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 鏡夜の家を出た三人は、その場所に向かって歩みを進めていた。
 鏡夜は学園に「風邪を引いた」と連絡を入れた。その電話の最中、カインは耐えられずクスクスと笑いを溢していたが、別段気にする必要はなかった。
「日本はいつ来ても良い国だね。イギリスなんかよりも、こっちの方が断然落ち着くよ」
 街の中枢にある繁華街を歩いている最中、カインはテンションが上がったようにスキップなんかをしていた。
 生粋のイギリス人であるカインは、過去に一度、任務で日本に訪れたことがあった。その際、鏡夜はカインをパートナーとして仕事を行ったのだ。
 以来、カインは日本の文化――とはいっても、日本のゲームや漫画だけだが――にえらく関心を抱いたらしい。流行のゲーム機や日本で有名な漫画などを尋ねられた鏡夜だが、そのような事に興味が無い彼が教えられる訳もなかった。果ては任務の終了後に漫画喫茶に連れていかれる破目にもなった。
「鏡夜くん、鏡夜くん」
 と、ぼんやりとした表情でその頃を思い出していた鏡夜だが、服の袖をちょいちょいと引っ張られて横目で千雨を一瞥する。
「……名前で呼ぶなよ」
「名前くらい良いじゃないッスか。減るものでもあるまいし」
 並んで歩いている千雨は、前に出て、下から鏡夜の顔を覗き込んだ。
「私の事はちーちゃんで良いッスよ。それで平等ッスよね?」
「そう呼ぶ事に意味はない」
「意味ならあるッスよ? 仲間ならコミュニケーションを大事にしないといけないッス」
 ――仲間、か。そんなモノはいらないが、今回限りの付き合いだと考えれば別に気にする必要は無いのかもしれない。
「分かった。――千雨」
「おぉ、初めて鏡夜くんから名前で呼ばれたッス!」
 名前で呼ばれた事がよほど嬉しかったらしく、千雨は初めて微笑んだ。――しかし、今の鏡夜からすれば、その純粋無垢な微笑は苦痛でしかなかった。
「鏡夜?、疲れたよー。まだ着かないのー?」
 先頭を行くカインがそんな愚痴を漏らす。鏡夜は手にしている地図を広げて「あと三十分くらいだ」と返答した。

 ◆

 K大付属総合病院は、堂崎市の西区――山地付近の場所に位置している。周囲は豊かな緑で囲まれており、その土地面積も広大である。病院に着くまでは多少の坂道を登らなければならないが、この病院に訪れる人々の大半は町の中枢から特別バスに乗車する。なので、鏡夜達のようにわざわざ坂道を登ってくる必要はない。
 鏡夜は特別バスの存在を知らなかった。違う町から来た千雨は勿論のこと、イギリスから訪れたカインも知る筈がない。故に、こうして遠回りに傾斜の高い坂道を登っていた訳だった。
 坂道を登りきり、鏡夜はその病院を見上げた。
(ここに、遠近が入院している――)
「何してるの、キョウヤ?」
 正門の前で立ち止まる鏡夜に、訝しげに声を掛けるカイン。その言葉でハッと我に返った鏡夜は、先導するカイン達の後を追った。
 正午に近づきつつある時間帯のためか、ロビーにはそれなりに人がいた。
 鏡夜はフロントにいる受付の女性に、遠近湊の面会に訪れたと事情を説明する。
 一枚の用紙に、面会時の必要事項をペンで記入した後、三人は「第三棟の402号室になります」と案内を通された。
 
「ここか」
 ――402号室の扉の前で立ち止まった三人。ふと、鏡夜は扉の横にある名札を見た。
『遠近湊』の名札しか貼られていないという事は、個室なのだろう。
 鏡夜は、ノックを二回する。
「どうぞ」と、控えめな声が返ってきた。
 ――扉を開ける。
 そこには、一週間前に別れた遠近湊がいた。
 ベッドからゆっくりと身を起こした湊は、無表情とも取れる顔で、こう言った。

