その日は、雨が降っていた。
豪雨に等しい激しさで降り続く雨音が、少女の耳に響く。
叩きつけられる雨滴が、容赦なく傷に染み込んで激痛に苛まれた。
少女は、自宅の前で倒れていた。
横たわった状態から顔を上向けると、包丁を手にした少年がいた。
少年は、酷く悲しそうな表情で少女を見下ろしていた。
その顔も、徐々に憎しみを含んだ、歪んだモノへと変わっていく。
少女が倒れているのは、少年が持っている包丁で、背中を深く切られたからだった。
それは、誰よりも信頼していて、誰もよりも大好きだった――義兄の手によるものだった。
「お前が悪いんだ……ッ!」
唸るように吐き出す少年は、今にも泣き出しそうな顔で少女を睨みつける。
「お前がッ! お前がいつも幸せそうにしているから! お前がいつも笑っているからッ! オレの苦しみも悲しみも理解してないくせに、優しく接してくるから、こんな事になるんだ!」
少年の悲痛の叫びは、少女にはよく理解できなかった。
目前に佇む少年は、本当に自分の義兄なのだろうか。少女の心に、そんな疑心まで芽生え始める。
「……やっぱり、オレに家族なんてモノは不要だったんだ。施設を追い出された頃からずっと考えていた。オレは、お前みたいになれないってことにっ……! どれだけ努力しても、どれだけ普通でいようとしてもッ! オレがそちら側に行くなんて不可能だったんだ!」
(上手く、聞き取れ……ない……)
徐々に、少女の意識は朦朧としていった。耳に取れた言葉は『普通』、『そちら側』、くらいだった。
――義兄さんは、怒ってる。凄く、怒ってる。
それは、おそらく自分のせいなんだろう、と少女は確信した。
知らない内に、自分は義兄を傷つけた。その証拠に、自分は背中を切られた。
「……オレは、お前みたいに、なれ、ない……ッ」
少女は目を虚ろとしていた。その目に、最後に映ったのは、酷く呼吸を乱している義兄の姿だった。
カランッ、と包丁がアスファルトに落ちた音がした。
お前みたいに、なれない。
それが、決別の言葉だった。
「だか、ら。そうさせた、元凶を潰、す……! 何年掛かったと、しても、必ず星礼会を……破滅させるッ!」
もう、少女の耳には何も聞こえていなかった。
そして、少年は少女の前から立ち去った。
……少女は、虚ろな瞳から涙を流した。
それは、立ち去った義兄と二度と会えないような気がして、不安だったから。
しかし、その気持ちとは裏腹に、もう会えない方が良いと思う自分もいた。
――こういうのを、矛盾っていうのかな。
そんな事を思いながら、少女は意識を失った。
「――っ!」
遠近湊は、咄嗟にベッドから身を起こした。
「はあ、はあっ……はぁ」
荒い呼吸を落ち着かせる。十二月だというのに、体中は汗だくになり、パジャマはぐっしょりと濡れていた。
部屋の灯りは消えている。消灯時間が過ぎたためか、何の音も聞こえず、静としていた。
「……今の、夢」
――そうだ。あの夢は一体なんだったのだろう? まるで、自分自身が経験したかのような夢だった。
――それに、あの少年は誰だったのだろう? まるで、他人とは思えないような言動をしていた。
湊は、あの少年が身近にいた人のような気がしてならなかった。……夢を、夢で片付けられなかった。
そこで、湊はある事に気づく。
「……傷」
腕をパジャマの中に潜り込ませ、背中の皮膚を触る。
湊は、明らかに普通の皮膚とは異なる感触の部分を発見した。
……何かを、思い出しそうな気がしてきた。
『雨の日』。
『自宅の前』、『傷跡』。
『矛盾』、『記憶』、『兄妹』。
『孤独』――――『千堂鏡夜』。
「あ――」
あっけなく。それは呆れるほどあっけなく、湊の記憶に蘇った。
(そうだ。私は、翔義兄さんと再会した時、不思議な力でお腹を深く切られたんだ)
そして湊は、医者の話していた、『心因性による健忘症』の意味を再度理解した。
