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 午後十時。残日が完全に沈没し、空が闇色に染まった頃。
 千堂鏡夜は、緩慢な足取りで町の繁華街を徘徊していた。
 理由は言うまでもなく、そして明確なまでにはっきりとしていた。
 ――ただ、一人になりたくて。
 ――ただ、孤独に戻りたくて。
 そして一刻も早く、彼女という存在を忘失したかったのだ。
 湊と一緒にいると、自分の基本思考は、普段のそれとは全く別物へと変貌してしまう。
 自分でも、何を考えれば良いのか判らなくなるのだ。
 その起因とされる理由は、上手く把握できたわけではない。
 しかし、きっとそれは、確実に『遠近湊』という存在が影響を齎しているのだろう。
 そう考え至ったが故に、鏡夜は逃避へと走った。
 これまでに培ってきた自身の思考パターンが、彼女という存在が脳内に残っている内は元に戻らないと判断したから。
 彼女といると心が安らぐのは事実だ。しかしそれ以上に、言い様のない不安が募り、焦燥が襲ってくるのだ。
 それは理不尽なまでの現実。
 そして不条理なまでの真実。
 ……それでも、自分はそちら側に行くことを無意識の内に懇願していたというのに。
 それを拒んでしまった鏡夜は、やはりそちら側に行くことを否定していたのだ。
(矛盾している……)
 学園で孤立して、他者に微塵の関心を抱かなかった千堂鏡夜。
 でも、それが一週間でも変わったのなら、それで良いではないか。

 ――ホントウに――?

 強風が吹き荒れ、雪礫が荒れ狂う。
 凍てついた白い結晶が黒色のコートにバチバチと当たり、そして弾く。
 それはまるで、自分の犯した罪を償えと自然が告げているかのようで。
 それでも、鏡夜は街を歩き続けた。
 ――収束を始めた負邪を殺す為だけに。

 繁華街から二十分ほど歩き、オフィス街に到着した。
 ビルとビルの間の路地裏を通り、それを見上げる。
 鎮座する廃ビルの第一印象は『陰』だ。四方からさらに高い高層ビルに囲まれており、その廃ビルだけが異なる印象を抱かせる。
 窓ガラスは無作為に割られていて、外壁に装飾されたペンキは剥がれ落ち、内装は原型というものを留めていない。
 さらにはスプレーで落書きまでされていて、灯りは一つも灯っていない。
 四方のビルから隔離されているようにも思わせるこの廃ビルに、今現在、負邪が収束しつつあった。
 ビルの内部に足を踏み込む。
 敷地内を一歩進むごとに、床に附着している塵埃が宙を舞った。
 ……他のビルとは、何かが異なっていると鏡夜は感じた。
 まるで、外界から別世界に入り込んだかのような違和感が、鏡夜の戦闘思考、その第六感(シックスセンス)を過剰に刺激させる。
 灯りが皆無ゆえに、内部は仄暗い。唯一頼りと言えるのは、割れた窓ガラスから差し込む青白い輝きを放つ月光だけだ。
 三階に上がると、偶然か必然か、既にそれは顕現を果たしていた。
「――捜す手間が省けたな」
 月明かりが、鬼人の輪郭を鮮明なまでに描き出していた。
(……俺は、これを殺す為だけに生きている)
 そう考えると、彼女と過ごした一週間が実に無価値だと思えてきた。
(……そうだ。やっぱり俺は、あちら側に行くのは不可能だ)
 ――鬼人を見据え、鏡夜は思考を重ねた。
 今まで、何百回と殺してきた存在。
 幾度となく冥界へと葬送してきた存在。
 もう良いだろうに――それは性懲りもなく、また自分に殺気を向けていた。
「……もういい。死ね」
 自分の口から出た言葉に、内心で多少の動揺を自覚する。
 しかし、それが感情。
 いらないモノ。千堂鏡夜という封殺者が所有すべきではないモノ。
 ……苛立ちは治まらない。それは、彼女と関わってしまったからだろうか。
(でも、そんな事はどうでもいい)
 今は、ただ敵を葬るだけだ。

