1Cr Drudgery―白黒徒花―

04.#A757A8 Th群咲の魔女―Verse 5

 痛む身体を引き摺るようにして、民家を出た先は悲惨な有様だった。

 何故、セシウがあんな死体の転がる部屋に籠もっていたのかが理解できた。あの家は他のものと比べれば幾分かマシだった。

 今や、建物の多くは半壊し、炎に包まれていた。そして足下に散乱するのは人々の死体、屍、亡骸、骸、残骸。

 ……死臭が鼻に付いた。

 転がる死体の多くは人の形を成しておらず、一部分しかなくなったものも目に付いた。

 眼球を抉り取られ、頭蓋骨を割られ脳みそを啜られた生首、食いちぎられた後が痛々しい手首に脚、糞尿を撒き散らす胴体。

 食われたのか、はたまた引き千切られたまま放置されたのか。散乱する肉片が個人のものなのか、それとも複数人の残骸なのか、それも判別ができない。

 血溜まり、引きずり出された内臓、撒き散らされた糞尿。異臭が敷き詰められていた。

 傍らのセシウが息を呑み、吐き気を抑えるように口を覆う。

 今はそれも気付かないふりをした。

 ただ、今もなお、夢中で屍肉を貪る獣の背中を俺は凝視していた。見た目自体は獅子に近い。でも大きさはその二倍近い。筋肉も獅子なんかよりずっと強靱そうだ。皮の下から浮き出る筋肉の動きがありありと見える。

 黒い表皮に覆われた背中からは蝙蝠を思わせる大きな翼が生えている。

 俺は特に何かを言うこともなく、荒々しい鼻息を鳴らしながら少女の亡骸の胸部に顔を埋め、肉を貪る獅子に銃を向けていた。

 なんでも、魔界に住む者達からすると、人間の心臓っていうのは最高に美味いらしい。そういえば、セシウが潜んでいた家の中で死んでいた奴も、心臓だけ抉り取られていたっけ。

 セシウはこの状況に吐き気を催し、また哀しむ程度に正常だっていうのに、俺はなんでこんなに冷静に、それどころか感情の機微もなく思考しているんだろうか?

 自分のことで精一杯だからか?

 まあ、いいや。

 俺は引き金を引き、獅子の背中に銃弾を撃ち込んだ。しかし、獣の表皮は硬く、銃弾は容易く弾かれる。

 獣が俺に気付き、振り返る。口の周り、鼻先まで血で真っ赤に染まっている。爛々と輝く金色の目が俺を睨み、唇を捲り上げるようにして牙を剥き出しにした。

 獅子が唸る。

「汚ぇ食い方だな」

 ぼそりと俺は呟く。

 特に意味はなかった。

 そのまま俺は駆け出し、獣の顔面に蹴りを叩き込んでいた。僅かに怯む獣。

 俺だってそれなりに常人を上回る力くらい持っている。そうでなきゃ、今まで戦場で生き残ることさえ不可能だっただろう。

 一応、多少のダメージは与えられる。獅子が呻く。特に気にすることもなく、俺は獅子の頭部を左手で掴む。指が食い込むほど強く掴む。骨が軋む感触を聞く。

「盛ってんじゃねぇよ、節操がねぇ」

 右手を引き、人差し指と中指だけを立てた。それをそのまま、獅子の両目に突っ込む。力の限り突っ込む。獣が唸る。それがどうした。眼窩の中で指を曲げる。ぶにゅぶにゅとした感触の眼球をかき混ぜる。眼から紅い涙を流している。

 魔物でも血は紅い。

 その事実にどうしようもなく苛々した。

 俺を引っ掻こうと藻掻く獣に、指を引き抜き後退して襲いかかる爪を躱す。

 ホルスターに戻していた銃を再度引き抜き、下がりながら銃弾を浴びせる。何度でも引き金を引こう。

 一発。俺が抉った眼に入る。骨まで硬いせいか、脳までは達しない。もう一回。同じ場所に銃弾が撃ち込まれる。眼を潰されたせいで動きが鈍っていて狙いやすい。

 それでも嗅覚を頼りに俺の位置が分かっているらしい。

 鼻に二、三発銃弾を撃ち込む。普段は計算しながら撃っているけど、今はいいや、んなこと。

 どうせ兵士どもに何発くれてやったかも覚えてねぇんだ。数える意味も大してねぇ。

 鼻が潰れる。あとはなんだ? ああ、聴覚か?