心因性による健忘症。過度な心的外傷を負った時や、トラウマとなった出来事を思い出してしまった事が原因となり生じる記憶障害である。
そして、それを理解したが故に、湊の頬から涙が溢れ出した。
「……千堂、くん」
想うと、そうなってしまうのは自然なことだった。
湊は、鏡夜の問いに「知らない」などと言ってしまった。
決別したと思っていた鏡夜が病室に訪れてくれたのに、湊は『忘れてしまっていた』。
「あぁ……」
後悔するには、事は既に遅かった。
自分の一言で、全てが終わった。
これでは、彼を拒絶した事と一緒だ。
「……ひぅ……ひぃん」
子供のように、湊はみっともなく泣いた。
だけど、今は泣きたかった。
泣いてどうなるものでもないけれど、今は泣きたかったのだ。
何故なら、湊が抱いていた夢は、湊自身で壊してしまったのだから。
鏡夜は朝方の六時半に目を覚ました。
しかし、昨日と同じく眠気が充分に残っていた。というのも寝具が変わったからだろう。押し入れから引っ張り出した薄地の毛布を居間に敷いた事が災いしたのか、床の冷たさが伝わってきて、昨日は就寝するのに二時間も掛かってしまった。
鏡夜の隣では、カインが毛布に包まって、小さな寝息を立てて気持ち良さそうに寝ていた。カインの寝顔は純粋無垢な子供を連想させた。この少年は鏡夜とは逆に、布団に潜り込んでから十分で夢の世界に入ってしまった。
「う?ん、いけー、チェイン?。あいつらを殺しちゃえ?」
鏡夜は即座に思った事を撤回する。この少年が無垢であるなどありえない。
一方、千雨は薄い布で居間を二つに分けた向こう側にあるベッドで寝ている。就寝する直前に、「一緒に寝ないッスか?」と鏡夜は誘われたが、断固として拒否を示した。
鏡夜は二人を起こさないよう、静かに立ち上がり、台所の電球を点した。
ポットで湯を沸かし、インスタントコーヒーを三人分用意する。
……就寝するのに二時間も掛かった本当の理由は、延々と考え事をしていたからだ。
(本当に、俺はどうしてしまったんだ……)
それだけを考えていたかった。
何故なら、殺す事ができなくなってしまった千堂鏡夜は、千堂鏡夜ではないからだ。
何が原因なのか、鏡夜は分からない。しかし逆に考えるならば、『原因が在ったから、殺せなくなってしまった』のだ。
それがどんな原因であっても、千堂鏡夜の存在を邪魔する要因でしかない。
「遠近、湊……」
ポツリと、鏡夜の口からそんな名前が漏れた。
しかし、たった一週間、一緒に過ごしただけだ。それだけで、こんな風になってしまうものなのだろうか?
十七年間生きてきた鏡夜の在り方が、たった一週間で、こうも劇的に変化するなどありえるのだろうか?
(――だとしたら、それほど)
彼女を、特別な存在だと思ってしまったのだろうか。
そちら側に行けるかもしれないと、思い込んでしまったのだろうか。
だから、殺す事に躊躇いを覚えてしまった。
殺してしまったら、そちら側に行けなくなってしまうから。
……しかし、この考えが正解だとしても、そこには矛盾が生じてしまう。
鏡夜は、昔聞いた、天美戒の言葉を思い出す。
『心界を認識した者は、心界に従って生きる事しかできはしない』
七年前。『殺害』という心界を認識した鏡夜は、同じく心界に従って生きてきた。鬼人を殺し、星礼会と敵対する連中を全て殺して殺して、殺し続けてきた。
苦悩した時期があったのも確かだ。心界に従って生きるという運命が無意味に思えて、そうである事をやめようと考えた事も幾度となくあった。
だが、心界を認識した人間に、そんな愚考が通用する筈がなかった。
「鏡夜くん?」
と、不意に布で仕切られた向こう側から、千雨の声が届いた。
布の奥からぴょこんと顔を出した千雨は、起きたばかりでも半眼無表情だった。
「悪い。起こしたか」
「どうしたんスか、こんな朝早くから?」
「……ああ、少し早く目が覚めたんだ」
言うと、千雨は鏡夜の淹れたコーヒーに視線を移した。
「――飲むか?」
「はい、頂くッス」
