/行間三

 少年とレイが邂逅を果たし、三年が経った。
 そして、それは突然の出来事だった。
 レイが少年の観察者を辞め、本国であるイギリスに帰国することになったのだ。
 星礼会本部から地位の昇格を与えられ、最高幹部に抜擢されたという事だった。
 しかし、そんな事情で少年は納得できなかった。
 牢の中で体育座りをしていた少年は、ただ思った。
(僕は、レイさんを拠り所にしていたんだ……)
 三年の年月が経って、やっと少年はその事を自覚した。
(レイさんの笑顔がなくちゃ、僕は生きていくことすらできないんだ……)
 レイ・ストライトが帰国する前日。独りっきりになってしまった牢の中で、少年は初めて自分以外の人の為に泣いていた。

 そして、翌日。 
「お別れですね、キョウヤ」
 施設の内部から外界へと続くただ一つの階段を前にして、レイは「お別れ」と告げた。
(――お別れ)
 別れてしまう。
 離れていく。
 僕から遠くへ。
 すごく遠い国に。
 もう会えない。


 二度と、会えない。


「行かないで……」
 ボロボロと涙を流しながら、少年はレイの華奢な腕を掴んだ。
 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ――絶対ニ、嫌ダ。
「僕にはレイさんが必要なんだ。僕が一人前の封殺者になるまで、ずっと僕を見ていてほしいんだ……!」
 聞き分けのない子供の我侭だと解っていながらも、少年はレイの腕を離さなかった。
 しかし、そうまでして、少年はレイと共に在りたかったのだ。
 ……ふう、と軽い息を吐いたレイは、「では、こうしましょう」と、しゃがみ込んで少年に一つの提案を出した。
「最後の戦闘訓練です。貴方が私に勝てたのなら、私は貴方の観察者を継続しましょう。それで良いですか?」
 小首を傾けながら笑顔で問うレイ。少年は力いっぱい頷いていた。

 ◆ 

 そして、闘技場で最後の訓練を開始から十分が経った。
「…………え?」
 ありえない事が、あってはならない事が起きた。
「『俺』が、レイさんに勝った……?」
 いや、正確に言うならば、これは勝利ではない。

 何故なら、少年はレイ・ストライトを殺害してしまったのだから。

 少年は、この三年の間にレイから伝授された詠唱を実行して、ただがむしゃらに戦っていただけだった。
 レイの胸部から大量の体液が溢れ出している。
 レイの優しかった笑みが、完全に破壊されている。
 少年の右手は、レイの体液で赤色へと色変わりしている。
(『俺』は、レイさんを殺した)
 その事実が、瞬時に理解してしまい、恐怖を覚えた。
 それは、どうしようもない事実で、
 理解してはいけない、どうしようもない真実だった。
「素晴らしい」
 周囲で傍観していた施設の研究者達は、少年に拍手を送っていた。
「わずか十歳で、星礼会の最高幹部に昇格した魔術師を殺せるとは。封殺者にするにはもったいない逸材だ。私達が星礼会本部に、君を魔術師に認定するよう掛け合おう」
 施設の所長は、この出来事を前向きな気持ちで考えていた。
 ――レイさんが死んだのに、俺を誉めている。
 ――レイさんが死んだのに、それを過去の事柄にしようとしている。
 ――レイさんが死んだのに。

 こいつらは、嬉しそうに笑っていた。

「うるさい」
 少年の殺意を込めた一言で、研究者達は拍手を止め、口を噤んだ。
「レイさんは本気を出していなかった。レイさんは俺に手加減してくれていたんだ。そうだ。あの時、レイさんはわざと俺の攻撃を受けたんだ。そうでなければ、俺がレイさんに勝てる訳がない。レイさんを殺せる訳がない。……レイさんに何を言った? 俺に殺されろとでも頼んだのか?」
 少年の詰問に、所長は一瞬だけ顔を顰めて、けれどまた薄ら笑いを浮かべた。
「そんな訳がないだろう。彼女を殺せたのは、君のじつりょ――」
「黙れ」
 少年は、一瞬でその汚い笑みを破壊した。顔面に手刀が貫通し、脳髄の感触が腕に絡みつく。
『ひっ……!』
 研究者達の表情が瞬時に強張る。
 目の前にいる死を体現させた存在の理性は、既にこの時、『あるモノ』によって支配されていた。
 殺す。殺す、殺す、殺ス、殺ス。――全テ殺ス。
 少年は、研究者全員を『敵』と定めた。故に――
「お前ら全員、殺害してやる」

 気がつくと。
 少年の周りには、人間の死体が無様に転がっていた。
 首、腕、脚、胴体。人体の様々な箇所が床に散乱していて、元々白色だった闘技場の地面は、赤みを帯びた体液でその色彩を変えていった。
 そんな死体の中に独り佇む少年は、先刻から一つの違和感を覚えていた。
 それは、少年の内界に何かしらの変化を及ぼしたような気がして――

「認識したか」

 途端、そんな重く低い声が、少年の鼓膜に響いた。
 声というよりも、一種の音に近いそれは、圧倒的な存在感を曝け出している。
 それは、少年がレイ・ストライトと初めて戦った時と同じ感覚だった。
 少年は、声のした方へと首を回す。
 その男は、いつの間にか視界に入る位置に佇んでいた。
「誰だ」
 少年の口調は、普段のそれと比較できない程に冷たく、感情が宿っていなかった。
 ……その、『千堂鏡夜』という少年が別の人間へと乖離してしまったような感覚も、けれどすぐに、『千堂鏡夜』として受け入れた。
「天美戒。お前の元観察者と同じ存在だ」
 顔とはいえないほどに何も感じられないその貌で、男は自身の名を告げた。
「――魔術師が、俺に何のようだ」
「レイ・ストライトの殺害に成功したのは、お前が『心界(しんかい)』を認識したからに過ぎない。そうでなければ、お前が彼女の殺害に成功する可能性は0%に等しかったのだからな」
 少年の問いに答えず、魔術師は無感情の口調で淡々と語っていく。
「存在理由を自覚した先に在る領域――心界を、お前は認識した。研究所のデータを拝見したが、お前の心界は『殺害』のようだな」
 魔術師は、その貌に無骨な笑みを刻んだ。
「だが、彼女が施した術は消滅していないな。あの術は、施した本人でないと解除は不可能だ。そして機会も訪れてはいない。故に、お前はその機会に遭遇するまでは殺しを継続できるということだ」
「……俺の存在理由は、殺すことなのか?」
「その通りだ。先刻、お前はそれを自覚した筈だ。心界を認識した者は、心界に従って生きる事しかできはしない」
 心界を認識した者は、それに従うことしかできない。魔術師は、確かにそう口にした。
「星礼会最高幹部である私の権限において、今日、この瞬間から『千堂鏡夜』という人間を封殺者に認定する。本部には、私が話をつけておこう。鬼人を殺す為だけに生きて、そして死んで逝け。それがお前の存在理由であり、逃れられない運命だ」
 そう言って、魔術師は去っていった。
 独り残された少年は、赤で変色した地面の上に佇み続けた。
「殺すことが、俺の存在理由……」
 ――ああ、本当はとっくに気づいていたんだ。俺には、殺すことしかできないという決定的な事実に。
 事実は、受け入れるしかない。
 真実は、覆ることのない運命。
「なら――」
 今この瞬間から、少年はそうで在るよう生きる事を誓った。

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