 耳を撃ち抜く。獣が痛みに呻く。痛みは分かるらしい。

 なんだかまた苛々した。そういや耳を削いだところで意味ねぇな。そう考えて俺は、獣との距離を詰め、素早く横合いへと回り込み、左腕と脚で獣の首を締め上げる。

 そのままの体勢で空いてる右腕に持った銃を耳の穴に突き付けて、何度か引き金を引いた。

 何回引いた? 覚えてねぇや。数えるの面倒だ。

 獣が俺の口を噛もうとするのに気付き、素早く手を引いた。そういやその口も邪魔だな。視覚も嗅覚も聴覚もほとんど奪われてんだ。味覚もいらねぇだろ。

 俺は脚を振り上げ、踵を獅子の眉間に捩じ込んだ。動きが鈍ってるから、随分とやりやすい。三半規管もイカれてるためか、割れた額から血を流しながら簡単に倒れてくれる。

 魔導陣破壊用にプラナから与えられたスローイングナイフを腰に巻かれたホルスターから引き抜く。破壊すべき物を破壊できず、最早存在する理由さえなくなった、大勢の村人を救うはずであったナイフ。今はもう、凶器でしかない。なら、凶器として使わなければおかしい。

 俺はナイフを獅子の舌に突き立て、地面へと縫い付ける。一本じゃ足りねぇよな。魔物だもんな。

 さらに二振りのナイフを獅子の桜色の舌に突き立て、地面へと完全に固定する。

 これでもう使い物にならねぇだろう。

 一種の充実感に満たされつつ俺は倒れ伏した獅子に銃口を向け、気軽に引き金を引いた。いつもは重いはずの引き金がいつもよりずっと軽くて、調子に乗って何度も引いてしまう。

 肉が爆ぜる。もう一発。甲高い悲鳴が聞こえる。もう一発。鮮血が舞う。もう一発。肉片が散る。もう一発。火薬の匂いが鼻を衝く。いい香りだ。もう一発。何度も銃声を聞いて、耳がイカれてきた。心地いい。もう一発。ぴちゃりと足下で濡れた音が聞こえる。もう一発。紅くなる。もう一発。魔物の身体が跳ねた。もう一発。もう一発。もう一発。もう一発もう一発もう一発もう一発もう一発もう一発もう一発もう一発。

 気付くと弾が切れていた。遊底が下がったままになっている。俺としたことが珍しいドジを踏んでしまった。予備弾倉を素早く叩き込む。

 まだだ。まだ足りない。

 再度、引き金を引く。

 撃って、撃って、撃って、撃って――

 俺はいつの間にか高笑いを上げていた。最高に気分がいい。

 こんなにも簡単に優越感ってのは味わえるものなのか。

 最高だ。

 笑いが止まらない。止めようにも止まらない。止める気にもなれない。

 ふと誰かが俺の手を掴んだ。俺は震えるその手を振り払い、さらに引き金を引く。

 まだ満足できないんだ。まだまだ足りないんだ。こんなもんじゃ全然収まらない。

 そういや、魔獣が全然動かない。銃弾を撃ち込まれる度にびくんと身体が跳ねるだけだ。

 まあ、そんなことはどうでもいいか。

 また誰かが俺の手首を掴む。邪魔くさい。興を削ぐな。俺は鬱陶しげにそれを振り払う。

 また誰かの手が俺の手首を掴む。

 邪魔だ……!

 手を振り払うと、今度は肩を掴まれた。

 なんだよ……今、いいとこなんだ……邪魔しないでくれ。

 振り払おうとするけど、それはできなくて、誰かが俺の肩を引っ張って、自分の方へと無理矢理向かせる。そこには紅い髪を結い上げた女性の顔があった。

 そう思った瞬間には俺の頬に衝撃があって、よく分からないうちに視界が回転した。口の中に鉄の味が広がる。

 なんだこれ……?

 殴られた?

 なんで?

 つぅか誰だ……邪魔したの。

「もうやめてよ!」

 誰かが俺に、張り裂けそうな声で叫んだ。その誰かって誰だ?

