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 鏡夜との接触を終えた裁我は、街中を歩いていた。
 ふと、夜空を眺める。
 先刻までの豪風は、今となっては少しずつ治まりつつあった。
「……雪、か」
 今夜は満月な分、白い結晶を神々しく輝かせているように思えた。
「……ちっ」
 思わず舌を打つ。
 これはただの自然現象だ。そこには既に科学的な解明が成されている。
 はるか上空で水蒸気が極小の粒に変化し、地上に落下するだけ。
 その理論を認識したから、驚くことはなくなった。
 ……初めて『外』に出た頃は、あれだけ呆然と、愕然としていたのに。
 気持ちが昂揚して、あれだけ無邪気に遊んだというのに。
 今は、ただ鬱陶しく、見るだけで憎悪を感じさせる代物だった。
 彼をそのような心境にさせる原因は――
「ニクイ」
 裁我は、そんな言葉を発した。
 そんな一言で片付けられてしまう。
 そんなものじゃないだろう?
 もっと、実行するべきやりかたがあっただろう?
(……くそ)
 誰かが、脳内に問いかけてくる感覚を覚える。
 それは、おそらく『裁我』という人間の内に宿る本能が告げているのだろう。
 つまりは、あんなやり方では生温かったのだ。
 後腐れなく、あいつを殺るべきだったのだ。
 ……今頃になって、彼は後悔してしまう。
 こんなどうでも良い事に思考を走らせてしまう。
 では――なぜ後悔するのか。
 結論は、簡単に出た。
「……迷っちまったのか?」
 しかし、自然と漏れた言葉は疑問系だった。
 では、なぜ疑問系なのか?
 そこを考えよう。
 裁我が彼女に抱いていた感情は、嫉妬、不快、憎悪。……これくらいか。
 しかし、それだけの負の感情を持ち合わせていたというのに、何故できなかったのか?
 ………………。
 今度は、全く解らなかった。
「もう止めだ。時間の無駄だ」
 結局、彼は頭を振って、その思考を断絶させた。
 さて、別の事柄を考えよう。
(これから、どう行動すべきか……)
 白い結晶が舞い降りる中、彼は静かな足取りで歩みを進めた。

 ◆

 翌朝の七時半。ベッドから起き上がった鏡夜は、睡眠不足でどこか体が怠く感じた。
(……馬鹿げてる)
 睡眠不足……というより一睡もできなかったのは、裁我という封殺者の事を延々と考えていたからだった。
(そうだ。あいつの考えは理解に達しない)
 そう自身に言い聞かせる。そうだ。星礼会を破滅させたところで、裁我はともかく……自分は自由になどなれないのだ。
 彼がなぜ自分から絶望の道を辿ろうとしているのか、現時点での鏡夜には解らなかった。
 どんな理由があって、どんな想いを抱いて、そのようなくだらない理想(ユメ)を夢見てしまったのか。
 所詮は、価値のない事だというのに。
「考えるだけ無駄だな……」
 結局、鏡夜は裁我という男を存在ごと忘却する事にした。
 考えを決めると、次の行動に移行するのは容易だ。すでに時刻は七時半を回っている。少し早いが、学園に向かう準備を整えることにした。
 いつも通りに制服に着替え、いつも通りに、鞄に教科書を詰め込み――
「……いつも通り?」
 と。鏡夜は震える唇で呟いた。
(……今、完全に思考が狂った)
 鏡夜は、『いつも通り』の類に『彼女』の存在が混ざっていた事を認識した。
(違う……!)
 だからこそ、自分自身に憤慨してしまう。このような思考は、今の自分に不適合であると。
 終わったのだ。
 そう。鏡夜は終わらせたのだ。
 そちら側には行けないと、再認識してしまったから。
『彼女』のようにはなれないと、確信してしまったから。
 だから、「ありがとう」と告げたのだ。
(駄目だ……)
 ……昨日の一件もあり、過度な精神的疲労が続いたからだろう。鏡夜の顔から、徐々に気力が失われていった。
「今日は、休もう……」
 鞄を部屋の隅に放り投げ、荒々しくベッドに横たわった。
 鏡夜は、ゆっくりと目を閉じる。
(……何を迷っている、千堂鏡夜)
 瞑想を行ってみても、答えなど出てこなかった。
 いや、それ以前に、鏡夜はこうした行為を今まで幾度となく繰り返してきた。しかし、納得のいく答えを見出したことなど一度もなかったのだ。
 こうやって無駄な時間を費やして、何かが変わるなどありえないと知っているのに。
 ――でも、今日くらいは良いだろう。
 ――眠りたい。
 ――せめて夢の中だけでも、俺は。

