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 裁我の表情は、険しいものから歪んだものへと変化していった。
 あたかも、見たくもない人物を見てしまったかのように。
「――オレの半身を殺したか。あの二体には結構な体内魔力粒子(イナ)をつぎ込んだ筈だったんだがな。やっぱり鬼人を戦力にするのは不適合な判断だったか。それに、刺客が放たれるとは思っていたが、よりにもよってテメェかよ。カイン」
 緩慢とした足取りで斜面を下る裁我の黒眼が、カインを捉えた。
 対して、カインも嘲る様な笑みを刻みながら、目を細めて裁我を見ていた。
 あたかも、面白いものを見つけてしまったかのように。
「そうだね。星礼会は、君を不要な存在だと判断したみたいだよ。ボク達は、君を始末する手駒ってわけ。コアから感知した魔力性質が誰かさんと似てるなー、なんて思ってたけど、やっぱり君だったんだね」
「あの人を知ってるんスか? カインくん」
 千雨の問いに、カインは皮肉を含めた言葉で返答する。
「うん、知ってるよ。簡単に説明すると、元1階級(くらす)のナンバー10。本名は、カケル・トオチカ。ミナト・トオチカの義兄だよ。これだけ言えば解るよね、キョウヤ?」
 カインは、横目で鏡夜の様子を窺った。
「――」
 鏡夜は応えない。しかし、その視線は完全に裁我という人物を捉えていた。
 鏡夜が何も応えないとは――つまり、その説明に納得したのか、あるいは、その言葉の意味を理解したが故に応える必要がないと判断した、という二択に限られてくる。
 しかし、徐々に鏡夜の体内で活性化する体内魔力粒子(イナ)だけが応えていた。
 完全に、後者だと。
「……テメェ。そんな腐れた名前でオレを呼ぶなよ」
 湧き上がってくる感情を抑えるように、裁我は手で顔を覆った。
「過去は抹消した。記憶の断片が脳に残留していることすら許されねぇ。……そのつもりだった。なのに、テメェはオレを傷つけた。精神が、異常をきたしそうだ」
 震える声で発する裁我に、カインは深いため息をついた。
「元々狂ってたでしょ、君は。我を裁くと書いて『裁我』か。良いネーミングセンスだよ、カケル。そんなに自分を裁いて欲しいなら星礼会に出頭しなよ。身体は勿論、君の過去まで、全てを終わらせてくれるから」
 カインは、くくく、と嘲笑する。
 そして、裁我の過去を彼自身に根こそぎ思い出させようと、こんな事まで話し始めた。
「二年前は世話になったね。君が封殺者じゃなくなった事で、ボクは零階級(ゼロクラス)に成ることができたから、礼を言うべきなのかな? まったく。1階級止まりの封殺者が星礼会を潰すだなんて、現実主義者の君が言える台詞じゃ――」
「もういい。黙れ」
 鏡夜は小さく呟き、カインの皮肉を遮った。
 その呟きに宿っている意志は尋常なものではなかった。加えて、彼の身体に宿っている体内魔力粒子(イナ)さえ、既に尋常な量ではない。
「お前等がどういう関係なんて知ったことじゃない。あいつの相手は俺がする」
 鏡夜の言葉に、カインは薄く笑った。
「へえ。できるの? さっきは迷ったくせに」
 皮肉に鏡夜は応えない。既に彼の言葉など耳には届いていなかった。
 ――彼女を傷つけたのは、この男だ。
 それが、それだけの真実が、今の鏡夜を突き動かしていた。迷いなど関係ない。
 今の鏡夜に在るのは、衝動的な殺人意志だけなのだから。
 裁我は、鏡夜の視線を正面から受け止めると同時に、悲痛の表情を刻む。
「――ああ、そうか。お前まで、オレを敵扱いするのか。お前だけは、オレを理解してくれると思っていたのに……! 何で、仲間になる筈のお前がオレに殺意を向けるんだよ! お前も星礼会の連中を怨んでいるんだろ? だったら、オレ達は同類じゃねえか! 何で争わなきゃいけないんだよッ!」
 裁我が咆える。それでも、鏡夜の殺気は継続されていた。
 信じられない。理解ができない。裁我は単純にそう思い、小刻みに唇を震わせる。
 鏡夜が、敵になる。
 そう思うと、徐々に呼吸が荒くなってくる。過呼吸にも似たそれは、苦しみからきているのか、それとも絶望からか。
「……それ、が――お前の、『答え』か、鏡夜……!」
 奥歯を噛み砕きそうな程に軋ませ、裁我は唸る。
 鏡夜は答えない。ただ、その殺気を裁我に向けていた。
 だからこそ、それを認識したからこそ。裁我の荒い呼吸は治まった。
 そして、裁我はこう口にした。
「千堂鏡夜を敵と認識した。――殺してやるよッ!」
 二人の封殺者は、互いに疾走を始めた。
 
