ある日。
『あの持病』が再発し、以後、少年は病院で寝込みっきりの状態が続いた。
やっと幸せになれたのに。昔の事を、思い出してしまったからだろうか。
しかし、少年が苦難に苛まれているというのに、少女は元気に学校へ通っていた。
自分が辛く苦しんでいるのに、少女はずっと笑っていた。
――なんで、アイツばっかり幸せなんだろう。
――なんで、アイツばっかり恵まれているんだろう。
少女が少年の病室を訪れたとき、学校での出来事をたくさん話していた。
幸せそうに、色々な事を少年に聞かせた。
――ホントウに、幸せそうな笑顔で。
それは、自分には手に入らない笑顔だと、少年はやっと気がついた。
◆
三人がテーブルに着き、少しの沈黙。最初に切り出したのは、カインだった。
「さて。議論の内容は決まっていることだし話してもらうよ、キョウヤ」
今回の議論は、カインが仕切りに回ることはない。話の内容を語るのはあくまで鏡夜だ。故に、カインと先雨は、聞き手に回ることになる。
「まずは、裁我自身のことだ」
鏡夜は、それが一番重要視すべき事柄だと考えて話し始める。
「裁我は感情を持っている。だが、それ自体が不可解な事なんだ」
封殺者とは、感情を殺さなければならない人種である。
幼い頃からの地獄のような殺人訓練により、身体、精神を完全に破壊され、ただ『殺す』ことだけを糧に、生きていく。
「裁我の感情変化は、見た限り異常をきたしていた。それは封殺者としてあってはならない事だ。そして、それは俺にも当てはまる」
はっきりと、鏡夜は自己の在り方を否定した。
しかし、そこに迷いはない。まるで、それを完全に受け入れたかのように。
「でも、ボクにもまだ感情は残っているよ。気に食わないけどね」
カイン自身、それは自分にも当てはまると解っていた。
カイン・エレイスは、喜怒哀楽がはっきりとした封殺者だ。それは、感情が豊かだという証拠なのだ。
捨て去りたいモノだと解っていても、それを捨てることができない。否、捨てる方法が見出せないのだ。
「施設の連中から感情を捨てろってずっと教えられてきたけど、それが、どんな事柄において捨てるのかは教えてくれなかったからね。なら、未だに感情が残っていても不思議じゃないんじゃないの?」
喜怒哀楽という感情の中から、どの部類を捨てれば良いのか、鏡夜も、カインも、施設の研究者から一切教わっていなかった。
つまり、教わった意味を理解できていないから、捨て去ることが不可能なのだ。
「……殺すことだけを考えていれば、おのずと感情は無くなるとでも思ったのかな。それとも――」
「俺達が、例外なのかもしれないってことになる」
鏡夜の言葉に、カインと千雨は同時に視線を向ける。
結論を言えば、感情を失った封殺者は完成作で、カインと鏡夜、そして裁我は、失敗作という仮定がここで生まれた。
「そして、裁我が星礼会に復讐しようとしているのは、それに直結する。感情が有ったから、星礼会に憎悪を覚えた。過去に刻まれた傷が蘇ってしまい――そうさせた張本人である星礼会を潰すことにしたんだ」
「それはあくまで推論でしょ。それが本当かどうかは解らないよ」
確かに、鏡夜の話はあくまで推論、彼自身の考えでしかない。
しかし、鏡夜はそうであると確信していた。
自分が昔そうであったから。感情を持ち合わせていたが故に、何度も裁我と同じ答えに辿り着いたのだから。
だから、裁我はこう言ったのだ。
『オレの事を、唯一理解してくれる仲間をさ。この瞬間を、ずっと待ちわびていたんだ……!」
『お前だけは、オレを理解してくれると思っていたのに……!』
『お前も、星礼会を憎んでいるんだろ? だったら、オレ達は同類じゃねえか!』
あの言葉は、全て鏡夜に向けられたものだった。
つまり、彼は解っていたのだろう。
鏡夜が、星礼会を憎んでいるという事を。
鏡夜が、未だ感情を持っているという事を。
そして、鏡夜が自分と同じ心境にあったという事を。
(だが、それでも――)
そう。それは現在の鏡夜に当てはまらない。
鏡夜は、もう決めたから。
答えを見出したのだから。
