三人は、マンションの屋上にいた。
鏡夜の住んでいるマンションの屋上は随時一般開放されている。マンションの住人は滅多に使用しないのだが、鏡夜はここで夜空を見るのを個人的に好んでいた。
鏡夜は、振り返ってカインと千雨の様子を確認する。
「ボクは準備オッケーだよ」
ニコリと笑うカインは、右手に大型のアタッシュケースを握っている。
「私も大丈夫ッスね」
抑揚なく言う千雨の左手には、刀身が三十センチ程の短刀が握られている。先程、部屋でケースから取り出した物だ。柄は木造、鍔は無く、両刃の直刀だった。
二人の戦闘準備を確認した鏡夜は、再び前に向く。
「目的地まで先導する。着いてきてくれ」
言って、鏡夜は高く跳躍した。四秒後には彼の姿は見えなくなる。
「凄いッスね、鏡夜くん。一度であれだけ高い跳躍を行うなんて」
「――白々しいね、チサメちゃん」
「何がッスか?」
「ま、いいけど。じゃあ、ボク達も行くよ。見失っちゃうからね」
言って、カインも高く跳躍した。
「……ま、判ってるッスよね」
そんな言葉を呟き、千雨は二人を追った。
民家の屋根、ビルの屋上を着地地点にして、三人は跳躍を繰り返す。
封殺者は、殺人技術の徹底のみならず、『施設』の研究者が作り出した特殊な薬物を投与される事により、身体能力の向上が施されている。
封殺者の人種に値する者は、身体能力だけならば魔術師を凌駕しているのだ。
「キョウヤー! アタッシュケース持ってるボクの身にもなってよー」
跳躍の途中、カインがそんな愚痴を漏らしていたが、鏡夜は無視して跳躍の速度をさらに上げた。
今は、そんな事に気を配っている暇はない。何故なら、『あれ』の魔力反応が増加しているからだ。
二十回ほど跳躍を繰り返し、河川敷公園に辿り着く。
先日、この場所で鬼人を殺した事を鏡夜は記憶していた。
……しかし。今、対峙している鬼人は似て非なる存在だ。
二体、いた。
へえ、と感嘆の息と漏らすカイン。
「裁我ってヤツ、今回は成功したみたいだね」
殺気どころの話ではない。そこにいるのは、強大は魔力反応を持つ性質変化された鬼人だった。
そして、『普通』の鬼人と異なる点が一点存在するのもまた事実。
それは鬼人の眼の色にある。『普通』の鬼人は、毒々しい紅色だ。
だが、その色も、今となっては透き通った蒼色だった。
「蒼って事は、裁我さんの魔力性質を表しているんスかね?」
独り言のように、千雨は小首を傾げる。
「負邪は感じられない。有るのは、魔力だけだ」
鏡夜は、その事実を一瞬で見抜いた。
――蒼い瞳が、三人を捉える。
「じゃあ、そろそろ始めるか」
鏡夜は小さく呟く。
(俺の存在理由を、証明する為に――)
しかし、大きな意味を込めて。
「殺害開始だ」
◆
距離は二十メートルほどだろうか。その間合いを徐々に詰める鏡夜の疾走は、以前と変わらず流麗だった。
「じゃあ、ボクも」
カインはアタッシュケースを宙に放り投げた。自然とロックが外れ、その武器が姿を現す。
「日本で使用するのは久しぶりだな」
漆黒の柄を中空で掴み、そこから繋がれている恐ろしく長い白銀の鎖がガシャアン、と地に着いた。
その先端には、鋭利に尖った十五センチの刃。殺す為だけに鍛えた、カイン・エレイス専用の殺人武器だ。
柄を握り締め、カインは
「よろしく頼むよ、〈チェイン〉」
「じゃあ、私も」
言って、千雨は両の半眼を見開いた。
黒瞳が見据えるのはただ一点、鬼人の姿のみだ。
これが、戦闘時に気を引き締める工藤千雨の自己暗示だった。
「では、私は先に参ります」
千雨の口調は、普段のそれとは完全な別物へと変化していた。静かな、それでいて殺気を含めて言葉を発する彼女は、鬼人を目指して疾走を開始した。
「……変わるものだね、人間って」
いきなり口調が変わった千雨に呆然するカイン。しかし、そんな言葉を口走ったカインも数秒後には援護の準備に回った。
二体の鬼人は、鏡夜が十メートルほどに距離を詰めた時に分散した。
散った鬼人の片方は高く跳躍し、鏡夜の後方から疾走している千雨目掛けて落下した。
徐々に間合いを詰める鏡夜だが、一方の鬼人は動じなかった。鏡夜の先手を窺っているつもりなのだろうか……。
