1Cr Drudgery―白黒徒花―
04.#A757A8 Th―群咲の魔女―Verse 4
〆
ここは……どこだ?
体中が痛む。くぐもったような鈍い痛みだ。身体を少し動かそうと思っただけで、ずきずきと身体の芯から痛みが走った。
なんだか全身が重い。鉛のようとはこういうことを言うんだろう。関節は油が切れた機械みたいにぎこちなく、なんとか動かそうとしても骨だけが軋んだ。
体中のありとあらゆる場所が痛い。痛みにそれ以外の感覚が埋もれている。もうどこが痛いのかさえはっきりとは分からず、ただ痛いという感覚だけを脳が捉えていた。
頭がぼーっとする。視界が定まらない。絶え間なく鳴り響く騒音も、くぐもっていて何が何だか分からない。なんか、鼻につんと刺すような痛み。なんだ? この刺激の強い臭いは……。酷く臭い……不快だ。
でもそこから逃げるように行動することも億劫で、俺はずっと横たわっていた。きっと横たわっているんだろう。よく分からない。
なんか頭には心地よい、適度に弾力のある感触。少し表面がざらざらしてるけど、温もりがすごく落ち着く。ああ、こりゃ寝心地が悪くない。
全身に痛みがなかったら、もっと最高だった。
俺は……寝ていたのか?
状況を把握できず、俺は重い瞼を何とか押し上げる。
靄のかかった視界。全ての輪郭が崩れ去り、何が何だかさっぱり分からない。視界の上半分を何かが覆っている。そういや、なんか額に濡れた感触がある。
こりゃ、手ぬぐいか?
はは、まるで熱でも出したみてぇじゃねぇか。
「ガンマ……? 起きた、の?」
何か聞こえる。
耳に触れるだけでとても落ち着く声だった。でもなんだかその声は湿り気を帯び、震えていた。
一体、何がどうしたんだろうか……。
視界のピントがようやく合ってくる。俺は何かを見上げていた。紅い髪が見える。長いその髪は俺の頬へとかかりなんだかくすぐったい。
それに、すごくいい香りだ。ずっと漂っている刺激臭がなかったら、もっと素敵だっただろう。
ぼんやりとだけど、視界に映るものが顔だと理解する。ゆっくりと定まっていく焦点。やがてそれはブレていた輪郭を纏め上げ、明瞭なものへと変わっていく。
「ああ……セシウ、か」
自分の口から出た声は驚きほど掠れていた。なんだこれ、すごく喋りづらい。ていうか声を出す度に喉が痛む。
なんだこれ……。身体が全然思った通りに動かない。少し無理をしただけで全身に激痛が走る。
目の前にある顔は、すごく見慣れたもので、でも今は見慣れない表情をしていて――それが何を示しているのか考えるのも億劫だった。
目が紅い……。一体どうしたんだ。唇を震わせ、じっと俺を見下ろしている。
頬に水滴が落ちてくる。なんだ? 雨でも降ってるのか?
未だに頭がまともに動いていない。考えるのがすごくダルい。
「ガンマ……? 大丈夫?」
「だ、だいじょうぶにみえる、か? なんかあっちこっち……ッ、イテぇんだ……なんだ、こりゃ? そんな、ハードなプレイは……あんま、すきじゃねぇんだが……」
掠れた声でなんとか声を絞り出す。身動ぎ一つで、なんでこんなに痛い思いをしなきゃいけねぇんだ?
痛いのはあんま好きじゃねぇんだけどな……。
一体何がどうしたってんだか……。
セシウはじっと俺を見つめたままだ。なんて顔してんだ、こいつ。すごく情けない顔してるぞ。
洟をすすって何か言おうとして、それでも何も言えずにただ唇だけが震えている。
なんだよ、全く……風邪でも引いたのか? 夏風邪はバカが引くっていうけど、春風邪はどうなんだろうな? つぅかなんで何も言わないんだ? 語彙力がないせいか?