「……あの、どちら様でしょうか?」

 ――と。鏡夜の記憶に残っているあの笑顔が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
「……病室を間違えていませんか?」
 徐々に戸惑いの表情へと変化する『遠近湊』。
「(どういうこと? キョウヤの事、知らないみたいだけど?)
 耳打ちしてくるカインの疑問には答えず、鏡夜は部屋の端に置かれてあるパイプ椅子を手で引き寄せ、腰を下ろした。
「――俺は千堂鏡夜っていうんだが……あんた、知ってるか?」
 緊張させないよう、できる限り静かな口調で問い掛ける鏡夜。
 しかし、湊は首を横に振って「……知らない」と返答する。
「――そうか。あんた、何で入院しているんだ?」
 問い掛けると、湊は顔を少し俯かせて、眉を寄せた。
 震える唇で、今にも泣き出しそうな表情で、湊は口を開いた。
「……最初は分からなかった。気が付いた時には、このベッドにいたの。でも、何でこんな事になったのか分からない」
「……そうか」
 ――遠近にはもう、俺に関する記憶は無いのか。
 それを悔やんでいる自分がいた。そして反面、その事実を喜んでいる自分もいた。
 ――何故か、泣いてしまいそうになる。
「……二、三。質問に答えてもらってもいいか?」
「うん」
「あんた、病を持っているのか?」
 その問いに、湊は無表情で否定した。
「ううん。私は住宅街で倒れていたらしいの。お腹には、刃物みたいな物で切られた痕がある。それで、私が倒れている所に偶然通りかかった人が、警察と病院に通報してくれたみたい」
「病院に運ばれたのは、何時頃だ?」
 その問いに、湊は無表情で返答した。
「お医者さんの話だと、昨日の夕方頃」
「じゃあ、最後の質問だ。腹部以外に、痛む所はあるか?」
 その言葉に、湊は微笑んで返答した。
「ありがとう。心配してくれて。でも、お腹以外に痛む所は無いよ」

 ――二人だけの教室で雪を眺めた時の笑顔が、ここにあった。

「そうか。それなら良かった」
 だから、鏡夜も笑顔で返した。
 それは、湊の目にはどう映っただろうか。
 それはきっと、笑顔とはいえない、ぎこちない笑顔だったのだろう。
 パイプ椅子から立ち上がった鏡夜は、湊に背を向けた。
「ありがとう。安静にして、早く退院しろよ」
 片手を上げて、鏡夜は病室を後にした。

 ◆

「最後の別れは済んだのかい?」
 病室を出ると、カインが皮肉な笑みと言葉を以って鏡夜を出迎えた。
「……カインくんの皮肉も、ここまで来るとむしろ清々しいッスね。少しは鏡夜くんの気持ちも考えた方がいいと思うんスけど」
「気持ち? ボク達がそんなモノを持ってどうするの? 感情なんてボク達には不要なモノだよ。そうでしょ、キョウヤ?」
「ああ、感情はいらない。全ては終わった。標的も定めた。だから――」

 千堂鏡夜は、殺す為に生き続けるだけだ。

 ◆

『ありがとう』
 そう言い残して、彼は病室を後にした。
 ――何かが、脳裏に過ぎった。
 同じ言葉を、湊は以前、聞いた気がしてならなかった。
 ――でも、それはいつだっただろうか?
 彼と話していると、密かに、湊は『嬉しい』という感情を抱いていた。
 ――でも、それはなぜ?
 どうして、そのような感情を抱いたのだろう、と湊はベッドの中で考えた。
 彼は、言っていた。
『千堂鏡夜っていうんだけど、あんた知っているか?』
 あの言い方が示す意味――おそらく彼は、自分の事を知っていたのだ、と憶測する。
 ――本当は「知らない」ではなくて、「思い出せない」と言う方が的確な言葉だったのかもしれない。
 そう口にしていたら、もしかすると、彼は自分との関係を教えてくれていたのかもしれない。
 それが、どんな些細な事柄でも、思い出せたなら、この不安で埋め尽くされた心は、すっきりしていたのかもしれない。
 ――かもしれないばっかりだ。
 それは、想像するしかできないけれど。
 ――でも、また来てくれないかな、と湊は思った。

 ◆

 三人が自宅のマンションに着いた頃には、既に午後六時半を回っており、橙の色彩が空を覆っていた。
 この空が完全な闇夜に変貌するまで、残り四時間といったところか。鏡夜はマンションの廊下を歩きながら、空を見上げていた。
 カインと千雨の強引な要望で、二人の下宿先は鏡夜の家となった。……確かに、三人が寝られるだけのスペースはある。しかし、女性である千雨まで「意義なし」とはっきり言うとは、さすがの鏡夜も思っていなかった。
「ただいまー!」
「ただいまッス」
 ……この二人。何だかんだで考えている事が似ているのではないか、と鏡夜は小さなため息を漏らした。
「カイン。先に言っておくが、部屋を荒らすなよ」
「む、そんな事する訳ないでしょ。英国紳士だよ、ボク」
「英国紳士は、人の家の冷蔵庫を勝手に開けて牛乳をラッパ飲みしないと思うがな」
「ぷっはー! え、なに?」
「……もういい。とりあえず椅子に掛けてくれ。今後の事について話し合うぞ」
 鏡夜の促しに、二人は頷いた。