(だが、何かある)
鏡夜は、鬼人の一挙一動も見逃すつもりはなかった。殺しにおいて、相手の微細な動きの意味を理解できなかった瞬間、必然的に死は訪れると知っているが故。
鏡夜は間合いを一メートルに詰めた時、一瞬で身を沈める。腰の運動エネルギーを最大限に生かし、右手に
ダァンッ、という音を立てて、右脚の踏み込みを炸裂させた。
鏡夜にしてみれば、静から動への移り変わりは〇・五秒もあれば充分だった。
充分なタメを保ち解き放った刺突の狙いは、コアの埋め込まれている確率が高い左胸部だ。まずは、その一点を破壊する。
しかし、鬼人はその瞬間的な攻撃をいとも簡単に捌いた。体を左に開く動きは、武術の動作にも近似している。
そして鏡夜には、刺突の動作による慣性が生まれ、一瞬の隙が生じた。
その一瞬の間に、鬼人は右腕を変態させる。
猫の爪が多大に伸びた時は、このようになるのだろうか。それは、五本の刀を片手で持っている事と同一だった。
鏡夜の無防備な背中に、鬼人は五本の『爪』を斜め上から振り下ろす。
しかし鏡夜は、腰を限界までを捻り、後ろ回し蹴りで対応した。
鬼人の『爪』と、鏡夜の後ろ回し蹴りが、無音の音と同時に拮抗した。鏡夜の脚が切り裂かれないのは、隙が生まれた瞬間、右手に収束した体内魔力粒子(イナ)を一瞬で蹴り足へと移動させたからだ。
しかし、地に足が着いていない鏡夜と地に足がついている鬼人。踏み止まれる点で言えば、圧倒的に鬼人が有利だ。
咄嗟の後ろ回し蹴りによる防御を取った鏡夜は、自身から軋む脚を弾き、五メートルほど後退した。
「……今までとは、違うって訳か」
実感は、まさにその通りだった。この存在は、鬼人であって鬼人ではない。ならば、今まで行ってきた基本的な殺害手順はほぼ切り捨てるのが無難だろう。
鏡夜は、思考を別の殺害方法に切り替える。
神速の踏み込みで、再び鬼人との距離を縮め始めた。
「鏡夜くんは……大丈夫そうですね」
鏡夜の様子を横目で窺いながら、千雨は鬼人の『爪』を短刀で防ぐことに徹していた。
この鬼人の動きは、今まで殺してきたものとは違う。千雨も、その事実にはとうに気づいていた。
戦闘力の増加は確かに成功したようだ。その証拠に、未だに鏡夜は鬼人を殺せていない。
そして、それは彼女にも言える事だ。
久方ぶりの戦闘とはいえ、身体が鈍っているようには思えない。
(……確かに、『強い』の部類には入りますね)
しかし、千雨にとってはそれだけの認識でしかなかった。強いという基準などはどうでも良い。彼女は、後手に回っている時点で事実上、この鬼人よりも『弱い』という事に繋がると考えていた。
だが、それは彼女が戦闘力を制限しているだけなのだが。
「……さて。そろそろ、貴方を殺しましょうか」
その言葉と、鬼人の右腕が断ち切られたのは、ほぼ同時だった。
「意志力、八十五%」
呟いた千雨は、いつの間にか鬼人の五メートル後方に佇んでいた。
鬼人は一瞬動きを止めた。何をされたのか理解できていないように、断ち切られた右腕を見つめる。
「工藤一族、第一級家宝――
そんな言葉を発する千雨は、ゆっくりと振り返った。
「魔力で性質変化されたとはいえ、この
今度は左腕を『爪』に変態した鬼人は姿を消す。
一瞬で千雨の眼前に移動した鬼人の『爪』による攻撃は、しかし朱風によって容易く防がれた。
「一瞬の移動とはいえ、魔力の痕跡は残留するものです。それを辿れば、防ぐことなど造作もない」
軋みを上げる『爪』と朱風。しかし、千雨はまたしても一瞬で切り落とす。
ヒュオンと、疾風の如き速度で再び鬼人の後方へ移動する。
「朱風を扱う際、必要なモノは『陽性意志力』のみです。自身の殺すという意志が相手に勝っているのなら、朱風はその意志に応えてくれます」
スパァンと、最後に鬼人の両脚が一度に切断される。
「朱風に『意志』を伝達させる。貴方が『精神的弱質』から『
両腕、両脚を断ち切られ、首と胴体だけになって地面に倒れた鬼人に歩み寄る千雨。
「――コアは、そこですか」
左胸部から感じる魔力反応。
千雨は朱風を逆手に握り、その箇所に振り下ろす。
