外部に逃がすことだ。森に入り逃げることができれば、魔術の効果範囲外となるはずだ」

「おいおい、森には厄介な魔物がいるって話だぞ? そいつらから村人全員を守るのは、クローム達でも辛い」

 一匹相手にするだけでもクロームはそれなりに手こずっていた。四人がかりでも、村人を守りながら戦うのは辛いだろう。

 あまり安全な策とは言えない。

「その点なら問題はない。あれは術者に頼まれて、私が召喚した式神だ。尤も、その一匹はすでにお前達にやられてしまったがな」

「へぇ、式神、ねぇ」

 式神――東洋における召喚獣の呼称だったか。そういえばこいつの顔立ちも東洋系だ。セシウとかとはまた趣の異なる見てくれのよさは、その辺の血も入ってるせいなのかね。

 あれだけの式神を四体、それも長期間召喚させていられる辺り、こいつの力が読み取れる。

 恐ろしい限りだ。《魔族(アクチノイド)》ってのは。

「明日、お前達が村人を脱出させるというのなら、式神達が危害を加えないように私が手配しよう。召喚を解くとなると私が怪しまれる。もし姿を見つけてもできる限り手は出さないでくれ。あれでも、私が育てた式神なのだ。できれば失いたくはない」

 目を伏せ、手元に視線を落とすキュリー。その声は痛みに耐えるようで、キュリーにとってすればあの化け物でしかない式神もペットと同じようなものなんだな。

《魔族(アクチノイド)》は全員非情で冷酷な破綻者ばかりだと思っていたが、その認識も改めるべきなのかもしれない。キュリーが例外であるという可能性もあるが。

「知らなかったとはいえ、あの白い狼のことは悪かった」

「瞬のことか? いいさ。仕方のないことだ。頼まれ事とはいえ、私はあの森に入った多くの人間を殺してきた。そういうこともあるさ」

 殊勝な奴だ。

 人間よりも人間らしく、人間よりも遙かに達観している。諦観とも悲観とも違う、悟ったような物の見方をしていた。

「……この村を捨てさせる、か。あいつらに」

それは一番安全な方法かもしれない。

 でも村人達はこの村を愛しているんだよな、きっと。それを捨てさせなければならないのか?

 こんなにも素晴らしい場所を、永遠に喪わなければいけないのか?

 俺もこの村は気に入っている。少し憚られるものがあった。

「魔導陣の起動には幾分、時間がかかる。あの魔導陣は最終的な始動式を組み上げなければ起動しない。その詠唱に関わる時間はおよそ三十分――タイムトライアルだ。あまり猶予があるとは言えない」

 その間に村人全員を避難させなければならないわけか。

 ……小さいとはいえ、村人の数は百数十人ほど。その数を統率し、三十分以内に逃げなければならない。

 少し辛い物があるよな。

「なあ、あのトリエラとかっていう魔術師はやっぱり《魔族(アクチノイド)》と協力関係にあるのか?」

 トリエラ自身はおそらく《魔族(アクチノイド)》ではない。《魔族(アクチノイド)》と人間を見分けることができるプラナがそう言うのだから、間違ってはいないはずだ。

 いや、それを過信するのも愚かではあるんだが。

「そう聞かれて、私が答えられると思うか?」

「まあ、だよな」

 一応こいつにも立場ってもんはある。無理に聞き出すわけにはいかん。それに機嫌を損ねて、殺されたらたまらない。

 キュリーは前髪を掻き上げため息を吐き出す。

「どうする? ガンマよ? お前達が行動を起こし、相手が危険だと判断してからの猶予は僅か三十分。その時間でできることを考えなければならない」

「トリエラを説得できれば、《魔族(アクチノイド)》を表舞台に引き出すことができる。あとはクローム達と共にそいつを叩く。それができれば魔導陣は絶対に起動しない」

「あれが、そんな説得に応じるものか?」

 ……仰るとおりである。

 先程の様子を見る限り、あいつはプライドが高く、傲慢、また強情だろう。最悪《魔族(アクチノイド)》に情報をリークされ、残された時間を縮めることになりかねない。

「交渉事は得意な方だが、危ない橋だな」

「ああ、いつ紐が千切れるかも分からぬ。その上板は全て傷んでいそうな橋だ」

 渡るのは愚の骨頂。

 分かりきったことだ。

「クソ……ここは完全に相手の領域(フィールド)になってやがる。相当数の人質、閉鎖された環境、張り巡らされた魔術……付け入る隙がねぇ」

 キュリーが森を通してくれるように手配をしてくれただけ、まだいい方だ。ここでキュリーの協力がなければ脱出という選択肢さえ取れなかった。

 あまりにも分が悪い……。

 考えろ……考えろ……。

 村人達を救う手立てを。

「私も、できれば虐殺の片棒は担ぎたくない。この村はいい場所で。自然が溢れ、村人達は生き生きとしており、誰もが平穏に笑って暮らしている。そんな場所を壊すのは、あまり気が進まないものだ」

 ……こいつは本当に《魔族(アクチノイド)》なんだろうか?

 俺達なんかよりずっと人格者にさえ思えてくる。

 こいつはどこまでが本音で、どこからが嘘なんだ? そもそも真実と虚構は混在しているのか?