 鏡夜の疾走は、もはや異常にまで達していた。
 空気抵抗さえ無に等しい。そう思わせるほどに華麗な走りだった。
 対して、裁我の疾走は正逆の印象を思わせた。
 蛇を連想させる邪悪な疾走。獲物を狩る動きは、獣に近い。
 二十メートルの距離を、二人はわずか一秒足らずで一メートルほどに詰めた。
 先に動いたのは鏡夜だ。
 右手に体内魔力粒子(イナ)を収束させ、懐に入った瞬間、静から動へと移行させる。一種の刃と化した魔刀が、裁我の胸部に襲い掛かる。
「はッ!」
 迫り来る刺突に対し、裁我は鼻で笑って、右腕で簡単に弾き返した。裁我の腕が骨折しなかったということは、体内魔力粒子(イナ)の量は同一か、それ以上だという事を示していた。
 鏡夜は右腕を弾かれた反動でベクトルを狂わせられる。身体が左に反れ、裁我に背中を見せる状態となった。
 その大きな隙を狙い、裁我は右手の魔刀で背中を斬りつけようとする。しかし鏡夜は、ベクトルを狂わされようが関係なかった。反れた身体から強引に体を反転。より勢いをつけた左の手刀で首の頚動脈を狙った。
「確率、正の解」
 裁我は、そんな言葉を呟いた。迫り来る魔刀を、背を少し仰け反らしただけで、紙一重に避ける。同時に、鏡夜は次の攻撃まで一秒の時間を有することとなった。
 その一秒で、裁我は十メートルの距離をとった。
 鏡夜も追撃という選択は取らず、一端、攻撃を中止する。
(……読まれている)
 それは確信に近かった。最初の魔刀を弾いた時、イナの量が全く同じだったこと。裏をついた魔刀すら難なく避けたこと。
 おそらく裁我は、その攻撃さえも読んでいたのだろう。
 後退した裁我は、くく、と噛み砕いた笑いを溢す。
「『個別戦闘論理』っていってな。相手の戦闘データを完全に『理解』し、行動、動作の一つ一つを基に、対応策を瞬時に判断するって論理(ロジック)だ。言っただろ? 千堂鏡夜のデータは全て把握しているってな。お前は零階級(ゼロクラス)、オレは元1階級(クラス)。戦闘力はお前の方が圧倒的に上だ。だがな、殺し合いにおいて相手の先の先、百手先まで読めれば、そんなことは無関係だ。確率論で言えば、お前が『本質』を解放しない限り、オレが不利になることは決してありえない。――だからさぁ。出せよ。探り合いはいらねえだろ? あの魔術師を殺した時みたいに、オレにも見せてくれよ」
 裁我の挑発によって、鏡夜の脳裏に彼女の笑顔が浮かんだ。
 故に、彼女を思い出させた原因を必ず殺すため、鏡夜はそれを開放した。 

