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 病院の屋上で、鏡夜と裁我は向かい合って佇んでいた。
 殺意を剥き出しにしている裁我とは反面、鏡夜は冷静に辺りを見回す。屋上には誰一人いなかった。
「ここなら邪魔は入らない。お前が望む通り、存分に殺し合えるぞ」
 この状況で平静を装う鏡夜に、裁我は鼻で笑った。
「殺し合うだと? お前は言語抑制術の抑止力でオレを殺せねえだろうが。オレも右手を失ったとはいえ、お前のデータは全て把握している。お前の勝率はゼロだって事が解らねえのかよッ!」
 的確な言葉を、がなり声で指摘する裁我。
 しかし、鏡夜は答えなかった。
 そんな事は、何度も体験した鏡夜が誰よりも知っているのだから。
 裁我を殺せる訳がないというのも、すでに理解の範疇だ。
「そうだとしても、俺はお前を殺す必要があるんだ」
 ……たった数時間前の事を思い出す。
 ――殺したくないと言ったけど。
 ――普通になりたいと言ったけど。
(……最後の最後まで、偽ったな)
 己を嘲るように、鏡夜は薄く笑った。しかし、それもすぐに無表情へと戻る。
 自分を狂わせ、自分を救ってくれた遠近湊。
 その彼女を幾度となく傷つけた『敵』の罪を赦す気などさらさらなかった。
 裁我と湊の過去など、もはやどうでも良い。
 鏡夜が裁我を殺すのは、封殺者としての責務ではなかった。 
 ただ、湊には死んでほしくはないという自己満足に過ぎない。
 ――それでも。この時、千堂鏡夜は他人の為ではなく、紛れもない自分の意思で行動を起こそうとしていた。
 彼女がいなくなれば、自分は駄目になってしまうのだから。
 それ故に。
「これが、俺の最後の殺人だ」
 殺せなくとも、殺さなければならないと悟ったのだ。

 鏡夜が詠唱を口にする。その刹那――裁我の眼前に現れた鏡夜は、首の頚動脈に狙いを定めて、右の魔刀を疾らせた。
「お見通しなんだよッ!」
 裁我は身を屈め、いとも簡単に魔刀を回避した。そのまま足を払い、鏡夜の体が宙に浮いた。体が反転して頭から地面に激突する前に、鏡夜は両手を地面に密着させ、逆立ちの状態から右足を振り下ろす。
 右足に収束した体内魔力粒子(イナ)という物質的凶器が、裁我の頭蓋骨を襲う。
(確率、正の解――!)
 振り下ろされた右足に対して、裁我は左腕を体の前にかかげて防いだ。
 両の体内魔力粒子(イナ)が衝突した。不安定な体勢にあった鏡夜は、両腕の腕力に力を籠めて、バァンッと後方に退く。
 しかし裁我は、その戦術を予測していた。
 体内魔力粒子(イナ)を脚に収束し、脚力を上げる。一瞬で鏡夜の懐に入った裁我は、左の魔刀で顔面の破壊を実行する。
 鏡夜は首を仰け反らすことで、それを回避した。
 顔の上を通った手刀を右腕で掴んで、裁我を宙に浮かせる。
 後は、無防備な胸部を穿てばいい。鏡夜は左手の魔刀で刺突を繰り出す。
(――ッ!?)
 しかし、この瞬間『言語抑制術』が発動した。裁我の胸部を狙った魔刀が、脇を通り過ぎて失敗に終わる。
「馬鹿野郎がッ!」
 一瞬の迷いを、裁我が見逃す訳がない。右膝で顎を蹴り上げられた鏡夜は、宙を浮いて後方に五メートル吹っ飛んだ。
「く……ッ!」
 顎を蹴られたせいか、脳がシェイクされた感じだった。目眩まで襲ってきて、視界がぼやけて見える。
 と、不意に誰かが馬乗りに乗ってきた。
 それは裁我以外の誰がいるであろうか。
 今にも殺したがっている裁我は、黒い瞳で鏡夜を見つめていた。
「――オレの仲間になる筈だったのに、凄く残念だ」
 歪む顔は、憎悪からきているのだろうか。――それとも、本心故の悲哀からか。
「本当に、残念だ。オレは、おま、えが……! 必要だった、のに……!」
 言葉が途中で途切れるのは、呼吸が荒くなってきたからだ。
(クソッ! こんな時に……!)
 鏡夜を殺せるのに。自分に歯向かう敵を殺せるのに。こんなタイミングで、持病の『過呼吸症候群』が襲ってきた。
 この持病のせいで、裁我は、星礼会から「使い物にならない」と捨てられ、施設からも追い出された。
 理不尽に魔力を認識させられたというのに、封殺者として決定した生き方すら、理不尽に破壊された。
 脆い身体、脆い精神、脆い心。
 不安なのだ。鏡夜を殺してしまったら、自分はまた独りになってしまう。
 同類を殺してしまったら、自分の拠り所がいなくなってしまう。
 こんな事になる筈じゃなかったのに……。どこで計画が狂ってしまったのだろう?
(こんな筈じゃなかったんだ……! こんな――)
 そうだ。こんな事態にした原因は、