 鏡夜は接近を開始した。
 いつものように鮮麗された疾駆、いつものように殺す為の思考へと変換させて。
 しかし、彼は一つの矛盾に気付いた。
 鬼人のから黒い粒子――負邪が溢れ出ていることに気づく。
(……どういうことだ)
 この鬼人は、今まさに顕現を行ったばかりだ。不完全に顕現したのだろうか……。
 しかし、先例を思い起こす限り、そのような例は今まで一度もなかった。
 だが、それはそれでラッキーだ。
 弱体化しているのなら、いとも容易く殺すことが可能だから。
 ……鬼人は、鏡夜の行動に何の反応も見せない。
 否。この時点で、すでにそれは不可能だった。
 鏡夜は一瞬で間合いを詰める。
 後はいつも通り、体を十二分に解体すれば良い。
 右手を手刀に変え、体内の魔力を収束させる。
 そして胸部を狙い、刺突を繰り出した――

「…………えっ?」

 おかしい、と鏡夜は疑問に思った。
 自分は確かに胸部を狙い、そして放っただけだ。
 なのに――――――どうして、寸前で止めているのだろう?
「ちぃッ!」
 瞬時に二メートル後退する。
 そしてもう一度、今度は行動そのものを完全に失わせるために、首の切断を試みた。
 ……荒い息が、静寂とした空間に響き渡る。
 何がなんだか、ワカラナイ。
 躊躇うはずがない。
そんな感情は、いらない。
 気が付くと、鬼人は今まで殺してきた中で最上の肉片へと変わり果てていた。

「はあ……はあっ…………はぁ」
 呼吸を整えるには、精神的疲労の回復が要求される。
 故に、まずは心理的疑問の解決が優先だった。
(何故だ……?)
 鬼人を殺すことに躊躇ってしまった? 否、そんなはずがない。あってはならないと鏡夜は自分に言い聞かせる。
 逡巡など、封殺者には禁忌の感情だ。
 ならば、自分は何のために存在している?
 ならば、千堂鏡夜の生きてきた年月は無価値だということか?
 そんな筈はない。そんな事実は、あってはならない。
(……どうなっている)
 心中で呟いた疑問は、二つの事柄を指していた。
 一つは、鬼人の殺すことに対しての躊躇いだ。
 そして、鏡夜は目の前にある光景が理解できなかった。
 彼は、いつものように手刀に魔力を収束し、解き放っただけだ。
 そして今。鬼人は原型を留めておらず、周辺には肉片が散乱していた。
 肉片は……全部で九つ。
 首、左腕、右腕、右胴体、左胴体、右脚、左脚、左右手首。
 完璧な解体。肉体根本の破壊。
 おかしな事は何もない。だというのに――
「なぜ、消えない?」
 鬼人は、鏡夜の攻撃によって原型こそ失ってはいるが、左胴体だけが消滅することはなかった。
 それ自体、不可解な事実だった。
 人間の負の感情が収束した物質である負邪は、魔力とは対極に位置している。陰陽で例えるならば、負邪は『陰』、魔力は『陽』に値する。
 互いに相反する物質ではあるが、一方の負邪には致命的な弱点があった。
 その法則が『精質論理(せいしつろんり)』だ。
 負邪は、『不義』、『絶望』、『後悔』、『疑心』――この四大概念から成り立っている。
 それは、自身の感情に敗北した弱体精神の思念であることから、『精神的弱質の無意識体』と定義されている。
 対して、魔力という物質は己の欲望、意志力と言っても良い。自身の望む力で敵を討つ。その為だけに術者が練成する破邪の物質だ。
 そして、その魔力の根源とされている物質は『大気魔力粒子(マナ)』と呼称されている。万物を創造した力と称えられ、ひいては、万物に支障を生じさせないために存在するモノ。そして、魔力を体外、体内で行使させる際に扱う陽性的な意志力を『精神硬質(ハードメンタル)』と呼ぶ。
 魔力は陽性意志力。
 負邪は陰性弱質体。
 弱質体が意志力に勝ることは決してありえない。故に、負邪を消滅させる役目は魔力にあるのだ。
 そして、それは鏡夜の所属する組織――星礼会や、施設でも絶対法則として成立していた。
「――」
 そこで、鏡夜はある事に気づいた。
 この左胴体の『中』に残留してあるのは、負邪だけではないという事に。
 鏡夜は、左胴体を片手で持ち上げた。
 そして、右手を切断面から胴体の中へと突き刺す。
(……これの筈だ)
 ぐちゃぐちゃっ、と気味の悪い音を立てながらも、鏡夜は冷静に残骸の『中』を探る。
 ガリッと、爪が何か硬い感触を捉えた。
 球状の形と判断した鏡夜は、それを人差し指と親指で摘み、一気に引き抜く。
 黒い血が壁や床に飛び散る。それは、粒子となって虚空に溶けた。
 鏡夜は『中』にあったモノを観察する。
 直系三センチほどの円球を象った黒塊は、薄暗い光を放っている。
 そして、黒塊を引き抜いた直後、最後の残骸は完全に消滅した。

