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 午前八時。三人はテーブルの椅子に掛けて朝食を食べていた。沈黙とも取れる静寂の中に食器の音だけが響く。
「キョウヤ。のんびりしてるけど、学校には間に合うの?」
「しばらく休む。今はそんな場合じゃない」
 トーストにかじりつきながら返答する鏡夜。対して、カインはコーヒーカップをテーブルに置いて、一つ鼻で笑う。
「そんな場合じゃないだって? そういう状況にした張本人が言える台詞だと思ってるの?」
「まあ、確かにカインくんの意見は的確ッスけど、鏡夜くんは一緒に行動した方が良いんじゃないッスか? これからの事についても話し合う必要があるッスから」
 行儀良く日本茶を喉に通しながら、千雨は鏡夜をフォローする。しかし、カインは昨晩から機嫌が直っていない様子だ。
 ギシギシと斜めに椅子を傾けながら、カインは「……うーん」と目を閉じて唸る。
「それはそうだけどね。でも、今日くらいは学校に行った方が良いんじゃないの? ボクとしては、キョウヤに少し休憩をあげたい。あと、考えを改めてほしいな。自分自身の在り方ってヤツをさ」
 椅子に背を預けて、カインは小さくため息をついた。
 鏡夜は、カインの言っている言葉の意味を理解していた。だからこそ、反論するべき言葉が見つからない。
 つまるところ、カインはこう言っているのだ。
『早く答えを出せ』、と。
 そうでなければ、この少年はこんな言動はしない。
 カイン・エレイスという封殺者は、迷いがある人間が大嫌いなのだから。
「……分かった。今日は学校に行く」
 そして、カインの思惑を理解した鏡夜は、何も言う気になれなかった。
 これ以上、二人に迷惑を掛けるのは嫌だから。
 ――少し、頭を冷やそう。

 午前八時十分。鏡夜は制服に着替えて、家を後にした。
 カインは、自分の考えに疑問も逡巡も持っていなかった。
 今回の件は全面的に鏡夜が悪いと、心の底から思っていた。
(……でも、何でキョウヤは殺せなくなってしまったんだろう?)
 事が起こるには、必ず原因というものが存在するのだ。
 そしてカインの推察では、一人の少女が関係していると思っていた。
「チサメちゃん」
 カインはテーブルに頬杖を掻きながら、抑揚の無い声で千雨に話し掛けた。
「なんスか?」
 向かいの椅子に座っている千雨は、行儀良く背筋を伸ばして、自分で淹れた日本茶を啜っていた。
「キョウヤの矛盾行動について、チサメちゃんはどう思ってる?」
 カインの問いに、千雨は一度顔を顰めて、腕を組んで考え始めた。
「……そうッスね。それは、私も気にかけている事だったんスよ。
 私の推察では、鏡夜くんが殺せなくなったのは湊さんが関係していると思うんスよね」
「やっぱり、チサメちゃんもそう思う?」
「だけど、もしそれが真実だとするなら、ここでまた矛盾が生まれるッス。
 鏡夜くんが湊さんと一緒に過ごしたのは、たったの一週間ッス。その一週間で、鏡夜くんが十七年間培ってきた思考パターンが、あれほどまでに変化するなんて論理的にありえないッス。その理由として、鏡夜くんは十七歳まで、拒絶と孤立を続けてきたからッス。それが、たった一人の女の子に話し掛けられただけで迷いを持ってしまうのは、自己の確立された在り方を自分から破壊するのと同一ッスから。
 そして、この段階で私が考えているのは、外的な要因が鏡夜くんの思考原理にバグを発生させたという事ッス」
「――外的な、要因?」
「はいッス」と千雨は首肯する。
「外的な要因を、ここで一端魔術に置き換えるとするなら、施した人間に新たな記憶を植え付ける『記憶操作術』が例に挙げられるッスね。これなら、『千堂鏡夜』という一固体の人間が培ってきた、『殺してきた』というエピソード記憶に、新しく『殺したくない』という記銘をさせて脳に保持させることが可能ッス」
「……エピソード記憶って、体験、経験した出来事を一つの情報として脳に記銘――記録させることだっけ?」
「はいッス。記憶操作術はその名の通り、外部から記憶情報を操作する事を指すッス。でも、この術は『禁忌魔術』として扱われているんスね。何故なら、この術を行使するには、操作する対象の記憶情報を完全に認識していなければならないからッス。ただ一度の情報操作を怠れば、その人間の記憶機能のプロセスが異常をきたして、最悪の場合、記憶障害に陥ることもあるッスから」
「だけど、この推論はたぶん違っているッス」と、千雨は髪をガシガシと掻き毟り、自身の考えを否定する。
「本当に記憶操作術を外部から植え付けられたなら、過去の記憶である『回想的記憶』が書き換えられてしまうッス。そうしたら私はともかく、カインくんの事を覚えている訳がないッスから。
 ついでに言うと、禁忌魔術は『存在の破壊』を示す行為ッス。人間の道徳から大幅に逸脱した術なので、その危険性を序列で定めてもいるッス。記憶操作術は第四位に位置するッスね」
 そして、それを解除――つまり、外的要因の規制を取り除くには、上位の第三位、第二位、第一位の禁忌魔術を実行して、植え付けられた概念をさらに上位の概念で抑圧し、消滅させるしか手段はない、というらしい。
「でも――」と、千雨は続けた。
「私は、何らかの外的要因が関わっていると確信しているんスよ」
「その根拠は?」
 素朴な疑問を訊ねるカインに、千雨は珍しく焦ったように視線を泳がせた。
「い、いや、訂正するッス。確信は違うッスね。私の勘みたいなものッスよ」
「……まあ、いいけど」
 明らかに挙動が不審だったが、カインは深く追求するのは止めた。内心で、紳士的だなボク、などと優越感に浸りながら。
「それにしても、暇だね」
 一つ背伸びをして、カインは部屋の風景を眺める。
「まったく。キョウヤもゲーム機くらい買えばいいのに」
 殺風景とも取れる鏡夜の部屋を見回し、ため息を漏らす。日本の高校生だというのに、趣味に関する物が全然ない。あるとすれば、居間の隅に積んである魔道書くらいだった。
「どこかに出かける? ボクも久しぶりにゲームセンターにでも行きたいし」
 ――そうだな。UFOキャッチャーでぬいぐるみでもゲットしたい気分になってきた。日本に訪れるのは久しぶりなんだし、少しくらい娯楽を満喫しても良いかな。
「別にいいッスけど、家はどうするんスか?」
「え?」
「いや、だからこの家ッスよ。鍵は鏡夜くんが持ってるし、私達が出かけている間に泥棒でも入ったら大変なことになりそうッスけど」
「…………キョウヤの、馬鹿」
 それなりの怒りを含んで、カインは呟いた。