パキィンッ、と何かが砕け散る音がした。
それは紛れもなく、コアの他にない。
「鬼人ごときが、『魔術師』に敵うなどとは思わないことですね」
冷然と告げる千雨の言葉は、夜の空へと消え行く鬼人には届いていなかった。
「……なにやってるんだよ、キョウヤ……!」
カインは多少なりとも苛立ちを覚えながら舌を鳴らした。
今、鬼人と闘っている鏡夜は確かに有利な状況にある。
しかし、カインはその戦闘自体、納得がいかなかった。
鏡夜ならば、戦闘力が増加した鬼人だとしても十分もあれば殺害に成功している筈なのだ。カイン自身、あの鬼人が『強者』の部類に属しているという事は理解している。
しかし、どれだけ強かろうが、鏡夜が戦闘において十分も長引かせる訳がないとカインは知っているのだ。
鏡夜は、未だ自身の本質を解放してはいない。だが、それにしても、これは異常事態だった。
それは、鏡夜の戦闘理論にあった。
彼が戦闘において狙う箇所は、人間であれ、鬼人であれ必ず、人体機能停止箇所なのだ。
それが千堂鏡夜の基本術であり、極限まで鍛え上げた自己戦闘理論だった。
しかし今の鏡夜は、手数を増やし――さらに
それは、戦闘において決して悪い行為ではない。敵の戦闘理論を探るのは殺し合いにおいて基本中の基本だ。
しかし、カインはそれでも納得いかなかった。
鏡夜が鬼人を殺す事に十分も時間を費やすなどありえない。それが頭から離れない。
そして、それが意味するのはただ一つだった。
(もしかして……)
カインが辿り着いた答えは、当たらずとも遠からずの位置にあった。
鏡夜は、敵を殺す事に戸惑いを感じている。
その証拠に、鏡夜は鬼人を殺せていない。
こんなの、本当の彼ではない。
彼が――迷う訳がない。
「……話は後々聞くとして、参戦しようか」
軽いため息を漏らして、カインは、チェインに
「キョウヤッ!
端的に叫ぶ。だが、カインはそれだけの意思表示で伝わると確信していた。
そして、カインは自身の意志力をチェインに伝達していく。
(八〇、九五……一〇〇%調和完了。魔力性質、誤差〇%)
地についていたチェインが、蛇のように無気味な動きを表し始める。先端の鋭利な刃が宙に浮いた。
この瞬間、カインとチェインは『繋がった者』となった。
『繋がった者』。それは、星礼会が封殺者の為に造型した『
「――さて。後は、キョウヤの行動次第かな」
カインの叫ぶ声が届いた。それはおそらく、自分の行動に不可解な点があった事を見抜いての言葉だろう。
事実、鏡夜はその事を自覚していた。
(あの時と同じだ……!)
ギリッ、と奥歯を噛む。
そう。今の鏡夜は、あの廃ビルで鬼人を殺そうとした時と同じく、身体が思うように動いてくれない状態に陥っていた。
殺そうと思えば、すぐに殺せるのだ。
だが、その意志とは正反対に身体が否定している。
『敵を殺す』という自己の意志が、『敵を殺すな』という本能に抑圧されている感覚だった。
まるで、自分の身体を何かに支配されている様で恐怖心まで芽生えてくる。
(……
カインは、自分の行動の矛盾に気づいている。そして、それを判断してこその
確かにその戦闘理論ならば、おそらく、この鬼人を一撃で殺せる。文字通り、瞬間的な殺害へと昇華できるだろう。
しかし、自身が危険を伴う確率が高いのも事実だ。
(……だが、やるしかない)
鏡夜は、魔刀による猛撃を一端中止して、五メートル後退した。
そこからは簡単だ。一瞬で攻守が逆転し、今度は鏡夜が後手に回るようになった。
鬼人が変態させた両腕の『爪』。その連撃を紙一重で避けながら、鏡夜は戦術を悟られないよう、その場所への誘導を開始した。
横目でカインを一瞥する。
それは端的なアイコンタクトだった。カインも、すでに準備は完了しているのだろう。彼の武器――チェインから、強大な量の
その位置に誘い込んだ鏡夜は、鬼人の連撃を避けながら、背後からの『死』に全神経を集中させた。
そのタイミングは一瞬だ。
しかし逆に言えば、その一瞬を見極められなければ鏡夜は死ぬ。
そして、その瞬間は訪れた。
背後から襲い掛かる『死』を感じ取った瞬間、鏡夜は、瞬時に真上へと跳躍した。
ドシュッ!