「それ、オレがそいつの中に入れたんだよ」

 と。不意に、狂気を感じさせる声が、鏡夜の鼓膜を刺激した。
 鏡夜は振り返る。
『それ』は唇の端を吊り上げながら、鏡夜を面白げに見据えていた。
「――誰だ」
 率直な質問。こんな廃ビルに人がいること自体不思議だが、それ以上に、その体に宿している魔力量は鏡夜に勝るとも劣らない。
 鏡夜の端的な問いに、『それ』は一つ鼻で笑った。
「気づいていない訳がねえだろ? 同類なのに」
 カツン、カツンと、静とした空間に『それ』の足音だけが響き渡る。
「――やっと会えた。……オレは、ずっとお前を探していたんだよ。オレの事を唯一理解してくれる仲間をさ。この瞬間を待ちわびていたんだッ……!」
 感情が昂ぶっているのか、『それ』は左手で顔を覆い、くくく、と笑いを噛み砕いた。
「封殺者か」
 鏡夜は確信を持って呟いた。
 言動を理解すれば、自ずとその答えに行き着いた。キーワードは『同類』、『仲間』、そして体内に宿っている魔力反応といったところか。
 百八十センチほどの高身長。肩に掛かる茶色の長髪に、白色のロングコートを羽織った男性。顔付きからして、年齢は二十代前半だろう。
「あぁ、自己紹介がまだだったな」
 昂る感情を出来うる限り制して、『それ』は話し始める。
裁我(サイガ)だ。真名は捨てた。そんなモノはオレにとって無価値だからな」
「そんな事はどうでもいい。この鬼人に何をした?」
 裁我と向き合った鏡夜は、少なからず敵意を宿した目で睨む。
「……いいな。いいぜ、その目。その存在感……! やっぱり、オレの目は節穴じゃあなかったみたいだ!」
 鏡夜の問いに答えず、裁我はその喜悦に興奮していた。
 奇声を想像させる哄笑が十秒ほど続いた。鏡夜は耳障りだと思いながらも、裁我から目を離さなかった。
 裁我は、その愉悦に満足したのか表情を戻す。
「あぁ、質問に答えてやるよ。さっきも言った通り、お前が手に持っている『コア』は、オレが鬼人の体内に埋め込んだ物だ。千堂鏡夜。すでにお前も気づいている筈だ。それが魔力を与えた石だってことにな」
 裁我の言う通り、鏡夜はとうに気づいていた。魔力を融合させて精製された魔石。そして、この魔石に宿っている魔力の基が、目前にいる彼のモノだという事さえも。
「精質論理は知ってるだろ? 負邪を消滅させる役目は魔力にある。故に、殺しても肉片が残留するのは矛盾する。――じゃあ、魔力そのものを埋め込めばどうなると思う?」
「性質変化って訳か」
 一瞬でその答えに辿り着いた鏡夜に、裁我は賞賛の拍手を送った。
「そういうことだ。負邪が魔力に勝ることは決してありえない。なら、魔力で負邪を塗り潰しちまえばいいだけの話だ」
『精質論理』の応用――。裁我が行ったのは、魔力による『消滅』ではなく、魔石を使用した『性質変化』だった。
 負邪という『精神的弱質の無意識体』は、魔力という『精神硬質』に勝ることはない。故に、『魔力>負邪』という不等式は自然と成り立ってくる。
 そして裁我は、鬼人の体内に自身の魔力を侵食させ、魔力で作られた存在へと変質させたのだ。
 つまり、魔力そのものである鬼人に魔力を使用して殺害を行っても、体内に同化しているコアがある限り、『「魔力となった残骸」が残る』という理論だ。
 鏡夜は一瞬だけ考えた。
彼はその知識と、それを実行できうる技術をどこで身に付けたのか、と。
 しかし、鏡夜は即座に思考を切り替える。
 そんな事は二の次だ。
 重要視すべきは、それを実行した裁我の『在り方』にあるのだから。
「『体内魔力粒子(イナ)』をそんな事のために利用したのか。封殺者であるが為の存在理由を否定したのならば、星礼会の魔術師に殺されても文句は言えないぞ」
 体内魔力粒子(イナ)とは、魔術儀式により、人為的に認識させられた魔力を指す。封殺者として戦う為の機能を施した物質だ。
 そして、それを行使するのは鬼人を殺す時だけだ。星礼会により任務を担った場合は除くが、それ以外の事項は対象にならない。
 星礼会の魔術師達は、その為だけに封殺者に体内魔力粒子(イナ)を与える。故に、使い道を誤った者は魔術師に始末されるというのが自然な流れとなっていた。
 しかし鏡夜の危惧にも、裁我は全く動じなかった。
「心配してくれて嬉しいな。なら、そうならないように元凶を潰さねぇか?」
「なんだと?」
 突然、理解に及ばない事を口にする裁我に、鏡夜は眉を顰めた。
 ……裁我は再び距離を詰め始める。
「千堂鏡夜。お前のデータは完全に把握している。お前が日本最強の封殺者であり、同時に矛盾した思考の持ち主だって事もな」
 鏡夜は応えない。
「さっき、鬼人を殺すのを躊躇ったのはそういうことだろ? 何故、自分が鬼人を殺さなければならないのか。何故、こんな理不尽な運命を持って生きなければならないのか。何故、星礼会の連中に従わなければならないのか」
 ――鏡夜は応えない。
「つまりだ。結論から述べると、大元の原因を破壊すればいい。お前が俺の戦力に加われば、現存している魔術師達を殺すことは不可能じゃないとオレは踏んでいる」
 そこで、鏡夜はやっと口を開いた。
「何を言っている? 所詮は封殺者だぞ、俺は。日本最強だとか誰が流しているのか知らないが、絶対的な上位者である魔術師に敵う訳が――」

