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「やめろ」
 鏡夜は静かに言った。静寂な暗い部屋に、その一言は確かに響き渡った。
 首筋には一振りの手刀。裁我が少しでも動けば死は確実に訪れるだろう。
 しかし、動きはしないものの、裁我には余裕が窺えた。
「随分と甘くなったな、鏡夜。コイツが影響を及ぼしたからか?」
「…………」
「ああ、お前の考えている通りだ。この女がお前を狂わせたんだよなあ? コイツと関わった十時間後に、レイ・ストライトが施した『言語抑制術』が起動したんだろ? 大方、抑制言語は『夢』って所か」
『言語抑制術』――。それは、『記憶操作術』と同じ『禁忌魔術』であり、序列では第二位に値する。
 呪文として発した『言葉』を対象の脳に植え付ける。そして、その言葉を信じようとする『キッカケ』が遭遇すると同時に、言語抑制術は起動する。そのキッカケは、植え付けられた本人でも認識できない。 さらには、矛盾しながらもその言葉を肯定してしまうという思考混乱に陥ってしまうのだ。
 そして、術者が解除しない限り、起動は永遠に続いてしまうのだ。
「その術者も、お前が殺しちまったがな」
 そう。鏡夜がレイ・ストライトを殺した時点で、言語抑制術の解除は不可能となった。
 ……鏡夜にとっての『キッカケ』は、二種類存在した。
 起動のキッカケとなった一つは、自虐的思考に陥り、その時に遠近湊が現れたという事だった。
『日常』に生きる人間と接し、遠近湊と『普通』に会話をしてしまったが故に、彼女を『一緒』だと思ってしまった。
 自分でも、『日常』に行くことができるのではないかと、矛盾しながらも肯定してしまった。
 これが、『キッカケ』の一つ目であり、矛盾思考の始まりだった。
 そして、二つ目。『キッカケ』の最大要因は、遠近湊と出会った二日後に、ある言葉を聞いてしまったからだった。

 ――『夢』を見続けるためには生き続けるしかないって答えに辿り着くんだ――

 その『夢』という単語によって、鏡夜に植えつけられた抑制言語が完全に体へと感染してしまった。
 鬼人を殺したら、『日常』に行けなくなるから。
 敵を殺したら、『普通』になれなくなるから。
 そして、夢を見られなくなってしまうから。
 故に、『殺害』という鏡夜の心界に、『言語抑制術』の抑止力が働いてしまった。
 ……日常に戻り、『普通』になること。それが、レイ・ストライトの『夢』であり、千堂鏡夜が無意識的に憧れていた『夢』でもあった。
 しかし、裁我はそんな真実に納得する訳がなかった。
「こんな……。こんな、いつも幸せそうにしているヤツのせいでお前は殺せなくなっちまった……! こんな理不尽な真実があってたまるかッ!」
 手刀が頚動脈に食い込む。しかし、裁我は死ぬなどとは思わなかった。
 だからこそ、彼はこう言える。
「お前はオレと共に在るべきなんだ! ……そうさ、星礼会の連中を全員ブッ殺して、オレ達は自由になるんだっ!……だからさぁ、オレの仲間になれよ! 言語抑制術は、オレがデータを調べ上げて、絶対に解除してやるから……! お前が星礼会を怨んでいることは解ってんだよ! ……はぁ、はあ……オレ、は、お前、が、必要、なん、だよッ!」
 先日の過呼吸と、今のそれは酷似していた。
 裁我は、それ程までに鏡夜が『同類』であると思いたかったのだ。
『一緒』だと、『仲間』だと、同じ傷を持つ『同類』だと――自分達は『似た者同士』だと、思わなくてはいられなかった。
「俺は、お前とは違う」
 しかし、鏡夜は一言で、彼を切り捨てた。
 鏡夜は、裁我を完全否定した。
 そして今回、その言葉は裁我の感情に大きな変化を齎した。
「俺は『普通』になる。そう、湊と約束したんだ。 俺はもう、封殺者じゃない。星礼会の人形でもない。俺はもう、湊と一緒なんだ」
 ピシリと、裁我は脳に亀裂を起こした感覚を覚え、