「翔義兄さんっ!」

 バアンッ、と勢い良く屋上の扉が開いた。
(湊……!?)
 腹部を押さえながら、乱れた呼吸をした遠近湊が、二人の前に姿を現した。
「もうやめて、義兄さん! 鏡夜くんを殺しても、何も変わらないよ! 
 私が義兄さんを傷つけたのなら、謝るから、だから、鏡夜くんだけは傷つけないで! 鏡夜くん、殺したくないって言ってたんだよ!? 普通になりたいって言ってたの! 義兄さんだって一緒でしょ! 六年前、泣いていたじゃない! オレはお前みたいになれないって! なら、これから『普通』になろうよ! 三人で一緒に、『普通』になろうよ!」
「……はあ、はあっ……」
 裁我は答えない。荒い呼吸を繰り返しながら、ただ湊を見据えていた。
 その瞳にあるのは、再び蘇った憎悪と怒りだけだった。
「そうだ。テメェ、が、鏡夜を狂わせた、原因だったな……」
 裁我は立ち上がる。
 鏡夜は、未だに目眩と一時的な脳の損傷に苛まれていて立ち上がれる状態ではなかった。
 だが、声だけは発することが出来る。
「逃げろ……湊ッ!」
 出る限りの声量で叫ぶが、湊は動かなかった。今にも倒れそうな足取りで歩み寄る裁我に動じず、ただ、弱弱しい表情で裁我を見つめていた。
 距離が一メートルに迫り、裁我は歩みを止めた。
「――お前が、鏡夜を、狂わせた」
「うん……」
「お前が、オレを、傷つけた……」
「――うん」
「お前は――死ぬ、べきだッ……!」
 瞬間。裁我は手刀で湊の胸部を切り裂いた。
 鏡夜の目には、その光景がどう映っただろうか。
 服が破れ、鮮やかな朱色が宙を舞った。花が折れる様に倒れ行く湊は、最後に、鏡夜へと視線を移した。
 鏡夜は、目を見開いたまま愕然としていて。
 最後に、湊は何かを呟いていたようで。
 ――鏡夜は、その言葉を聞き取ってしまった。
 
 ◆

 カインは、ビルの屋上で鬼人の猛撃をひたすら防いでいた。
 既にチェインは限界が迫っていた。体内魔力粒子(イナ)で強化したとはいえ、尋常ではない重さを持った鬼人の連撃が、確実に鎖へとダメージを与えている。
 鎖が断ち切れるのも、時間の問題だった。己の一部といっても良いチェインが断ち切られてしまうと、カインの戦闘手段はなくなってしまう。
(あと三十秒ッ……!)
 千雨が言った『時間稼ぎ』まで、残りわずかだった。それまでにチェインが断ち切られないことを願い、カインは戦闘に集中する。
(信じてるよ、チサメちゃん――!)
 たった一つの希望に、カインは全てを委ねた。