「魔術師を殺したことがあるんだろ?」

 ……裁我の小さな呟きに、鏡夜は押し黙った。
 その期待通りの反応に、裁我はニヤリと唇の端を吊り上げる。
「言ったはずだ。千堂鏡夜のデータは完全に把握しているってな。施設時代の観察者をわずか十歳だったにも関わらず殺したんだろ? 星礼会の上位幹部殺しの情報を知った時は、さすがのオレも驚いた。だが逆に言うならば、わずか十歳の子供でも、魔術師を殺せるだけの戦闘力を用いていた事と同一だ。だから――」
 と。裁我の言葉はそこで途切れた。
 一瞬で眼前に迫っていた鏡夜の魔刀を防ぐことに思考を費やしたからだ。
 側面から虚空を切り裂いて襲い掛かってくる一撃には、すでに裁我を殺せるだけの体内魔力粒子(イナ)が収束されていた。
 鏡夜の狙いは首。頚動脈を切り裂き、数秒で彼の生命活動を停止させる。それだけだ。

「いきなりだな」
 
 しかし、その魔刀を防ぐだけの体内魔力粒子(イナ)を、裁我は軽い口調で話しながらも蓄積していた。
 だからこそ、たった一本の腕で防ぎきることができた。
 鏡夜の前で『彼女』の話を持ち出すと、瞬時に敵意を抱き、標的に定めるという事さえも知っていた。
 だからこそ、裁我はわざとその話を持ち出した。
「あの女が忘れられないんだろ? そりゃそうだ。お前に唯一、夢を与えた女だもんな。忘れられる訳がない」
 淡々と紡ぐ言葉に、鏡夜はただ憎しみを覚えた。
 彼女を忘れていなかったからこそ、自身さえも呪った。
「それだけの感情が、まだお前にも残っている。オレも同じだ。こんな理不尽な生き方を殺す為に、星礼会(あいつら)を破滅させる。その為にも、戦力を増やさなきゃならねえ」
 軋みを上げる腕を、裁我は強引に弾き返した。
 そして……耳元で、そっと囁く。
「今すぐに答えを貰うつもりはねえ。だが、お前の本能は直感している筈だ。自由になるためには、星礼会を潰すしかないって事にな……!」
 鼓膜を刺激する悪魔のような囁きは、瞬く間に鏡夜を焦心状態へと陥らせた。
 裁我は満足したような笑みを浮かべると、踵を返し、鏡夜の前から立ち去った。
 時が止まったかのように、鏡夜の顔に変化はなかった。
「……答え……」
 独り残された鏡夜は、裁我の言葉を繰り返す。
 自由になる? そんなことは不可能だ。彼女を殺した時点で、自分にそうなる資格はなくなった。
 だというのに。
「馬鹿野郎……!」
 一瞬、思い至ったその結論は、千堂鏡夜の在り方を破滅しかねない『答え』だった。

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