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 ここは静かだ。
 一面が白で彩られた六畳の個室には、遠近湊しかいなかった。
 静寂に包まれた白い空間に存在するのは、伽藍となった遠近湊だけ。
 湊の見舞いに訪れるのは、決まって父親と母親だけだった。
 それが、酷く悲しい。
 それが、酷く空しい。
 こんな時、鏡夜が傍にいてくれたら、などと夢想してしまう。
 しかしきっと、その機会は二度と訪れないだろう。
 夢を失った湊は、空っぽだった。
 事実、遠近湊には、もう『何も無い』。
 叶えたい願いも、夢を夢見ることも、もうできない。
 なら、自分は存在している意味があるのだろうか。
「……もう、嫌だ」
 自虐的になっても、何も変わらないという事は解っている。
 しかし湊は、そんな自分自身が嫌いになった。
 ……治療を受けていたおかげか、腹部の傷はそれほど痛まなくなっていた。
 故に、ベッドから降りて窓を開けた。 
 雲ひとつない青々とした空を眺め――視線を下げる。
 この部屋は四階に位置している。頭から落下すると、痛まずに死ねるのだろうか。
 いや、痛んでもいい。最終的に死に至るのならば、どれほどの激痛を苛んでもいい。
 湊は窓から身を乗り出し――最後に、遺言としてこう言い残すことにした。
「――ありがとう。たったの一週間でも、私の心は凄く満たされたよ」
 そうして、湊は窓から飛び降りた。

 しかし、不意に、誰かが腕を掴んだ。

「え……?」
 湊は上を見上げた。
 そこには、思ってもみなかった人物が、腕を掴んだ状態で自分を睨みつけていた。
「馬鹿野郎ッ!」
 吐き出す言葉に、遠慮はなかった。
 千堂鏡夜は、確かにそこにいた。
 そして憎悪とも取れる瞳が、湊を捉えている。
「俺を狂わせた張本人が、俺に無断で死のうとするな! 死ぬなら、俺に罪を償ってからにしろっ!」
 鏡夜は、湊の前で初めて感情を顕わにしていた。
 片腕一本で湊を病室の中に戻し、乱暴にベッドの上に寝かせた。
「何で、千堂くんが……?」
 もう来ないと思っていたのに。
 決別したと思っていたのに。
「何で――」
「何故、死のうとした?」
 湊の疑問に答えず、逆に、鏡夜は問い返した。
「……私は」
 震える唇で、湊は本音を吐露する。
「……私は、もう、自分が嫌いになった。記憶を失って、千堂くんの事を知らないとか言って……そんな事を平然と口にした自分が嫌になった」
「――」
「もう、傷つくのは耐えられなくなった。これ以上、傷つきたくない。自分から原因を作ってるのに、それを受け入れる勇気もない。だから、死のうとしたの」
「記憶は戻ったのか?」
 湊は小さく頷いた。
「――なら、俺の話を聞いてくれ。遠近の義兄にも関係している話だ」
「――え?」
 ――なんで、千堂くんが翔義兄さんの事を知っているのだろう?
 湊は、鏡夜に義兄の存在を話した覚えはない。話したくないという理由もあったが、彼には無関係だと考えていたからだ。
 そして、忘却したい過去だからこそ、湊は話さなかったのだ。
 鏡夜はベッドに腰を下ろして、湊の方へと顔を向けた。

「俺は、今まで殺人をしてきた」

 ……突然の告白に、湊は頭がクラッとした。
 しかし、鏡夜は気にせず話を続ける。
「この世界には、日常と非日常の境界がある。遠近が『日常』に生きる人間なら、俺は『非日常』に生きる人間だ」
「日常と、非日常……?」
「ああ。俺は、鬼人という存在してはならない敵を殺してきた。何百回も殺して、殺し尽くしてきた。それが、俺の存在している理由だった。存在理由を認識した俺は、殺すことしかできなくなったんだ。……だが同時に、俺は矛盾した思考を持っていた。
 鬼人を殺しても、そうする意味を自問する。非日常に生きる人間なのに、孤独が辛い。そんな自虐的な思考に陥っていたところを、お前に見られた。そして、それから一週間、お前と一緒に学園生活を過ごした。――ここからが、話の本題だ」
 そうして、鏡夜が紡いでいった話に、湊はただ驚愕することしかできなかった。
 
 面会時間が終わり、鏡夜は病室の外に出た。
 廊下の壁際に配置されてある長椅子には、五十代くらいの温和な顔立ちをした男性が座っていた。
「……千堂鏡夜くん、だね?」
「そうですが」
「そうか、君が……湊が世話になったね。礼を言わせてもらうよ」
 言って、男性は深く頭を下げた。
 おそらく湊の父親だろう、と鏡夜は思った。
 しかし、それなら都合が良い。
 鏡夜は、遠近家にいた『彼』という存在の詳細を聞き始めた。

「……その話を、どこで聞いたんだい?」
 驚愕する湊の父親に、鏡夜はどう話すべきか、少し考えた。
 が、父親の方が、「……湊かい?」と、先に口にした。
「……ええ。あの、この事は、湊さんには――」
 嘘をつくのがここまで心苦しいものなのか、と鏡夜は改めて痛感する。
しかし彼は、温和な笑みを浮かべて、「いや、いいよ」と手を振った。
「……しかし、あの子が翔の話をするとは。よほど君の事を信頼しているんだろうね。
 ――翔はね。優しい子だったんだ。ウチが引き取った頃は、何かに脅えている感じがあったが、それでも、徐々に家族と打ち解けていった。……湊ともよく遊んでいたよ。ちょうどこの季節には、湊と二人で雪合戦をしていたなぁ」
 昔を懐かしむような顔で、彼は語り続ける。
 だが、その顔も段々と曇っていった。
「……でも、あの病気が再発してから、翔は変わってしまった。何がいけなかったのか、私でも分からない。……それが分からないってことは、結局、私は翔のことを分かっていなかったことと同じなんだがね」
 彼は力なく笑った。
 鏡夜は、裁我が幸せに育っていたことに、少し嫉妬していた。
 それでも、湊の父親は、他人である鏡夜に話を聞かせた。
 まるで、あの子の痛みを分かってくれといわんばかりに、『遠近翔』の話を続けた。
 鏡夜は、その話を黙って聞くことしか出来なかった。

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