 気付けば俺は地面に転がっていて、しゃがみ込んだ誰かは未だに銃を握り続ける俺の右手の甲に手を当てていた。

「ねぇ! ガンマ! そんなのガンマらしくないよ!」

「うるせぇな……黙ってろ……お前に何が分かんだよ……」

 俺は立ち上がる。頬がずきずきと痛い。口の中を切ったらしい。俺も血は紅いんだな。痛みが分かるんだな。なんか苛々すんな、それ……。

 誰かが俺の名前を呼ぶ。

「お願いだよ……! もうやめて……!」

 そしてそいつは俺の名前を呼ぶ。その名前は今の俺の名前じゃなくて、もう随分と昔に捨てたような気がする名前で――

 俺は、泣きそうな顔の幼馴染みの顔を見ていた。

「あ……」

 呆然と、両腕を垂らし、そいつの泣きそうな顔を見つめていた。

 視界の端に映るのは最早原形を留めていない獅子の亡骸。単なる肉の塊となった哀れな残骸。

 紅い血溜まりに今にも沈み込んでしまいそうだった。

 …………。

 また、俺は、こいつを哀しませてしまった。

 違う。

 こいつは俺のために哀しんでくれている。それは思い上がりに近い物なのかもしれないけど。

 セシウは、ぽろぽろと大粒の涙を流しながらも唇を引き結び、じっと俺を睨み付けていた。拳は握り締められ、震えている。

 本当は弱いくせに、どうしてこいつはこんなに強くあれるのか……。俺には到底理解できなかった。

 俺のように卑屈にもならず、自分に強くなろうとして、事実強くなってしまって。

 だけど、心はあの頃と全然変わってなくて……まだまだ繊細なままで……簡単に泣き出してしまうくせに、最近じゃ全然涙を見せなくて、涙を見せたと思ってもこうやって強気に睨み返してみたり……。

 本当、変わらないんだな……。

「ガンマ……私は、ずっと一緒にいるよ……それしかできないけど、それだけは絶対に守るから……お願い……自分を見失わないで……誰もガンマを責めたりなんかしていない……責めたとしても、そんな奴、私が絶対に赦さないから……お願い、ガンマは自分のことを忘れないで……」

 ……それはあの時、俺がこいつに言った台詞とほとんど同じもので……。

 こいつにこんなことを言わせてしまう自分が不甲斐ない物に感じた。でもそれは卑屈な自嘲的感情なんかじゃなくて、だからこそ、しゃんとしなければいけないと思える。

 今、この時、こいつがいてくれてよかった。

 こいつがいなければ、俺は壊れていたのかもしれない。

 俺はセシウの真っ直ぐすぎる瞳から逃げるように顔を逸らす。

「すまねぇ……」

「ううん、いいよ。やっと、ガンマらしくなった」

 にっこりと視界の端でセシウが微笑む。涙で顔をぼろぼろにしながら、今も涙を湛えた瞳で、それでも柔らかく微笑んだ。

 それはなんだか、この非日常の風景において遠い幻みたいだった。

 手を伸ばしたら消えてしまいそうで、俺はやっぱりこいつを抱き締めることができない。

「ありがとな……」

 そう呟いた瞬間、轟音が俺達の耳朶を打った。弾かれたように音の方へと顔を向けるセシウと俺。

 そこには建物が砂埃を巻き上げて崩れ去っていく様があった。そして一拍遅れた飛び出したのは鈍色の奔流。

 生き物のようにうねったそれは、空へと舞い上がったと思うと、再び急降下してまた異なる建物へと突撃していく。

 再び崩壊する建物。

 砂埃が舞い上がる。木片が飛び散った。

 なんだあれは……?

 生きてるようじゃない。生きている。

 俺の眼は確かに奔流の側面に蛇腹を見た。

 蛇? いや、違う。あんなでかいのは蛇じゃねぇ。

 しばらくの間を置いて、今度は俺達のすぐ側の建物が破砕され、鈍色の奔流が空へと舞い上がる。

「おいおい……マジかよ……」

 蛇竜だ……。

 あんなの図鑑でしか見たことねぇぞ、おい……。

 空へと舞い上がった鈍色の蛇竜の全長は、目測でおよそ七〇〇メートル。胴体もかなり太いな。高さだけで言っても、俺の一.五倍はあるだろう。

 信じられねぇサイズだな。

 そして最悪っていうのは続くのか、蛇竜の大きく開かれた顎には、もっと眼を疑うものがあった。

「ク、クローム!?」

「え!? どこ!?」

「あ、あそこ!」

 俺が指差したのは、空中へと舞い上がった蛇竜の頭部。大きく開かれた口に、クロームが挟まれていた。下顎に足を引っかけ、上顎の牙に剣を噛み合わせ、噛み砕かれまいと足掻くクロームがいた。

 ……何やってんだ、あいつ……。

「セシウ、あれはピンチなのか? それとも新しいアトラクションなのか?」

「ピンチに決まってんでしょ! 助けに行かなきゃ!」

 助けるって、どうやって?