「ば……ばか……」
掠れた声でセシウが言う。それは今にも消え入ってしまいそうな声で、なんとも頼りなくて……どうしてかそんなこいつを愛おしく思ってしまう自分がいた。
変な感覚だ。こいつはただの家族だろうよ……。
頭がまともに機能していない。
ふと俺の半身が浮き上がる。気付いた時には視界からセシウの顔が消えていた。
痛みに埋もれる感覚の中、背中に何かの感触があった。
抱き締められているのだと、理解するのに数秒を要した。まるで掻き抱かれているようで、背中には確かな感触があった。どこか懐かしさすら覚える温もりを感じる。甘い匂いを感じる。
ぼーっとした頭でそれだけを知覚する。
その意味を考えることはできないまま。
ただ、全身を心地よく締め上げる感触と、柔らかな温もり、鼻腔をくすぐる甘い匂いに俺は身を委ねていた。
なんか、眠くなるな、これ……。
「ここは……どこだ……? 何があった?」
「今は気にしないで……。今はゆっくり休んで……お願い……お願いだよ……」
湿った声でセシウが耳元に囁きかける。洟を啜る音が聞こえる。
俺には何が何だか、さっぱり分からない。自分で考えるのも面倒なのだ。説明してもらいたい。
「あー、そう、だ……魔導陣は……? どうなった……?」
セシウが耳元で息を呑む。抑えたつもりなんだろうけど、この状態じゃ丸聞こえだ。隠せるはずがない。その様子に、俺は不安を覚える。
「一体……どうした……? 何が、あった?」
そもそも、ここはどこだ?
絶え間なく耳朶を打つ騒音はなんだ?
鼻を貫く刺激臭はなんだ?
どうして……空は、こんなにも歪な色をしている?
俺の意識が次第に鮮明になってくる。不確かだった意識は急速に収束を果たし、脳みそが回り出す。
焦点が定まる。
夜空に瞬いているはずの星はなく、月もなく、紫色の煙のようなものに包まれている。空を覆う煙を照らし上げるのは橙色の光……あれは、炎、か……?
……なんだよ、こりゃ?
疑問が駆け巡る俺の頭の中――埋もれていた記憶が次第に蘇ってくる。
――そうだ、俺達は魔導陣の破壊作戦の際に、ベラクレート卿の私兵に捕まったんだ……。あの時俺は衝動のままに銃を抜き、立ちはだかった男を――
その後は、どうなった……。
紫色の光を放ち、回転を始めた魔導陣が脳裡を過ぎる。
「魔導陣が発動しちまったのか……?」
すぐ傍らにあるセシウの頭が顎を引く気配。それだけで十分だった。
じゃあ、ここは村だっていうのか?
痛みを堪えながら、首だけを巡らして周囲を観察する。
そこは屋内だった。木造の古びた家だった。天井の一部に大きな穴が空き、家具などは荒らされていた。真ん中から割られたテーブル、床に転がる傘を被った電球、クローゼットは倒れ中の衣服をブチ撒けていて、そのすぐ側に心臓を抉られ、倒れる誰かの姿があった。
ワンピースを着た女性だった。白いワンピースは胸から溢れる血によって真っ赤に染まり、両手を投げ出したまま倒れて動かない。こちらへと向けられた顔は絶望と苦痛と恐怖を塗りたくられ、在りし日の面影なんてどこにも見出せないほどに歪んでいた。
関わりはあまりなかったけど、覚えている。村人の一人だ。
愛らしかった表情はただ歪んでいて、胸が痛んだ。
あの私兵どもはどうなったんだったか。
「あいつらは……兵士どもはどうなった……?」
「みんな、死んじゃった……魔物に襲われて、みんな……」
……だろうな。あいつらに見境なんてないんだから。
魔導陣が回転を始めた直後、隊長格の男は勝ち誇ったように高笑いを上げていた。きっとあいつらは信じて疑わなかったのだ。ベラクレート卿のことを。
「やってきた魔物に最初の一人が食べられちゃって……それから、みんな逃げたり、戦ったりしたんだけど、結局誰も……。みんな、戸惑ってた。泣きそうな顔で戦ってた。あのおっさんに対して何か答えを求めて、どうしてですか、何故ですか、って言いながら、結局は……」
そこでセシウは言葉を詰まらせる。
みんな、死んだか……。
確かにあいつらは村人の命を蔑ろにして、みんなの生き方を無意味だと、ムダだと言った。そこに怒りはある。憎しみさえある。殺意だって抱いていた。
それでも、哀れだと思わずにはいられなかった。
「……クローム達とは?」
「一回合流はした……。それでプラナがあんたのこと治療してくれて……でも、その後は私があんたのこと看ることになって別行動になってる。多分、今頃、魔物と戦ってる……」
……あいつらしい。
きっとあいつらもベラクレート卿の私兵に作戦を阻害されたことだろう。
その時、あいつらはどうしたんだろう。
いや、今は考えるな……。
「じゃあ、今こんなことしてる場合じゃねぇだろ……できるだけ多くの人を助けねぇと……」
「ううん……もう、いいの」
「いい、ってお前……何がいいんだ……」
こいつは何を言ってやがんだ?
