1Cr Drudgery―白黒徒花―
04.#A757A8 Th―群咲の魔女―Verse 10
「トリエラ様!」
くぐもった声がホール中に響き渡った。ここにはもう俺達以外生きている者はいないと思ったのだが、一体誰だ?
声がしたのはホールの最奥。最初にトリエラがいた、階段の上だった。
全員の視線が声の方へと集まる。そこには白いバスローブを着たベラクレート卿の姿があった。ただでさえ剥げ散らかしている頭をさらに乱し、目は血走り、全身に脂汗をかいていた。
何か、とても混乱しているように見える。
トリエラの姿をホールに見つけた家畜は欄干をぶくぶくと膨れた手で握り締め身を乗り出した。
「トリエラ様! これは一体どういうことですか!?」
怒鳴り声を上げるベラクレート卿の傍らに突如としてトリエラが出現する。ぎょっと目を瞠ったベラクレート卿は情けない声を上げて、その場から飛び退いて距離を広げた。
「どうしましたの? ベラクレート卿? そんなに血相を変えて」
「どうしたもこうしたもありません! 一体どういうことですか!? どうして村人どもだけでなく、私の私兵までもが魔物に殺されているのですか!?」
……なんだ? 一体何があった?
ベラクレート卿が村人を殺すことを了解していることは知っている。こいつの予定では私兵は生き残るはずだったのか?
青白い顔で唾を飛ばしながら抗議するベラクレート卿に、トリエラは最高傑作の冗句でも聞いたかのようにくすくすと上機嫌に微笑む。
「あぁら? いいじゃありませんの。不老不死になるための犠牲ですもの。別に新しいのを雇えばよろしいのではなくて?」
「そんなことを言っているわけではありません! 何故!? 何故、私までもが魔物に追われなければならないのですか!?」
ベラクレート卿の片手は今も欄干を握り締めている。その手はぷるぷると震えて、何とも情けない。
きっと命からがら魔物から逃げてきたんだろう。そのまま喰われちまえばよかったとさえ思う。
しかしそんなベラクレート卿を嘲るように、今もトリエラは笑っている。
「うふふ、それはどうしたのでしょうね? きっと、ベラクレート卿が丸々と美味しそうな身体をしていたから、食べたくなってしまったのでしょう。しっかり叱りつけておきますわ、うふふ。しょうがない子達ね、全く、うふふ、全くね」
「笑い事ではありません!」
「いいじゃありませんの、生きているのですもの。何も問題などありませんわ」
特に気にした様子も見せないトリエラに、ベラクレート卿はぶるぶると脂ぎった顔を震わせる。脂肪がたぷんたぷんと揺れて気持ち悪い。
「仲間割れか?」
いつの間にか隣に来ていたクロームが俺に尋ねてくる。眉根を寄せて、何とも居心地の悪そうな顔だ。
クロームも突然の展開に理解が追いついていないんだろう。俺だってそうだ。
「さあな。まあ、あの豚が騙されてたところで特に心は痛まないな」
「ああ、勇者としてこういう発言はどうかと思うが、正直そのまま喰われてしまえばよかったとさえ思うな」
冗談めかしたわけでもないクロームの発言に俺は思わず笑ってしまう。
「お前らしくねぇな、そういうこと言うのは」
「俺だって寛大ではいられない。私怨と言えば私怨だが、村人の無念は晴らさなければならない。なんとしても、あの二人は殺してやりたい」
それに関しては同感だ。何より、それは間違いなく義憤だ。
悪にはそれ相応の鉄槌を下して然るべきであろう。あいつらは絶対に殺しておかなければいけない人種だ。
「あの、二人とも……今のうちに、彼女の魔術への対策を考えた方がよいのでは?」
おどおどと俺とクロームに間から顔を覗かせたプラナが提案をしてくる。
今のところ、打つ手が全くと言っていいほどない状況だ。
少しでも話し合った方がいいかもしれないな。
「ふむ……とはいえ、あいつに打つ手などあるのか?」
顎に手をかけ、クロームは顔を顰める。
これだけ交戦して、ほとんどあいつにはダメージを与えられていない。今はクロームやセシウの卓越した反応速度でやり過ごせているが、それも時間の問題だ。このままでは嬲り殺されるのも時間の問題だろう。
「やっぱり奇襲が一番なのか?」
先程、俺はあいつの腹部に一発喰らわせることができた。あの時は完全な不意打ちだったからな。
俺の早撃ちもなかなかバカにできないもんだな。
「しかし、それはなかなかに難しいぞ。あいつの出現した瞬間の警戒の強さは異常だ。どこから斬りにかかっても感づかれる。お前の場合はただ単に、それほど脅威とは思われてなかっただけだろう」
俺が甘く見られてただけかよ……。
そういう事実はできれば黙っていてもらいたかったもんだ……。
「じゃあ、四方向から同時に攻撃をかけるっていうのは?」
今度はセシウからの提案。腰の痛みは大分引いたのだろうか。
いや、まだ動きが鈍いから、あんまり戦力としては期待できねぇな。
「それは却下だな。攻撃が一点に集中する以上、一回瞬間移動されちまえば、次の瞬間には固まった俺達が一網打尽にされ――」
「いい加減にしろっ! 小娘風情が!」
突然怒声がホールに響き渡り、俺達の視線が一瞬でホールの最奥へと束ねられた。