 どう考えても無理だろ、これ。

「んじゃ、任せた」

「ホンット使えないなぁ!」

 などと言いながら、セシウは単独で蛇竜へと向かっていく。向かっていくのかよ。

 こいつの無謀さ半端ない。

「うおおおおおおおおおおおおおお!」

 雄叫びを上げて、一気に蛇竜との距離を縮めたセシウはそのまま蛇竜の鈍色の胴体に飛びつく。

 おいおい、マジかよ。そっからどうするつもりだ。

 いろいろと考える間もなくセシウは蛇竜の頭部目指し、胴の上を走り出した。走り出した。二階言ってみても理解が追いつかない。

 ……え、ちょ……マジ?

 確かにそこは地面とある程度平行だけど、蛇竜の首は空高くにある。

 つまり途中から勾配がきつくなり曲がりくねり、場所によってはほぼ垂直だ。どう考えても上れるわけが……。

「うおりゃあああああああああ!」

 上っていた。

 ほぼ真上に向いた状態で、セシウは壁同然の坂を勢い任せに上っていた。しかも勢いがなくなると今度は蛇腹を蹴って、昇り始めた。

 ありえない……。

 人間じゃねぇ、あいつ。

 身軽にもほどがあんだろ……。

 そのまま一瞬たりとも止まることなく蛇竜の身体を登り切り、大きく飛び上がったセシウは蛇竜の頭部に跳び蹴りをかましていた。

 うわあ……蛇竜が怯んだよ……。たかだか小娘のキック一つで……。

 ありえねぇ……ガチでありえねぇ……。

 宙へとクロームの身体が投げ出される。セシウは蛇竜の頭を蹴って跳躍し、クロームの身体を素早くキャッチ。そのまま最寄りの建物の屋根へと華麗に着地を――果たせるわけがなかった。

 セシウとクロームが着地した瞬間、天井は騒々しい音を立てて崩れ、俺の視界から二人の姿がふっと消失する。その後すぐに、屋内からやかましい音が聞こえてきた。

 こりゃ大丈夫か?

 呆然と二人が落ちていった家屋を眺める。

 生きてるか? いや、むしろセシウは頭をぶつけて賢くなったりしてくれないかな。ここで、二人が頭をぶつけて魂が入れ替わっても面白い。

 ……そこで俺は唇が綻ぶ。

 こんなことを考えられる余裕も出てきたか。

 いい傾向だと捉えよう。俺は誰もいないのに照れ隠しをするように眼鏡を押し上げようとして、眼鏡がないことに気付く。

 そういや……あの時に落としたんだっけ。回収は不可能か。

 気に入ってたのにな、あれ。そこそこいい眼鏡だったし……。

 もったいないことをした。

 そんなどうでもいいことを考えている間に、セシウとクロームが礼儀正しく正面玄関から出てくる。二人とも埃は被っているが目立った怪我は見当たらない。こいつら、どうしてこんなに頑丈なんだろう? 本当に炭素生物か? 珪素でできてたりして。

 まあ、何はともあれ無事でよかった。俺は二人の元へと駆け寄る。

「よう、大丈夫か?」

「大丈夫に見える?」

「全然大丈夫だろうよ」

「じゃあ聞くな」

 ……要するに大丈夫なんだな。セシウとこうやって軽口を叩き合っているのが、なんだかすごく久しぶりな気がして心が落ち着く。

 ほんのちょっと前まで普通に話せていたのにな。

「クロームも大丈夫か?」

「……誰だ、お前?」

 長時間戦闘を続けていたのだろう。僅かに息を乱し、額に浮いた汗を拭ったクロームは俺を見て眉を顰める。

「まさか、お前、頭強く打ったか?」

「……お前、誰だ?」

 なんで逆にした。

 いや、しかしクロームの顔は至って真面目だ。マジで記憶を失ったか? あんだけ派手に落下すりゃ、そりゃ記憶の一つや二つ飛びそうだが。

 なるほど、どうでもいい記憶から飛んだか。

「まあまあ、ちょっと待ってなさいって」

 言いながらセシウは俺の背後へと回り込む。

 なんだ?