「SPEED UP」

 その言葉と同時に、鏡夜は裁我の眼前へと一瞬で姿を現した。
 そして瞬間的な刺突。移動から動作まで一秒も掛かっていない。
「論理変換。タイプ2」
 裁我も同じく、薄い笑みを刻みながら呟いた。
 鏡夜の一瞬での移動と刺突を、裁我は真後ろへと低い跳躍を行うことで避けた。
 しかし鏡夜は、後退している最中の裁我に、一瞬で追いついた。
 鏡夜は中空にいるが、裁我と同じく跳躍を行った訳ではない。今の彼にとって、追撃など一瞬で可能になった。
 地に着くほどの低い跳躍をする裁我と、その真上に覆いかぶさる様にいる鏡夜。
 両者が同時に放った刺突の狙いは、どちらも首の頚動脈だ。
 刺突の速度は全く同一だった。しかし、二人はそれを難無く避ける。
 首の横を通り過ぎた両の腕。しかし鏡夜は、その動作から首の切断を試みた。
「甘めぇッ!」
 切断が実行される寸前、裁我は未だ地に着いていない両脚で、鏡夜の丹田目掛けて両蹴りを行う。
 人体急所の一つである丹田は、体内魔力粒子(イナ)の流れが循環している箇所だ。故に、そこにダメージを与えると、一時的に使用を制限することが可能になる。
「GUARD UP」
 鏡夜の呟いたその言葉は、即座に実現された。身体に蓄積されてある体内魔力粒子(イナ)が意思を持って丹田の一箇所に収束し、練成され、丹田の硬度を限界まで上昇させた。
 裁我の蹴りは、鏡夜にとっては微々たるものだった。しかし、攻撃による効果はなくとも、その反動だけはどうしようもない。結果、鏡夜は三メートルほど、宙に浮かされる。
 その時には、既に裁我は着地していた。中空で自由の利かない鏡夜を視界に捉え、追撃を試みる。
 体内魔力粒子(イナ)を両脚に収束しての、脚力上昇。故に、鏡夜の眼前に現れたのは一瞬だった。
 斜め下から振り上げる手刀を、鏡夜は右腕で防ぐ。最大限に束ねた両の体内魔力粒子(イナ)が拮抗し、同時のタイミングで二人は腕を弾き距離を取る。
「SPEED UP!」
「タイプ3ッ!」
 だが、それもすぐに攻撃へと転じる。両者に油断など微塵もない。
 それは、互いを殺すべき対象と判断したが故に。 

「カインくん。鏡夜くんの動き、どういうことッスか?」
 小首を傾げる千雨は、鏡夜の行動に納得がいっていないようだった。
「鏡夜くんの一瞬での移動。あれ、脚に魔力を収束していなかったッスよね? 追撃をかける際も、魔力が移動中に残留することがなかったッス。鏡夜くん、何をしたんスか?」
 横目で窺う千雨に、カインは「あれが、キョウヤの本質だよ」と、戦闘から目を離さずに言った。
「あれね、キョウヤが元観察者の人に教えてもらったんだって。簡単に言うと『詠唱』の部類に属するんだけど、キョウヤの詠唱は別格なんだ。普通、詠唱は長文であればあるほど、実際に自己暗示の効果を増幅していくでしょ? 逆に、短文は長文以上の効果は獲得できない。古今東西、あらゆる詠唱の類において、それが絶対の法則となってる。だけど、キョウヤの詠唱は、詠唱の基本を全て『無視』してるんだ。
 あの詠唱は、種類は違えど、絶対に一言で詠じ終える。そして、その『言葉の意味』を実現させるんだ。キョウヤも、その言葉の意味を理解する過程において三年はかかったらしいよ」
 言語理解という行為は、その言葉の意味を認識することから始まる。その言葉の意味の方向性を違わずに、脳に『正』しく記録させなければならない。
『正』しく記録させた言語は、『正』しく再生させ、『正』しく実行に移さなければならない。
 しかしながら、純粋かつ、言葉の本質を理解するという行為は、生半可な思考回路では身に付けることは不可能である。そのため、詠唱を扱う類の術者は、知識、知性が常人よりも優れているとされていた。
「詠唱を唱える時間は、わずか一秒。全てが一瞬で言い終えることから、星礼会はキョウヤに『刹那』の称号を与えたんだ。でも――」
 と、カインは次の言葉を紡がなかった。
 詠唱を実行した鏡夜に、裁我は互角の殺し合いをしているからだ。
 カインの知っている裁我は、その驚異的な頭脳を駆使して戦う。彼が『個別戦闘論理』を使用するのはその為だ。だが、カインが気にかけているのは、その部分ではなかった。
 裁我は、確かに頭脳戦を利用する。それは理解している。しかし、先が読めていようとも、頭で理解していようとも、詠唱を駆使して戦う鏡夜の身体能力に追いつける筈が無いのだ。なぜなら、詠唱を発動した鏡夜は『魔術師』の域にまで達しているからだ。
 それが、たかが1階級(クラス)の封殺者に互角の闘いをされてしまうこと自体、あってはならないのだから。だとすると、鏡夜は――
「カインくん、気づいているッスか?」
 千雨も、カインの覚えた矛盾に気づいていた。
 カインは、強く握った拳を震えさせている。……ブチッと、爪が皮膚に食い込む音が聞こえた。
「うん。こうなった以上は仕方ないね。そろそろいくよ」
 内に激しい怒りを宿しながらも、カインは冷静に状況を判断した。
「了解ッス」