そこにはトリエラの小さな両肩を掴み、詰め寄っているベラクレート卿の姿があった。その肥えに肥えた身体を恐怖ではなく怒りに震わせ、血走った眼球でトリエラを凝視している。
トリエラの顔にも笑みはなく、氷のように冷たい無表情で面倒そうにベラクレート卿の顔をただ眺めていた。
まるで虫けらでも見るような目だな。
「早く私に不老不死の力を寄越せ! 今すぐにだ! そういう契約だろう! 小娘風情が偉そうに構えているんじゃない!」
「ベラクレート卿、もう少しお待ちになってくださいな。まだ、早いのですわ」
「黙れ! そう言って貴様らはどれだけ待たせている!? 私は貴様らの要求にどれだけ答えてきたと思っている!? 金だって回してやっただろうが!? いつまで待たせれば気が済む!? 早く私を不老不死にしろ! 今すぐにだ!」
ベラクレート卿はトリエラの小さな身体をがたがたと揺すぶる。そのたびに頭がぐらぐらと揺れているが、それでもトリエラは無表情のままだ。
「ベラクレート卿……もうしばらくお待ちに。今から本日のメインイベントが始まりますの」
「な、何を?」
ベラクレート卿が疑問を口にした時には、すでにそこにトリエラの姿は消えていた。トリエラは欄干の上に腰掛けた形で再構成され、俺達を見てうっとりと微笑む。
何か、嫌な予感がした。
「うふふ、勇者一行様、実は貴方たちに見せて差し上げたいものがありますの」
「下らない余興に付き合うつもりはない。貴様らが何をしようとしているのかは知らんが、全て斬り伏せるのみだ」
クロームは冷たくトリエラの言葉を切り捨てる。元よりこいつらに構っている場合ではないのだ。
こいつらの息の根を止めることが最優先だ。それ以外のことをしている暇はない。心の余裕もない。
「そう言わないで下さいな、勇者様。きっと、気に入りますわ」
言って、トリエラは煙管の雁首で欄干をカンと叩く。ホールに反響する小気味のいい音に導かれるように、トリエラの手前の天井から何かが降りてきた。
どうやら穴が開いていたらしい。偶然なのか、もともとトリエラが仕組んでいたものなのかは定かじゃないけどな。
もし仕組んでいたのなら、俺達がここに来ることも折り込み済みだったわけか。ご苦労なこった。
現れたのはぬめぬめとした粘膜を纏った、触手だった。ずりゅずりゅと蠢動と蠕動を繰り返し、その度に粘着性の透明な液体がタイルの床へと滴り墜ちてくる。
なんだこりゃ……?
悪趣味にも程があんだろ……。
セシウの不快感に顔を顰めている。見ていて気持ちのいいもんじゃねぇな、こういうのは。
いくつもの触手が粘膜を絡み合わせ、粘着質の液体の糸を引き合い、のろのろと動いている。
気持ち悪ぃな……。
一体これを見せてどうしようっていうんだろうな?
そんなことを考えていると、次第に降りてくる触手の隙間に、人間の白い脚があることに気付いた。
……人間? しかもあの細さと白さはおそらく女性のものだろう。
まだ、生き残りがいたのか。
徐々に降りてくるにつれて、人間の身体が見えてくる。
一糸纏わぬ太股が見えた。内股には紅い血の筋が伝っている。さらに上部が見えてくると、鮮血は秘部が伝っているものだということが分かった。
膨れ上がった腹部が覗く。子鹿のように細い脚から察するに決して太っているわけではない。ということは、あれは妊娠しているのか?
妊婦でも囲みやがったっていうんだろうか……。
次に小振りな胸が覗く。ゆっくりとそれでも確実に降りてくる触手の群れ。そこに絡め取られた女性の姿が明らかになっていくに連れ、俺達の顔は引き攣っていった。
粘ついた触手に浸されて、すっかり艶を失ってしまった亜麻色の髪が見えた。どこか痩せ細りすぎているともいえる華奢な身体。滑らかな白い肌。
その全てが今となっては粘液に包まれても、汚されきってしまっている。
飾り気のない素朴な可憐さを宿していた顔は、今や傷だらけで右の頬は腫れ上がり、ぼんやりと開いた唇の端から血が零れていた。俯いたまま、四肢を触手に絡め取られ、身動きもできず脱力しきり、吊された少女の顔を俺は、俺達は知っている。
今や生気もなく、ぼうっと開かれたままの瞳は何も見ていないのだろう。
……おいおい……冗談だろ……。
なんでだよ……!
どうして世界はこんなにも辛い現実ばかりを俺達に突き付けるんだ。
傍らでセシウが息を呑む。
プラナは杖を震えるほどに握り締めたまま俯き、決して顔を上げようとはしない。
俺もクロームも目を逸らさずにはいたが、呆然と立ち尽くすことしかできていないだけだった。
目の前の現実はあまりにも残酷だった。
そこには無慈悲にも陵辱され、純潔を無惨にも散らされた、看板娘の痛々しい姿があったのだから……。
俺達の存在に気付くこともなく、呆と口を小さく開いたまま、項垂れた少女は光のない瞳で床を眺めている。もう考えることさえ放棄してしまったとでもいうのか。
俺達は言葉を失い立ち尽くすことしかできない。そんな俺達を苛むようにトリエラの上機嫌な高笑いだけがホールには反響し続けていた。
世界は……そこまでして、俺達を狂わせたいのか……?