 ピンポーン

 微睡みに墜ちる寸前。鏡夜の耳に、そんな機械音が届いた。
「……ッ!」
 そして、一気に眠気が退く。
 反射的にベッドから身を起こして、正面にある玄関を見据えた。
 当然だが、扉の向こう側が透けて見えるはずがない。
 しかし、扉の向こう側には『あの存在』がいると体内魔力粒子(イナ)が直感を示していた。
 魔力分子が互いに反発し合っている。故に、眠気が退いたのだ。
 
 それは、従う者と支配する者の決定的な上下関係。
 それは、絶無者と絶対者の決定的な在り方の違い。

 ベッドから立ち上がった鏡夜は、玄関まで歩いた。
 震える膝をどうにか御しながら……ゆっくりと扉を開ける。
 まず確認できたのは、二メートルを超える巨躯。
 全身は黒という服装で構成されている。長く、地面に届くほどの外套すら黒色。
 感情が有るとは思えない、何も無い顔。
 しかし、その存在感はホンモノだ。
 鏡夜を静かに見据えている魔術師が、そこにいた。

 それは、地獄を連想させた。
 空気が死に、音が死に、体に宿る魔力が怯えている感覚に襲われた。
 すでに、ここ周辺は異界へと変化を遂げてしまったといっても過言ではないだろう。
 一般人が付近を通りかかったら、間違いなく気絶する。
 それ程までの地獄を創造した男を眼前に、鏡夜はできうる限り平静を装った。
 ……この感覚は、あの時と酷似していた。
「――久しいな、千堂鏡夜」
 低く重い声の中には、どのような感情が混ざっているのか。
 鏡夜は、変化しない男の顔から目を逸らさなかった。
「何の用だ。天美(あまみ)(かい)
 少なからず敵意を持って、鏡夜は男――天美戒を静かに睨み付けた。
「立ち話もなんだな。部屋には入れるか?」
「重要事項か?」
「その通りだ」
 やはり変化のない口調で返す天美。
「……わかった」
 端的に了承して、鏡夜は道を開ける。
 天美は玄関で黒色の靴を脱ぎ、ワンルームの部屋に上がり込んだ。
「座らせてもらうぞ」
 天美は、居間の畳に正座をする。
 鏡夜も、天美の向かいに胡坐で腰を下ろした。
「用件は?」
 探るような目を向けながら、鏡夜は尋ねた。
 他人である封殺者の元に魔術師が自宅訪問を行うなど、およそありえない光景だった。
 故に、鏡夜は問う。
「あんたは俺の観察者じゃない。星礼会の魔術師が俺と接触する理由が解らないが」
「確かに、お前の意見は的を射ている。しかし、場合が場合なのでな。私はお前の観察者ではないが、下の者(ロウアー)がお前と接触した。故に他人事ではなくなった。
 知っての通り、観察者とは下の者(ロウアー)――直属の部下である封殺者の行動、鬼人の抹殺数を記録し、星礼会の上層部に報告書を提出する義務を担っている」
 お前は例外だがな、と付け加えて天美は言葉を紡ぐ。
「そして今回の件は、私の下の者(ロウアー)が引き起こした事件である事から、私がお前への伝達者(メッセンジャー)となった。千堂鏡夜。すでに裁我とは接触したな」
「……何故、その事を知っている?」
「それは、私が彼の元観察者ゆえに、だ」
 紡ぐ言葉には、威圧的な重みが感じられた。天美の発する一言一言が、鏡夜の脳へと必然的に刻み込まれていく。
「星礼会は、この町に二人の封殺者を派遣する予定だ。明日にはこちらに到着するだろうな。その少数精鋭部隊の隊長に、お前が抜擢された。
 率直に告げる。星礼会の上層部が議論し、導き出した結論はこの通りだ。『コードナンバー01、千堂鏡夜に命じる。裁我を始末しろ』」
「……それは、決定事項なのか?」
「その通りだ。奴が接触し、尚且つ、我々に反逆を行う為に仲間に加えようとしている人物は、紛れもない千堂鏡夜という封殺者――お前だ。そして、接触の機会はこれからも幾度となく訪れるだろう。ならば、その機会を有効活用するのが最善の策だ。コアを埋め込まれた鬼人の始末は他の二人に任せることになる」
「……ひとつ訊きたい事がある。コアを創りだしたという事は、裁我の魔術技巧は博士号並みという事実に直結する。あいつは、あの超絶技巧をどこで修得した?」
 あのような魔石を創り出したこと自体驚くべき事実だが、鬼人の体に埋め込むという例を鏡夜は聞いたことがなかった。
 鏡夜の問いに、やはり天美は無表情で返答する。
「彼は封殺者でもあり、同時に魔術の探求者でもある、というべきか。二年前まで、彼は関西の施設において様々な研究を行っていた。その研究成果が現在に至るということだな。今お前が述べた通り、彼は星礼会上層部から、『魔術論理学』の博士号を授与されている」
「……そうか」
 呟いて、鏡夜は黙り込んだ。
 おそらく、裁我はこの時のためだけに研究を進めてきたのだろう。星礼会を滅ぼし、自分が自由になる為だけに、二年の年月を費やした。
(……所詮、価値はないのに)
 どれだけ抗おうとも、自分達は従う事しかできないのに……。
「何を躊躇っている?」
 天美の言葉には、迷いなど微塵もなかった。
「殺す事がお前の存在理由だ。それは鬼人のみが対象ではない。過去の任務においても――そして七年前も、お前は殺してきたはずだ」
 天美の言葉には、逡巡など全く籠っていなかった。
 それは、鏡夜がそれだけしかできないと知っているからだ。
 鏡夜の在り方に、迷いは必要ないと彼は知っているからだ。
(……そうか)
 そして、鏡夜は改めて実感した。これが、魔術師という存在なのだと。
 古傷は決して癒えない。心に負った、彼女を殺した時の感覚。
 天美は、顔色一つ変えずに、ただ冷然と自分を見据えている。
 天美は、邪魔な存在を殺すためだけに自分を利用しようとしている。
 今頃になって、鏡夜は気づいた。