「オイオイ、オレを殺すんじゃなかったのか? 迷ってんじゃねえよッ!」
 鏡夜の驚異的な移動速度、瞬間的な攻撃を完全に見切りながら、裁我は笑みを刻みながら回避を続行していた。
 確かに、後手に回っているのは裁我だった。しかし、彼には強い余裕が窺えた。
(くそッ!)
 おかしい。こんなことはありえない。鏡夜はそう単純にそう思った。
 本質を解放したというのに、裁我を殺せない。殺害の瞬間は幾度となくあったというのに殺せない。
 身体が否定しているのだ。『敵を切り裂くな』、『敵の体を穿つな』、そして――『敵を殺すな』と。
 訳が解らない。どうして殺してはいけないのか? どうして自分の邪魔をするのか?
 その一瞬の自問が、身体の動作を停止させる。
 しかし裁我にとって、その一瞬が鏡夜を殺す決定的な隙だった。
「迷うなつってんだろうがッ!」
 鏡夜の刺突を余裕で避けた裁我はそのまま懐に潜り込む。胸部を狙い、鏡夜にも劣らない魔刀での刺突を実行する。だが――
「――ッ!?」
 手刀が胸部を貫く寸前、コンマ一秒の刹那に白銀の鎖が牙を向いた。
 二人の間を割ったのはカインの魔導器、チェインだった。
 裁我は攻撃を中断し、咄嗟に後退する。
「カイン、テメェ……!」
 裁我は奥歯を軋ませながら、殺害の機会を妨害したカインを睨み付ける。
「キョウヤも悪いと思うけど、死んでもらったら困るからね。参戦するよ」
「ハッ! テメェのデータは完全に熟知しているって過去に何度言ったと思ってんだ? テメェは一度でもオレに勝てた試しがねえだろうがッ!」
「まあ、そうだね。――じゃあ、彼女のデータも熟知しているのかい?」
「なん――ッ!?」
 と、裁我は口を開こうとした時、気配もなく背後に回り込んでいた千雨の存在に気づいた。
 彼女の握っている短刀が、裁我の右腕を目掛けて虚空を疾る。
(チイッ!)
 咄嗟の判断。右腕に体内魔力粒子(イナ)を収束させ、一瞬で魔刀へと練成させる。
「意志力、九〇%」
 しかし、いくら魔力を束ねたとしても、彼女の持つ短刀の前では無力。
 裁我の一瞬による魔力を収束した意志力。彼女が短刀に宿し続けてきた殺人意志。一瞬での意志力では、収束できる魔力の量などたかがしれていた。
 ズパァンッ、という音と同時に、裁我の右腕が宙に舞う。
「――――ッ!!」
 激痛に、裁我は無音の叫びを上げる。それに構わず、千雨は背後から胴体を突き刺そうとするが――
(――論理変換、体内魔力粒子(イナ)を両脚に完全収束――ッ!)
 死の刃が迫り来る瞬間、裁我は瞬時に離脱思考を行動へと移す。
 ――刹那、彼は姿を消した。

 河川敷公園から離脱した裁我は、跳躍を繰り返す。
(魔術師か……!)
 それは、直感と同時に確信だった。腕を断ち切られた時に感じたあの殺気。あれは封殺者のものではない。
 何度も体験してきた死の塊。敵対したら最後、必ず死が訪れるという絶対的な上位者。
 それが、鏡夜の仲間に加わっていたなど完全な誤算だった。
「……マズイな」
 魔術師が派遣人員に加わっているとなると、優位な状況に立つことは絶望的だ。ならば、一から対策を練り直さなければならない。
「腕は……使い物にならねぇか」 
 切り落とされた肘から下を見やり、そう判断する裁我。
 彼は襲い来る激痛を無視して、嬉々とした表情を浮かべた。
(――だが、まだだ)
 そう。鏡夜が殺せなくなったという事実を知った裁我は、先刻のカイン・エレイスの言葉で、『ある可能性』が思い浮かんだのだ。
 確率としては限りなく低いが、データを収集すれば、もしかしたら――
「さて、と。それに賭けてみるか」
 裁我は限りなく低いその可能性を、脳裏で組み立て始めた。
 