 そうして俺の顔の前に手を回り込ませ、親指と人差し指の先を合わせ、輪っかを作ってみせる。ところで背中に胸が当たっている。

「これをですねぇ、こう……目に当てますと……」

 言いながらセシウは俺の目の周りを覆うように指で作った輪っかを顔にくっつける。

 瞬間、クロームの顔がはっとなる。きっと漫画とかだったら、頭の上で電球が光ったことだろう。

「……なんだ、ガンマか」

「おい、ちょっと待て。いや、待て。かなり待て。すごく待て」

 何がどうしてそうなった……!

「いや、眼鏡がないから全然気付かなかった」

 前髪を掻き上げて、さも当然のように言うけど俺は納得できない。セシウの手を払いのけて、俺はクロームへと歩み寄った。

「俺の個性が眼鏡であることはどうでもいいわ! この際! でもよ!? 指眼鏡で代用ができるってどういうこと!? 俺の個性ってそんなもん!?」

「やかましいな。黙って、物陰にでも潜んでいるがいい」

 言いながらクロームは剣を構えて、俺を後ろへと突き飛ばす。思いの外強い力に蹈鞴を踏んだ俺は、そのまま止まることもできず、無様に尻餅をついてしまう。

 なんだなんだ……?

 そう思った瞬間にはクロームが突っ込んできた蛇竜の頭をいなしていた。顎の下に滑り込ませ剣と鱗が激しく擦れ合い、無数の火花が咲き誇る。なんて硬度の鱗だ。蛇竜の突撃を上方へと逸らすその腕力も半端ねぇけどさ……。

 あっという間もなく七〇〇メートル近い細長い体躯が俺達の上方を過ぎ去っていく。後を追いかけるように突き抜けた風が頬を叩き、服を、髪を、はためかせる。

 目が渇く……。

 即座にクロームは身を翻し、過ぎ去った蛇竜を睥睨する。空へと舞い上がっていくその背に、剣を持っていない左手を翳す。瞳が淡く白い光を微かに放ち、引き絞られる。

「デュランダル……!」

 クロームの呼びかけに呼応するように右手に握られた剣が脈動する。

 ――ドクン、と確かに今鼓動した。

 剣であるはずだというのに。

「蘇れ」

 短く、クロームが呟く。

 途端に空を舞う蛇竜の周囲にいくつもの小さな閃光が瞬く。十、二十、三十、四十……百、いやそれ以上だ。閃光は周りの光を渦巻くように集め、より一層輝きを増していく。大気中のエーテルを集約させているのだが、いつもよりも光の量が多い。

 そうか……魔界と直結されている今、この空間のエーテルはかなり高濃度だ。それこそ無尽蔵と言ってもいい。

 皮肉なことに、《魔族(アクチノイド)》の放った最悪の魔術は勇者の力を増長させていた。

 無数の光はやがて形を定め、無数の剣へと変化する。

 虚空に生まれた、幾百もの剣の群衆。蛇竜を取り囲むように生じた剣の切っ先は全てが蛇竜へと向けられていた。

 形状も用途も材質も全く異なる凶器の群れ。しかしそれらには全て剣という共通点がある。

【旧き剣(アカシックブレイド)】――クロームを勇者たらしめる象徴とも言える力。魔術を越えたさらに高次元の力《魔法》の成せる業だ。

 この力こそが勇者の象徴。ヒュドラより与えられた、かつて唯一神アカシャと共に戦場をかけたと云われる聖剣デュランダルが持つ能力。

 過去、現在、未来――あらゆる剣をエーテルにより再現し、複製し、蘇らせる。例え幾星霜も昔、神話の時代にあった武器でさえ、それが《万物の記録(アカシックレコード)》に記録されている《剣》であるのならば、クロームはそれを今この時この瞬間に再現することができる。

「往け」

 短く、最もシンプルな命令に従い、剣は一斉に蛇竜へと殺到する。鱗に覆われた硬質の表皮を容易く貫き、遙か上空で血飛沫を上げる蛇竜。痛みから逃れるように身をくねらせ、溢れ出た血潮が撒き散らされる。