まだ村人全員が死んだと決まったわけじゃねぇ。森にいる式神達は全員、俺達を狙われないようにキュリーが手を回している。
今ならまだ逃げ出すことはできる。
それでもセシウは俺を強く抱き締め、何かから逃げるように頭を何度も振った。
「ううん、いいの……だって……だって……もう誰も……いない、の……生きてる人なんて……誰も……」
……そうか。
傍らでセシウが嗚咽を上げる。言葉にすることさえ辛かったのだろう。できれば口に出したくなかったのかもしれない。言葉にしてしまえば、事実は自分の中で確定してしまうから。
だけど、必死に絞り出してくれた。
弱々しく震えるセシウの、細い身体を……俺は怯えるような手つきで抱き締め返そうとして、結局抱き締めることができなかった。
そんな勇気が俺にはなかった。
「死んじゃった……みんな、死んじゃったの……! 助けようともした……だけど、みんな……私の目の前で……! 次々と死んでいっちゃって……! こんな……こんなのって……! なんでっ! なんで……村の人が、こんな……こんな……」
そこから先に言葉はなく、ただ堰を切ったように溢れ出すセシウの泣き声だけが部屋の中に響いた。
抱き締めてやりたい、と思った。
例えその場しのぎでも、都合のいい慰めの言葉をくれてやりたい、と思った。
全てを忘れてやりたいとさえ思った。
でも結局俺は、そのどれか一つだけを行うこともできなかった。
そんな自分が酷く情けなかった。
守ってやる、と俺は言った。
でも、結局あいつが一番危なかった時に何かをすることしかできなくて、がむしゃらに助けようとしてやったことは結局人殺し。
きっと一人だけじゃない。
衝動に任せて何人か撃った覚えがある。
今となってはその死体さえも魔物の餌となり、クローム達には気付かれないだろう。そこにほっとしている自分にも腹が立ったし、人を殺すようなことをしなければ助けられない自分を殺していまいたくてたまらなかった。
そして、今この瞬間、目の前にある残酷な現実に涙する一人の少女を抱き締めることさえできない自分。
もう、なんだか、自分がどうしようもない存在に思えて、どうすることもできない自分がまた嫌になって。
このまま溶けるように消えてしまいたい、なんて生温い考えさえ浮かんでくる。それでもこいつに優しい言葉をかける勇気はなかった。
作戦が始まる直前、俺はこいつに何か優しい言葉をかけた気がする。でもそのどれか一つでさえ果たせたのか、といえばそんなことは全然無くて。
あの時の能天気な自分を叶うならば殺したかった。
こいつはこんなにも純粋でひたむきで、目の前の現実を自分なりに必死に受け止めようとしている。こんな俺の生存に安堵し、抱き締めてくれる。優しい言葉をかけてくれて、村人の死に涙を流すことさえできる。
……こいつに抱き締められていい人間なんかじゃない。
俺はこいつの優しさに身を委ねていい人間なんかじゃない。
もう、ダメだ。
自分の中の何かが限界に達していた。
俺に縋るように抱きついて泣き続けるセシウを、ゆっくりと引き剥がす。できるだけ優しい手つきで、硝子細工を扱うように。
でもそれは結局、どんなに丁寧に振る舞っても拒絶であることに変わりはなく、セシウの口から小さな声が漏れる。
事実を受け入れたくないような、疑問の声だった。俺はその声の弱々しさに付け入って気付かないふりをして、痛みに堪えながらも立ち上がった。
「クローム達と、合流しよう……」
何でもないように、俺は言った。それがさも正しいことであるかのように。
救いを求めるように俺を見上げるセシウの瞳は充血していて、頬は涙でぼろぼろで、唇は震えていて、しゃくり上げる声を必死に抑え込むような仕草が、胸に痛みを膿んだ。
セシウは目に溜まった涙を掬い上げ、洟を力一杯啜って、弱々しく立ち上がる。
「行く、の……?」
「このまま、ここでじっとしているわけにはいかない……こうなってしまった以上、俺達はできる限りのことをしなきゃならない」
本当は知っていた。できることなんてないことくらい。
誰かを助けることもできない。確定してしまった事実を変えることもできない。
だけど、そうやって自分を誤魔化さなければ、気が狂ってしまいそうで……。
今にも零れ落ちてしまいそうな嗚咽を必死に咽喉の奥に押しやる。
身体の痛みは随分と引いた。動く度に痛みは走るけど、それほどではない。
体中にあった傷も今はない。剣を突き立てられたはずの肩も、さんざん蹴っ飛ばされて出血した頭部も、今は痛みが全然ない。
きっと大きな傷を優先的に治療してくれたんだろう。プラナの治癒魔術は侮れない。
これなら動ける……。この現実から目を背けられる……。
仲間の良心を悉く踏み躙っている俺は、本当にもう勇者なんていう英雄の隣に立つ資格のない、最低野郎だってことぐらい十分理解していた。