 結局、鏡夜は学校に行かなかった。
 カインは休憩をくれると気遣ったが、何も得るものがない学校に行っても答えが見出せる訳がない。ただ、心苦しい環境の中で、さらに悩み続けると思ったからだ。
 鏡夜は浮浪者のように、街中を徘徊していた。
 そして偶然、その人物と出くわした。
「……あんた、こんな所で何をしてるんだ」
「その言葉、そのまま返そう。裁我の抹殺任務はどうした、千堂鏡夜」
 天美戒は、表情一つ変えずに、鏡夜を見据えた。
「一度戦闘になったが、逃がした……」
「そうか」
 やはり、感情の籠っていない口調で返す。
「……次は、必ず仕留める」
 たまらず出た言葉は、明らかに偽りだった。殺せなくなってしまった自分に、裁我を仕留めることなどできない。
 沈黙が訪れた。
 しかしその沈黙は、まるで想定外の言葉によって破られる。

「お前が殺せなくなってしまった原因は『遠近湊』、そして『レイ・ストライト』が関係している」
 
 一瞬。
 ほんの一瞬だが、鏡夜の意識は凍結しそうになった。
 心臓が、どくん、どくんと早鐘を打ち始める。
「……どういうことだ?」
「何の因果か。七年もの間起動しなかった術が、このような偶然を巻き起こすとは。いや、これはもはや必然なのだろうな」
 目を閉じて、初めて感情を含んだ笑みを刻む天美戒。その様は、出会ってから初めて人間らしく思えた。
「もったいぶるな。一から説明しろ」
 魔術師に喧嘩を売っているようなものだが、気にしている暇はなかった。
 ――おそらく、天美は『真実』を知っている。俺の矛盾行動にしても、俺が殺せなくなってしまった原因にしても。
 ただ黙る天美に、鏡夜は苛立ちを覚え始める。
 このまま、天美が黙秘を貫くならば、鏡夜は戦ってでも全てを吐かせようと考えた。だが、星礼会の最高幹部に勝つなど不可能だと、理性が行動を抑えた。
 ――俺は、天美が応えるまで待つ。
 ――俺が殺せるようになるために。
 ――俺の体から矛盾を取り払うために。
 ――そして、再び存在理由を証明するために。
「耐えたか」
 実に愉快げに、天美戒は呟いた。
「よかろう。お前に全てを教えてやる。だが、その結果は自身で受け入れろ」
 そうして天美戒は、鏡夜に『真実』を語った。
 それを知った鏡夜は、信用してやまなかったレイに初めて憎悪を抱いて。
 それを知った鏡夜は、彼女に会わなければならないという衝動に駆られた。
 天美の隣をかわして、鏡夜はその場所を目指し、走り出した。
「――これも運命か」
 重いため息と共に、天美戒は呟いた。
 
 走って、走って。
 走って、走って、走り続けた。
 そうして鏡夜は、昨日訪れたK大付属総合病院の正門に佇んでいた。
「遠近――」
 
『感情はいらない。全ては終わった』

 ……結局、あの言葉さえも偽りだった。
 偽り続けてきた鏡夜は、憎んでやまなかった存在のおかげで、やっと『答え』にたどり着いた。
 後悔も絶望も、もういらない。
 そう思ったからこそ、鏡夜は門を潜ったのだ。

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