 自分に、逃避など叶わないのだと。

「――コードナンバー01、千堂鏡夜。裁我の始末を承諾した」
 結局、鏡夜はそう口にしてしまった。
「その言葉、確かに受け取った」
 天美は深く頷き、不意にこんな言葉を口にした。
「頭痛は治まったか?」
「……なに?」
 意味が解らず、鏡夜は眉を顰める。
「……よい。邪魔したな」
 言って、天美は立ち上がり鏡夜に背を向けた。
 徐々に遠ざかっていく足音は――しかし、玄関口で止まった。
「あの娘の見舞いに行ってやれ。……遠近湊だったか。K大付属総合病院に入院している。ではな」
 そう言い残して、今度こそ天美は扉の向こう側へと消えた。
 そして、この時点で鏡夜は気づいていなかった。
 その言葉が、魔術師の慈悲だったということに。

 ◆

 少女は、閉じていた双眸をゆっくりと開いた。
 ぼやけ、霞んで見えた視界が、徐々に鮮明な風景を描き出していく。
「……ん……ぅ」
 咄嗟に目を細めた。
 カーテンの隙間から射し込む日光は眩しく、少女に朝が来たという事を報せてくれた。
 少女は仰向けの状態で、首だけを動かした。
 白い天井。白い壁。辺りを見回しても、誰もいない。
 そこで、少女は自分が病室にいるという事を認識した。
「……いたっ」
 少しでも体を動かそうとすると、腹部辺りが痛んだ。
 でも、と少女は思う。

 何故、自分は病室にいるのだろうか?

 少女の記憶では、その辺りがどこか曖昧だった。
 しかし、おそらくこの痛みが原因なのだろう。パジャマを捲ると、腹部には包帯が巻かれてあった。
 身を起こそうとしても、腹部に亀裂が走ったような激痛を覚える。
 少女は、満足に起き上がれない状態だった。
 何故入院しているのかは、後で医者に尋ねれば良いだろう。
 ……それと、もう一つ。
 自分は、何かを忘れているのではないか、という疑問を抱いた。
 そして『それ』は、忘れてはいけなかったような気がしてならない。
 ズキンッ、とまた腹部が痛み、少女は顔を歪ませた。
 ――駄目だ。今は考えるのはやめよう。
 ――もう少しだけ、眠ろう。
 次に目を覚ました時には、きっと思い出しているだろうから。


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