そのわずか一拍後、神速で迫るチェインの先端の刃が、鬼人の胴体を勢い良く貫通した。
位置関係による奇襲。鏡夜の背後十メートルにいたカインを、鬼人は鏡夜の姿により視認できなかった。
その結果が、これだ。
あらかじめ、貫く箇所を特定しての奇襲は、完全にコアを破壊させた。
しかし、この連携攻撃は鏡夜とカインにしか行えないだろう。跳躍の瞬間が〇・五秒でも遅ければ、鏡夜の身体が貫かれてしまうのだから。
そして先の攻撃――チェインの刺殺速度は、鏡夜への遠慮など微塵もなかった。
それは、カインが「鏡夜なら避けられる」と確信していたからだ。それ以上に、「鏡夜ならば避けて当たり前」と判断していたからかもしれない。
後方でチェインを操っていたカインは、刺突だけでは物足りないように、顔を歪ませる。
「動」
呟きは、即座に実行へと移させた。
鬼人の胴体を貫いたチェインに
鬼人の身体に二重、三重と巻きついていく銀の鎖。そして先端の刃が、胸部に突き刺さった。
『繋がった者』の魔導器は、物理法則すら超越する。カインは精神硬質――『自己の意志力』を魔導器に伝達させ、チェインを『意志を持った性質体』に変化させていた。
「圧迫」
……獰猛にして凶悪。カインは、胴体を貫くだけでは物足りなかった。
彼は今、一つの苛立ちによって殺す事しか考えていないのだから。
締め付ける白銀の鎖が、徐々に鬼人の身体へと食い込んでいく。
最終的に。
「散れ」
鬼人の身体は、四つに切断された。
◆
(消滅したか……)
コアを破壊し、鬼人の肉体を司る魔力が失われた。
その存在の肉片が夜の闇に解けていく様を、鏡夜はじっと見つめていた。
「おつかれさま」
と。すでにチェインをアタッシュケースにしまったカインが、緩慢な足取りで鏡夜に近寄ってきた。
「どういうこと?」
咎める様な口調で、カインは言う。
それは言うまでもなく、先刻の戦闘についてだろう。
だが、鏡夜は顔を俯かせるだけで何も言えなかった。それもそうだ。自分でも解らない事を口に出せる筈がない。
「俺は――」
「迷ったの?」
鏡夜の言葉を、カインは心を読んだかの様に遮った。
「迷う訳が無いよね? 今まで、こんな事は一度もなかったもん。君が殺す事を躊躇う筈がない。それは、ボクが誰よりも知っている」
胸に手を当てて瞳を閉じるカインは、まるで自分に言い聞かせているようだった。
カインは、鏡夜をずっと見続けてきた。そして鏡夜には、そんな無駄な要素はいらない。
彼は、自分と同じく殺す事しかできないのだ。そう、今まで自分に言い聞かせてきたのだ。
「事が起こるには必ず原因がある。それは、君の在り方を破滅させる不要なモノだよ。自分の事なんだから、ボクに言われなくても解るでしょ?」
(…………)
カインの言う事は当たっている。鏡夜も、自ずとその答えに行き着いた。
だけど、そんなことが本当にありえるのだろうか……?
「おつかれッス」
と、朱風を握ったままの千雨が二人と合流した。
「鬼人は殺ったッスよ。そちらは?」
「こっちも終わったよ。自己暗示は封印したのかい?」
「はいッス。あれで結構疲れるものなんスよ。持続時間も、長くて二十分って所ッスかね」
はあ、と重いため息をつく彼女は、戦闘が終わっていかにも気怠そうな様子だった。
「ま、いいか。鏡夜とはまた後で話をしよう。鬼人と戦って、一つ判った事があるんだ」
「なんだ?」
「変だとは思ってたんだ。コアの魔力性質を感じ取った時も、何故、非日常とは無関係であるミナト・トオチカを襲ったのかもね。
真実を理解した結果、一つの結論に至ったよ。裁我の正体は――」
「オイオイ、何でテメェが日本にいるんだよ」
突然、そんな声がカインの言葉を遮った。
三人は、声の聞こえた方へと顔を向ける。
斜面の上には、月光を背に浴びた人型のシルエットがある。
そのシルエットに、鏡夜は見覚えがあった。
裁我と名乗った青年は、再び千堂鏡夜の前に姿を現した。