 ――心が、壊れた。

 一緒。その言葉を向けられたのは、自分ではなく憎んでやまない遠近湊だった。
 ……ギリッと、裁我は砕ける程に歯を軋ませる。
「……そう、かよ。なら――」
 裁我の左手に、強大な体内魔力粒子(イナ)が収束し始める。
 鏡夜が仲間にならないのならば、手段は一つだ。
「ブッ殺すしかないよなあッ!」
 頚動脈に食い込んでいた手刀を強引に払い除けて、鏡夜の胸部を狙い、刺突を繰り出す。
 鏡夜は体を左に開き、刺突を捌く。
 チラッと、鏡夜は気を失っている湊を一瞥した。
「……ここじゃあ殺しにくいだろ。場所を変えるぞ」
「ああ、乗ってやるよ! テメェはもう仲間じゃねえ。殺すべき対象だからなぁッ!」
 
 ◆

 鏡夜から教わった廃ビルを目指し、ビル街で跳躍を繰り返していたカインと千雨は、尋常ではない魔力反応を感知した。
「くるよ」
「了解ッス」
 カインはアタッシュケースからチェインを取り出す。千雨も半眼を見開き、闘いにおいての自己暗示をかけた。
 進行方向から高速でこちらに向かってくる『それ』は鬼人だった。
 フォルムは人型。体は漆黒の色で覆われている。眼球は赤色。これだけで言うならば、通常の鬼人と判断できる。
 しかし、体格だけが明らかに異なっていた。三メートルはある巨躯。カインにも劣らない蓄積魔力量。
(……コアが複数埋め込まれているのか?)
 カインは咄嗟にそう思った。性質変化を施す魔石といっても、その石につぎ込める魔力の量には限度がある。
 この鬼人の魔力反応からして、コアが二つ、三つ埋め込まれていると考えて良いだろう。
 鬼人と二人の距離が十五メートルほどに縮まった時、カインは行動を開始した。
「チェインッ!」
 カインの精神硬質(ハードメンタル)が、チェインと同化を成す。意思を持った銀色の鎖は、不規則な動きで鬼人の体に絡みついた。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」
 突然の咆哮。体に食い込んでいくチェインを、鬼人は両腕で強引に振り払った。
「なっ!?」
 ありえない自体に、カインは驚愕の声を漏らす。
 チェインに流し込んだ体内魔力粒子(イナ)の量は、この鬼人の魔力量を上回ったとカインは確信していたのだ。たかがコアを二つ三つ埋め込んだだけで、自身の体内魔力粒子(イナ)を超える筈がないと思っていた。
 しかし現に、チェインと同化したカインの精神硬質が――強引にとはいえ――振り解かれたことから、この鬼人に宿っている魔力量は、チェインに流し込んだ体内魔力粒子(イナ)の量を上回っているという事実を証明していた。
 カインは未だ中空にいた。予想外だった。体内魔力粒子(イナ)を流し込み強化したチェインを、鬼人ごときが振り解くことは不可能だと彼は慢心していたのだ。
 鬼人はカインに迫る。空を翔る鬼人の動きは、もはや物理法則など完全に無視していた。
「チッ!」
 カインはチェインに意思を伝達させ、咄嗟に鎖を引き戻す。その時には、鬼人は右腕を巨大な鎌に変態させ、三メートルの距離に迫っていた。
(防――!)
 カインの前方で、銀色の鎖が蜘蛛の巣を思わせるように幾重にも張り巡らされた。
 振り下ろされた大鎌が、一種の『壁』と化したチェインと拮抗する。
 ガギギギィィィイッ、と軋みを上げるチェイン。イナで強化されたにも関わらず、鎌は鎖に微細な罅を与える。
「意志力、一〇〇%ッ!」