 千雨はビルの屋上で、両の瞳を閉じて佇んでいた。
 短刀――朱風を両手で握り、ただひたすら念じる。
 ――殺、殺、殺、殺、殺、殺。
 たった四年間では、まだ足りない。あの鬼人の魔力量は、それをも上回っていたのだから。
 余分な雑念はいらない。今、必要なのは殺人意志だけだ。
(上回った――)
 朱風に籠めた殺人意志と、あの鬼人に宿っている精神硬質の質量を『考察』した結果、前者が確実に上を行ったことを確認する。
(……申し訳ありません、当主。使用します)
 千雨は、この世界に満ちている大気魔力粒子(マナ)に呼び掛ける。ただ純粋に、『集まってくれ』と。
 万物の霊長である人類が、古より魔を滅するために行使してきた物質。
 万物に支障をきたさない為に存在する大気魔力粒子(マナ)を使用するということは、逆に言えば、万物に何らかの不要要素が存在している際に、大気魔力粒子(マナ)が意思を持って一時的に力を貸してくれるという事だった。
 金色の粒子が、朱風の刀身に集まり始める。銀色だった刀身が、次第にその色彩を変えていった。
 朱風の刀身が、黄金色に光輝く。それは、大気魔力粒子(マナ)の根源とも称されている色だった。
「カインくん! 離れてください!」
 叫ぶ。
「オッケー!」
 チェインを網状にして防御を取っていたカインは、咄嗟に鎖をフェンスに絡み付け、移動を行った。
 鬼人は瞬時に追撃をかけようとする。しかし、自身よりも数十倍の魔力反応を察知したが故か、その方角に顔を向ける。
 鬼人が眼を向けた先には、千雨がその構えをとっていた。
「終わりです」
 腰を限界まで捻り、充分なタメを作っていた千雨は、まさしく刹那の動作で刺突を繰り出し、それを解き放つ。
魔穿(マセン)・終の理――ッ!」
放たれたのは、殺人意志を物質化させた、黄金色に輝く巨大な槍だ。直線上に存在する全てのモノを虚無へと返す、滅殺の一撃だった。
「――――――――――!!」
 断末魔の叫びすら聞こえず、鬼人の本体と十個のコアは、存在そのものが消滅した――。

 ◆

「ふぅ……」
 千雨は、その場で大の字に寝転がった。殺人意志に集中し続け、さらには大気魔力粒子(マナ)を使用したことにより、精神的にも肉体的にも限界が訪れていた。
「おつかれ。チサメちゃん」
 上を見上げると、そこにはカインが自分を見下ろしていた。ニコリと笑い、千雨の隣に方膝を立てて座る。
「……凄かったね。さすが『魔術師』だ。ボクなんかとは格が違い過ぎるって実感したよ」
 珍しく皮肉を口にせず、カインは自分の本音を吐露した。
「カインくんが時間を稼いでくれたおかげッスよ。私もいい加減、脳負荷に耐えられないッス」
「脳負荷?」
「朱風を扱う際、使用するのは殺人意志のみッスけど、反面、集中力が限界を超えると頭が痛くなるんスよ。先も一〇〇%を超える集中状態を維持したせいか、目の前がぼやけて見えるッス」
 それは本当だった。人間が深い集中状態を持続できる時間には必ず限度がある。千雨は時間という概念に体性を用いている仙人ではないのだ。持続時間は、保って三分程度だった。
「……ボクも、楽しめたことは事実だけど、もっと修行しないといけな――」
 途端、カインの言葉が途切れた。
 何故なら、先刻の千雨を超える純粋な『殺人意志』が、二人の身体に伝ってきたからだ。
「この殺気……まさか、キョウヤ!?」
 ありえないことだった。鏡夜が向かった病院は、このオフィス街から二十キロメートルは離れている。こんな長距離において、魔力でもないただの『殺気』を感知できる筈がないのだ。
 だが、逆に言うならば。
「それだけ、鏡夜くんの殺気が異常って事ッスね……」
 千雨は身体を起こして、その方角を見る。間違いない。これは紛れもなく、千堂鏡夜の殺人意志に他ならなかった。
「カインくん、急いで向かうッスよ。何かヤバい感じッスから」
「――う、うん」
 戸惑いを隠しきれないカインも、千雨が高く跳躍した後、それを追った。

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