 それはまるで紅い雨。

 ぽたぽたといくつもの水滴が俺達の足下を濡らす。服に飛び散る。上空を見上げる俺の頬で飛沫が撥ねる。

 それでもまだ容赦なく、生み出された剣は蛇竜へと降り注ぐ。例え目標が暴れて位置がずれようとも素早く剣の切っ先の向きは修正され、蛇竜へと突き刺さる。何度も何度も鮮血が噴き上がる。

 そうして銀の時雨が止んだ後に残ったのは、最早剣に包まれて姿を見ることのできない何かだった。

 蛇竜の飛行は一種の魔術らしい。風の元素を扱う第三魔術――その術者が蛇竜自身である以上、絶命すれば魔術を維持する物は誰もいなくなる。

 結果、剣に冷たい抱擁を受けた蛇竜は浮力を失う堕ちてくる。

 真っ逆さまに。最早、上も下も分からないけれど、墜ちてくる。

 俺達から随分と離れた場所にその長大な体躯は墜落し、一際大きな轟音と砂埃が巻き上がる。空へと昇っていく塵埃に交じるように、分解された剣を構成していたエーテルが螺旋を描いて昇っていく。きらきらとしたその輝きを見つめ、俺はため息を吐き出す。

 蛇竜は魔界でも上位に位置する竜族に数えられる魔物だ。いくら竜族の最下層とはいえ、単体でも十分脅威になるとされている。そんなもんがこうもあっさり倒されるっていうのはなんか複雑な心境だ。

 こいつらといると、強さの尺度が全然分からなくなる。

 大きく深呼吸をしたクロームは剣を手の中で半回転させ、腰の鞘へと流れるような動作で仕舞う。きんという小気味のいい音は耳に心地のいいものである反面、なんだか戦いの終わりを示すには軽すぎる気がした。

「【旧き剣(アカシックブレイド)】――どこまで解放している」

「八小節」

 クロームが短く答える。

 随分解放したな。普段は二小節止まりだっていうのに。

「負担は?」

「大丈夫だ。戦える」

 言って、クロームは踵を返し、歩き出す。尻尾のように揺れる纏められた後ろ髪を見つめ、俺は思考を巡らせる。

【旧き剣(アカシックブレイド)】はその力の代償というべきか、かなり高負荷な魔法だ。多用すれば、それだけで身体に無理を強いることになる。

 現状を考えれば、妥当な小節数だともいえるが、あまり無理をされても困る。

 なんせこの村のどこかには《魔族(アクチノイド)》がいるはず。そいつと対峙した時、一番頼れる戦力であるクロームが使い物にならないというのは頂けない。

 俺達の最高戦力は考えるまでもなくクロームだ。あまり無理をさせるわけにはいかない。

 俺はセシウに目を向ける。すぐ側にいたセシウは素早く俺の考えを汲み取り、小さく頷いた。

 ……前衛はセシウとクロームの二人。なら、クロームの負担を減らすにはセシウに多少の無理をしてもらう他ない。

 妹分だと言いながら、こういう辛いことを押しつける辺り、俺も相当酷い奴だな。

 それでも、生き残るためにはそれくらいの無理も必要なんだろう。外野同然の俺がそんなことを言うのも滑稽だけどさ。

 俺とセシウは、クロームの全てを拒絶するような背中に何か言葉をかけることもできず、ただその後を付いていこうとして――突然クロームが立ち止まった。

 …………。

 振り返ることもせず、ただ黙したまま佇む。

「……どうした」

「何か、聞こえるな」

「は?」

 何も聞こえないだろ……。いや、騒音はある。火は燃え盛り、どこかで魔物達が奇声を上げている。だけど、それだけだ。

 だというのにクロームは視線を巡らし、建物が崩れてできた瓦礫に目を向ける。

「セシウ」

 静かな声だというのにそこには何か冷たいものがあり、名前を呼ばれたセシウはびくりと肩を撥ねさせた。

「え?」

「瓦礫を、掘り起こすぞ」

「え、あ……うん!」

 瓦礫の方へと駆けていくクロームと、それを追っていくセシウ。二人に少しばかり遅れて、俺もやむを得なく後を追った。

 どうせ非力な自分じゃできないことの多いんだろうが、それでも少しくらい手伝なわなければいられなかった。

 ここは何もせずにいると罪悪感ばかりが込み上げてきて辛いから……。