 後方から奇襲を開始した千雨が叫ぶ。最大の意志を以って、首を断ち切るために朱風を疾らせる。
「――ッ!?」
 しかし、閃光の如く神速で放った一閃は、左腕であっけなく防がれた。
(一〇〇%でも斬れない!?)
 カインと同様に、あってはならない事態に千雨は動揺する。朱風に宿る殺人意志という精神硬質(ハードメンタル)が、この鬼人の魔力量に劣っているとでもいうのだろうか?
 そして、驚くべきはそれだけではなかった。この鬼人は、左腕に魔力を収束させ、腕の硬度を上昇させていたのだ。
 それは昨日この目で見た、千堂鏡夜の詠唱に似通った業だった。
 つまり、それが意味しているのはただひとつ。
 この鬼人に埋め込まれているコアには、鏡夜の戦闘理論を組み込んでいる可能性があるということだった。
(考察開始――!)
 この時、千雨は心界の活用を開始した。異常なまでの思考速度をもって、脳内で様々な情報を駆け巡らせる。
(体格は三メートル弱。カイン・エレイスの精神硬質を勝る。チェインへの微細な罅。通常ではありえない巨大形状の鎌。朱風、一〇〇%状態による意志力の攻撃を防ぎきる。
 解一。カイン・エレイスと工藤千雨の用いる精神硬質(ハードメンタル)を上回っている。追加要素。千堂鏡夜の戦闘データをコアに融合。考察終了まで、残り〇・三秒――)
 思考を始め、一秒が経過する。考察結果は――
(この数は――!)
 その事実に、千雨はただ驚愕の表情を表した。
「カインくん! この鬼人には、コアが十個埋め込まれています!」
「ええ!?」
 軋み、悲鳴を上げているチェインを解き、千雨と共に近辺のビルの屋上に着地するカイン。
「十個って、じゃあ、その短刀でも斬れない程の魔力量を持ってるってこと!?」
「先ほど一〇〇%の意志力を解放しましたが斬れませんでした。あの鬼人に埋め込まれているコアの数は、陽性意志力で言うなら、私達の精神硬質(ハードメンタル)をも上回っていま――」
 千雨が言い切る前に、鬼人は二人の眼前に現れた。移動中に魔力が残留せず、また、二人が移動を認識できなかったのは、鏡夜の詠唱――『SPEED UP』を使用したからだろう。
 鬼人は両腕を振り上げ、大鎌を倍の速度で振り下ろす。
『チッ!』
 二人は同時に舌を打ち、チェインと朱風で防御を取る。
『■■■■■■・■■』
 だが、その前に鬼人は口の部分から、何かを唱えた気がした。
『ENERGY UP』――。これも鏡夜の得意とする詠唱の一つだった。
 鬼人の大鎌に、爆発的なまでの速さで魔力が増幅する。十個のコアに宿っている魔力を、両腕に収束した結果、腕力が格段に上昇した。
 鬼人が完全に大鎌を振り抜いたことから、カインと千雨は十メートルほど中空を舞った。
 二人はどうにか着地して受身を取ったが、このままでは後手に回る一方だ。
「何か良い案は無いの、チサメちゃん!?」
 打開策を訊くカインに、千雨は「……あることは、あります」と頭を抑えながら言った。
「――カインくん。申し訳ないのですが、時間稼ぎをお願いしてもよろしいでしょうか?」
「それで勝てるのなら、何でもするよ」
 カインは即座に了承した。今は、あの鬼人を殺すのが最優先だと判断しての発言だった。
「ありがとうございます。では、二分間で」
「オッケー。――いくよ、チェインッ!」
 身体に宿る全ての体内魔力粒子(イナ)をチェインに流し込み、カインは地を蹴った。

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