 鏡夜は、ただ立ち尽くしていた。
 詠唱を実行したことで、身体的、精神的な疲労は限界まで迫っていた。
 しかし今の鏡夜は、そんな理由で立ち尽くしてるわけではなかった。
 ……自分の不甲斐なさのせいで、裁我を離脱させてしまった。それを恥じるのが最優先事項だ。
 殺すつもりだったのだ。カインの言葉を聞いた時点で、鏡夜は彼を殺すと、明確な決意をした筈だった。
 なのに――なんて、無様で滑稽なのだろう。
 訳の解らない身体の拒否反応は、徐々に千堂鏡夜の持つ存在理由を侵害していく。
「何、で――」
 迷ったんだ、と言い切る前に、カインに鳩尾を殴られた。
「こんな事をしてる場合じゃないけど、これくらいやらないと気が済まないからね」
 鏡夜は咳き込んだ。小柄な少年とはいえ、カインは封殺者なのだ。拳一発で一般人を殺せるのだから、これでも手加減している方なのだろう。
 顔を俯かせたまま、鏡夜はカインに視線を向けた。険悪とも取れる表情をした彼は、その瞳に憎悪のような色を宿していた。
 しかし、それもすぐに落胆の色へと変えた。
「……仕留められたよね? キョウヤなら」
 それは、疑問をぶつける言動ではない。鏡夜ならそれを実行できると確信していたが故の素朴な質問。
「君が中途半端な封殺者だって事は、ボクでも理解してた。でも、それは精神面だけだと思ってたんだ。 ――まさか、殺し合いにおいても中途半端になっていたなんて、失望したよ」
 ふう、とカインは重いため息を漏らす。
 カインの言葉は、全て的確だった。
 精神面が極められていない鏡夜は、自分が中途半端だと自覚していた。
(それでも……)
 そう。それでも、鏡夜は殺してきたのだ。何百という数の鬼人を。過去の任務でも躊躇せずに殺してきたのだ。
 ……鏡夜に異変が起こったのは、昨日の廃ビルでの一件からだ。彼自身、あんな体験は初めてだった。
(殺す事に、疑問を抱いてしまったのか……? じゃあ、何で疑問を抱いた?)
 思考を巡らせても、答えが出てこない。
 解らない。ワカラナイ。

 ――俺ハ、壊レテシマッタノダロウカ――

「カイン」
 鏡夜は、顔も向けずカインに声を掛けた。
 カインは「なに?」と聞き返す。
「……俺は、変わってしまったのか……?」
 そんな事は、自分自身が一番良く解っている筈なのに。
 それを問いかけた鏡夜は、自分に確固たる自信がなかったのだ。
 変わってしまったという事実を、鏡夜は受け入れたくなかった。当たり前だ。受け入れてしまったら、おそらく自分は絶望してしまう。
 だから、カインには否定してほしかった。
 変わってないよ、といつも通りの笑顔で言ってほしかった。

「キョウヤは変わったよ」

 ……はっきりと、その言葉は鏡夜の耳に届いた。
 カインは迷いもせず、そう言い切った。
 それは、決定的な一言だった。鏡夜が鏡夜でいられなくなる為の、呪いのような言葉だった。
「……ボク、先にマンションに戻ってるから」
 そう言い残したカインは、鏡夜に背を向けて高く跳躍した。
 まるで、千堂鏡夜という封殺者から興味を失ってしまったかのように。
 徐々に遠ざかっていくカインの後姿を、鏡夜はただ黙って見つめることしかできなかった。
「……あー、鏡夜くん」
 振り返ると、千雨は髪を掻き毟りながら、鏡夜を見ていた。
「……結果的に逃がした形で終わったッスけど、裁我さんの戦闘力は半減したと言っても過言じゃないッス」
 千雨は、ただ同情を感じさせる眼差しで、鏡夜を見ていた。
「何が鏡夜くんの行動を抑制させているかなんて、私には解らないッス。出会ってから一日で人を理解するなんて不可能ッスからね。でも――」

 ゆっくりと、千雨の双眸が開かれていく。

 それとほぼ同時に、彼女は鏡夜の首元に手刀を突きつけていた。
「この瞬間ですね、貴方が躊躇いを覚えたのは。ですが、迷いが皆無な私には、そのようなモノは感じられません。
 貴方の矛盾思考には、何かしらの原因が存在する筈です。まずは、それを探し求めることから始めましょう。『原因』を見出した時、貴方はおのずと自分の『答え』に辿り着くことができると私は信じています」
 千雨は、いつもの怠けた口調ではなく、『魔術師』として、毅然とした存在感を以ってそう告げた。
 突きつけた手刀が、ゆっくりと下ろされる。
 再び半眼に戻った彼女は、
「まあ、鏡夜くん次第ッスけどね」
 と、鏡夜に微笑みかけた。
 ……その笑顔に、鏡夜は少し癒された気がして、
「……努力する」
 ぶっきらぼうに、顔を背けて返した。

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