「思った通りッスね。やっぱり、鏡夜くんは心界を認識していたんスか」
千雨と何気ない会話をしている内に、鏡夜は内緒にしていたその事実を口にしていた。
おそらく千雨は、鏡夜が心界を認識している事に気づいていたのだろう。その上手い話術に乗せられて、いつの間にか話したくもない過去まで喋っていた。
「……どこで気づいたんだ?」
「そんなの、鏡夜くんの言動と行動の矛盾を組み合わせれば簡単ッスよ。私の考察から導き出した結論で言うと、鏡夜くんの心界は『殺すこと』に関連しているッスね」
鏡夜は素直に、その洞察力と観察眼に感服するしかなかった。
「千雨は、心界についてどれだけ知っているんだ?」
「え? ……鏡夜くん、心界を認識しているのに、心界の事を知らないんスか?」
「俺は、その人間の存在理由としか聞いていない」
本当の事を言った鏡夜。しかし何故か、千雨は吹き出した。
「……今の言葉で、何かおかしなところがあったか?」
「い、いえ。そんな例を見るのは鏡夜くんが初めてだったッスから」
苦笑する千雨は手を振って、コーヒーカップに口をつける。
そして、いつのも気怠げな表情から、少し険しい顔つきへと変えた。
「心界っていうのは、人間の思考原理、行動原理、言動原理――この三つの概念の大元を司る、人間の心に在って無いものッスね。ここで言う『在って無い』というのは、認識している人間にはその概念を理解できて、認識していない人間にはその概念を理解することが不可能っていう正逆論理ッス。現代においては、先に鏡夜くんが言った存在理由で流通しているッスね」
思考原理、行動原理、言動原理――。これら全ては、その人間の『在り方』に深く関わっている。例えば、何かしら思考を巡らせるにしても、言葉を放つにしても、行動を行うにしても――それは、その人間が培ってきた人生経験の知識を生かして行うものである。故に、その人生経験の内容が、その人間の在り方に直結するのだ。
「鏡夜くんの心界は『殺すこと』。これで例えるとすれば……そうッスね、先程言っていた施設の候補者を全員殺した事によって、徐々に『自分は殺す事しかできない』と思い込んでいったと、私は考えるッス」
千雨の推測に、鏡夜は黙り込む。……あの頃、生きる為に候補者を殺し尽くしていた自分は確かに在ったのだ。
「さらに、心界の認識後は自身の一人称、及び口調が変化するッス。『あたし』が『私』になったり、『僕』から『俺』になったりと。これは、人間の成長における思考原理が完全に正しい方向へと決定されたからッスね」
「そうか……」
その言葉を聞いて、鏡夜は七年前を思い出した。確かに、レイ・ストライトとの最後の戦闘訓練を行う前までは、一人称が『僕』だった。子供さながらであった口調も、心界の認識後は冷たく、暗いものへと変化した事も覚えている。
「ついでに認識後のメリットとして、『「精神」、「肉体」、「脳」』に異常なまでの活性化が見られるッス。封殺者に例えると、魔術師の領域に踏み込む事も可能ッスね。そして、心界を認識した人間は、心界に従って生きることしかできなくなるというデメリットも背負う破目になるッス。心界を認識した人間が心界を否定すると、自身の存在理由に支障がきたして、在り方が曖昧になってしまうからッス。
……人間っていうのは、誰しもが自分自身の在り方を用いている生き物なんスよ。認識してしまった人間がそれをうやむやにすると、自分は何の為に生きているのか判らなくなる。自分が自分でないような錯覚に陥ってしまう。だから、認識した以上、私達は受け入れるしかないんスよ」
「私、達……?」
「はいッス。ぶっちゃけると、私も『考察』という心界を認識してるんスよ。幼い頃から、物事の真理に執着し過ぎたせいか、何事に関しても真実を知りたくなる性質になったんスよね」
あはは、と力なく笑う千雨。鏡夜はこの時、彼女は認識したことを後悔しているように思えた。
そうして二人で話を続けていると、淹れたコーヒーは既に冷めてしまっていた。