 ……どうにも奥が見えない奴だ。

「やっぱり、制限時間内に魔導陣を全て破壊するのが一番確実か……」

 思い詰めた顔で俺は結論を絞り出す。こんな案しか浮かばない自分に苛立ちを覚えた。

 キュリーは驚いたように目を瞠り、やがて顎に指をかけて思考を巡らせ始める。

「確かに――勇者一行の実力があれば不可能ではない。プログラミングコードもあるのだ。お前のところの魔術師なら明晩前には対策プログラムを構築できないことはなさそうではある。しかし、どうやって三人を説得する? 私が関与していることは言えんだろう」

「まあ、な」

 事実を知ればクロームは拒むだろう。敵の助言に従うほどあいつは敵に対して寛容じゃない。

 俺の言葉も聞かず、キュリーを殺しにかかるかもしれない。

 これ以上の面倒事はごめんである。

「その次はさっきお前が言った村人全員を村から脱出させる方法」

「うむ。この村を失うのは惜しいが、村人を確実に安全圏まで連れて行ける。ここから南下した先には大規模な都市もある。事情を説明すれば、村人全員分の寝食も保証されよう」

 確かに、南には都市がある。かなり大きい街だ。キュリーの言うとおりだろう。

 あれだけの規模ならば、しばらくの間村人全員の安寧は保たれる。

「問題は村人全員を統率できるか、否か……」

 少しでも混乱が起これば、それは伝播して大きなタイムロスとなる。

 こちらもやはり苦しい賭けだ。

 蝋燭はいつの間にか随分と短くなり、溶けた蝋が机の上で固まっていた。

 キュリーにできることは限られている。実力も頭脳も俺より遙かに上だが、その制限がある以上そこまで頼るわけにはいくまい。

 それにキュリーが言っていることが正しいという保証もないのだ。もし仮に森を抜けて脱出しようとしても、彼女の式神三匹に襲われれば村人を助けきることはまず不可能だし、俺達だって危うい。

 これが罠である可能性だって否定はできない。

 俺は考えなければならない。何を信じるべきで、何を疑うべきなのか、を。

「ガンマよ。喉は渇かないか?」

「ん? あー、そりゃまあな」

 不意に投げられた問いに、俺は思考に意識を傾けたまま素っ気なく返答する。するとキュリーはおもむろに立ち上がり、俺の方へと歩み寄ってきた。

「一杯どうだ? いい酒がある」

 言いながらキュリーは何を思ったのか俺の隣に腰を下ろしやがった。

 柔らかい肢体がすぐ側にある。

 長い黒髪からは石鹸の香りが漂い、俺の鼻腔を刺激してくる。

 ……な、なんだ?

「酒なんてどこに?」

「ここに」

 言ってキュリーが掲げた手には一本のボトルが握られていた。もう片手には二つのグラス。気が利くことに氷まで入っている。

 なるほど、それも魔術か。

「どうだ? お互い頭が凝り固まってきただろう。アルコールで脳を少しばかり柔らかくしないか?」

 妖艶な上目遣いでキュリーが俺の顔色を窺ってくる。蝋燭の灯りから遠離ったキュリーの顔ははっきりとせず、その不明瞭さが逆に彼女の色気を強めていた。

 紅い唇の艶やかさが官能的だ。

「そう言って、本当は酒が飲みたいだけなんじゃねぇのか?」

「ふふ、まあ、な」

 どこか湿っぽい声で肯定し、キュリーは俺の前にグラスを掲げてくる。

 細い指先だ。ハリがあって絹のように滑らかな肌に包まれている。

 しばし躊躇ったものの、美人の誘いは断りきれず、結局俺はそのグラスを手に取っていた。

「ほら、注いでやる」

 言って、キュリーは俺にさらに身を寄せてくる。それはもうほとんど撓垂れかかるようなもんだった。

「い……!」

 腕に柔らかい感触。分かるぞ。これは間違いなく胸の感触だ。

 俺のシャツと、キュリーの着たジャケットだけが隔たり。

 別の意味で獲って食われそうなんだが……。

 身を強ばらせる俺に構うことなくキュリーは俺のグラスに透明な液体を注ぎ、自分のグラスにも同様に注ぐ。

「ふふ、ガンマよ、夜はまだ長い。最後まで付き合ってもらうぞ」

 艶美な笑みで俺を見上げ、キュリーはグラスを持った手を伸ばし、俺のグラスに打ち合わせてくる。身体にかかるキュリーの重みがさらに増した。悪い気はしねぇな、実際。

「なんだ、偉く機嫌がよさそうじゃねぇか」

 茶化すような俺のその場しのぎに、酒を呷ったキュリーはくすりと笑う。頬は上気し、目は潤み、瞬きのたびに震える睫毛がやけに目につく横顔だ。

「独り酒にも、飽きていたところなのだよ。どんな美酒も、語らう者がいなければ、ただの水よりも不味いものさ」

 官能的な表情で答えるキュリーに惑っちまいそうになって、俺はほとんど衝動的にぐびっと酒を喉に流し込んでいた。

 喉を焼く冷たい酒。度数はかなり強いようだが、いい味だ。

 ふむ、悪くない芋焼酎である。

 キュリーの出で立ちや式神という呼称から考えて、焼酎の本場である東洋の物と考えていいかもしれない。

 あー、腕に感じる柔らかい感触を無視して、酒のこと考えるのも辛くなってきた。

 俺の、どす黒い欲望との戦いはこうして静かに幕を開けた。