「さて、まずはコアについてだね。今現在把握している事は、『鬼人の体内に埋め込まれている』。『コアがある限り、肉体は消滅しない』。これくらいかな」
 前回と同様に、今回もカインが場を仕切ることとなった。
 鏡夜もそれに反対する理由はなかった。カインは話の流れ、結論に至るまでの順序の組み立て方が常人より優れていると知っているからだ。
「じゃあ、正逆の論理で考えるとこうなる。肉体よりも先に、体内にあるコアを破壊してしまえばいいんだ。そうすれば、鬼人を司る魔力が消滅して存在は失われる。と、これがボクの推測なんだけど、試してみる価値はあるね。キョウヤ、コア出して」
「ああ」
 鏡夜はテーブルにコアを置いた。薄暗い光を放つ魔石には、未だ裁我の魔力が宿っている。
「結構硬そうだけど、キョウヤ。壊せる程度の魔力量でやってみて」
 首肯した鏡夜は、体内に蓄積してあるイナを右手に収束させる。
 次に、『練成』を行う。脳裏で思い描く心象は、コアを破壊できるという強大な陽性意志力。コアを破壊するという鏡夜の意志は、右手に宿る体内魔力粒子(イナ)を格段に活性化させていく。
「――やるぞ」
「いいよ。ちゃんと視てるから」
 カインに確認を取った鏡夜は、指でコアを摘み上げ、コインを弾くようにピンッ、と宙に浮かせる。
 ――刹那の瞬間、鏡夜は魔刀を横一文字に振り切った。
 パキィンッ! とコアは中空で綺麗に両断され、テーブルに転げ落ちた。
 その一部始終をしっかりと視ていたカインは、ニコリと笑う。
「うん。視た結果、やっぱり砕けると同時に魔力は消失するようだね。で、今キョウヤが収束した体内魔力粒子(イナ)の量だと、ボクでも破壊は可能だ。チサメちゃんはどう?」
「うーん、どうッスかね。何ともいえないッスけど、たぶん大丈夫ッスよ」
 曖昧に肯定する千雨だが、二人は破壊できる自信があるように窺えた。
「まあ、試してから初めて判ることもあるからね。次は、コアが身体のどの箇所に埋め込まれているかだ。キョウヤ、このコア、体のどの辺りにあったの?」
「左心室――人間でいう心臓の部分だ。お前の言った取り、これを引き抜いたら肉体は消滅したぞ。おそらく、同化した物質が体内から乖離したからだろうな。
 それと話は変わるが、『遠近湊』の病室で一つ判った事がある。彼女を襲ったのは、間違いなく裁我だ」
 断言する鏡夜に、千雨は「その根拠は?」と訊ねた。
「傷を負った箇所を視たが、体内魔力粒子(イナ)が腹部に残留していた。あれは、俺が初めて裁我と出遭ったときに感知した魔力性質同一だった。……率直な疑問でいうなら、何故、一般人である『遠近湊』を襲ったのかだ」
「じゃあ、関連性は今の時点では一つッスね」
「……どういう意味だ?」
「湊さんが記憶を失っている事について、鏡夜くんはどう思っているんスか?」
 千雨の言葉に、鏡夜は押し黙った。
 ――そんな事は、もう自分には関係ない。彼女には何の関心も抱いていない。遠近湊の話を持ち出したのは、裁我に関する情報がほしいだけなんだ、と鏡夜は自分に言い聞かせる。
 そんな鏡夜の思惑を知らずに、千雨は淡々とした口調で話を紡いだ。
「今回の場合、裁我さんに襲われたショックによる一時的な記憶混乱という例が挙げられるッスね。――腹部に傷跡。これは真正面から襲われたという事に繋がるッス。普通、一般人なら恐怖心に心を囚われ、背を向けて逃げ出し、背中辺りに傷を負うのが妥当な線ッス。なら、湊さんは逃げ出せなかったのか、傷を負う以前に何らかのショックを受けてしまった。さらに裁我さんには、一般人である湊さんを襲う動機があった。こんなところッスかね」
「……千雨は、遠近湊と裁我に接点があるって言いたいのか?」
「まあ、これは私個人の憶測ッスけど。カインくんはどう考えているんスか?」
 千雨は、カインに視線を送るが、
「…………」
 今朝と同様に、またしてもカインは黙り込んでいた。顎に手を当てて、静かに黙考を続けている。
「……ねえ、キョウヤ。その裁我ってヤツ――」

 ピシィンッ

 しかし、カインが言いかけた言葉は、突如現れた『魔力反応』によって、自然と漏れなくなった。
「――えらくタイミングがいいね」
 不敵に笑うカイン・エレイスは、その体に禍々しい殺気を宿している。
「久々の殺しッスか。何か緊張してきたッスよ」
 面倒そうに呟く工藤千雨も、同じく。
 ――そして、千堂鏡夜は。
「場所は河川敷公園。数は二つ。それじゃあ、俺達が俺達でいられる為にも――」

 ――敵を、殺しにいくか――」

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