だからもう、鏡夜と裁我は違うのだ。
「話は変わるッスけど」
と、千雨は手を上げて初めて口を開く。
「私は、感情を排除できる魔術なら知ってるッスよ」
その言葉に、鏡夜とカインは同時に顔を向けた。
「『
千雨は鏡夜を一瞥する。認識している事をバラすなというアイコンタクトだろう。
「知っているが、俺はまだ認識していない」
「ボクも同じく、だね」
「まあ、それでも話に支障は出ないから大丈夫ッスよ。簡単に言うと、想像心界というのは、心界を認識した人間のみが扱える術ッス。禁忌魔術での総順位では、第一位に値しているッスね」
想像心界――。心界が『存在理由』ならば、想像心界は『存在証明行為』に部類される。
自身の存在理由を完全に認めたときのみ、これを起動することが可能になり、発動後の一分間、己の内界に宿る存在理由――心界が、存在を証明させる為だけに身体を無意識的に活動させてくれる。
しかし、この術を起動できるのは一度きりであり、心界の証明行為は一分間が上限とされている。そして、その時間の上限を超えると心界が消滅してしまうと千雨は語った。
「……って事は、施設の研究者達は、その想像心界っていう術の存在を知った上で、ボク達に感情を捨てろって教えてきたつもりなのかな?」
カインの推測に、鏡夜は「いいや」と首を横に振った。
「それが真実なら、研究者達は直接的にそう言えばいい。わざわざ遠まわしな言い方をする必要はないと思うが」
仮に、想像心界という術を研究者達が認知していて、それを踏まえた上で『感情を捨てろ』と教えてきたとしても、その話の本質を語らない以上、鏡夜やカインがそれを理解できる訳がない。
「まあ、これは私の憶測ッスけどね。今は、真に受けない方が懸命かもしれないッス」
千雨は、チラッと掛け時計を見る。現在、午後六時半だった。
「奇襲時間まで、残り二時間を切ったッスよ。そろそろ準備を始めた方が良いんじゃないッスかね」
「そうだね。キョウヤ、ボクのアタッシュケース取ってくれない? チェインの調整をしたいから」
「ああ」
言って、鏡夜は部屋の隅に置いてある大型のアタッシュケースに手をやろうとするが――
『ッ!?』
瞬間、三人の表情が凍りついた。
理解できない訳がなかった。彼らは、それ程までに感知能力は低くないのだから。
「――行くぞ」
「うん」
「はいッス」
だが、それも一瞬だ。行動すべき事柄を判断したからこそ、動揺することはなくなった。
危機感も、焦燥感も――そんなものを用いてしまわない為に存在するのが封殺者なのだから。
◆
『彼』は、K大付属総合病院のロビーに足を踏み入れた。
道崎市に存在する数ある病院の中で、『彼』が最初にこの場所を訪れたのは、無意識的にこの病院が頭に思い浮かんだからだ。
何年か前、『彼』もある症状が悪化し、ここに入院していた時期があった。
心中、嬉々とした様子で『彼』は歩き続ける。
ロビーには、それなりに人がいた。
これから医師に診断を受ける人間。
車椅子を漕いでいる患者。
だが、そんなことは今の『彼』にとってどうでも良い事だ。
歩みを進め、入り口の真正面にある受付に行く。
「悪い。ここに遠近湊っていう患者はいるか?」
『彼』は受付の女性に、出来うる限り『普通』を装って話しかけた。
……苛立ちは感じるが、今は耐えるしかない。
受付の女性は、朝に同じく面会に訪れた男性がいた為か、すぐに病室の番号を思い出した。女性は、礼儀正しく、『彼』の質問に答える。
「はい。第三棟の402号室に入院されております。ですが、面会時間はすでに終わっておりま――」
しかし受付の女性は、最後まで言葉を言い切れなかった。
否。
すでに彼女は、言葉を放つことは不可能だった。
何故なら、彼女は笑顔を保ったまま首をなくしてしまったのだから。
ごとんっ、という鈍く重たい音は、床から発した。
一拍遅れて、首の切断面から噴水を思わせるように、大量の血液が噴き出す。
その光景に気づいた者達は、おそらく、思考を停止させられたことだろう。
しかし、即座に現実へと引き戻される。
人間の首がなくなったという、ただ一つのリアルへと。