遠近湊は、ピクリとも動かなかった。
ただ、斜め一文字に斬られた胸部から大量の血液を流しながら倒れ付している。
千堂鏡夜は、ピクリとも動かなかった。
その小さな少女を見つめながら、ただ言葉を失っていた。
「……はあ、はぁ……はあ――くくッ!」
乱れた呼吸が徐々に治まり始め、裁我は満足そうに唇の端を吊り上げた。
「これで、これでよかったんだ……! オレと鏡夜を狂わせた原因が死ねば、オレ達は元に戻る! もう過去に囚われることが無くなったッ! 何が『普通』だ! そんなモノになれる訳がねぇだろうがッ! なあ、鏡夜!」
歓喜に震えながら背後を振り返ると、既に鏡夜は立ち上がっていた。
顔は俯いている。表情は読み取れない。
「……ああ、お前の言う通りだ。俺は『普通』になんかなれない。お前が今、それを証明した」
湊が死んだのなら、『普通』になっても意味がない。
湊が死んだのなら、『普通』になっても未来はない。
彼女は、最後にこう呟いた。
『義兄さんを、殺さないで』
幾度となく自分を傷つけた相手なのに、何故、そんな綺麗事が言えるのだろうか。
答えは、簡単に出た。
「……やっぱり、馬鹿だな」
鏡夜は呟いた。
『普通』の世界で生きてきた遠近湊にとって、何度傷つけられても、血が繋がってなくとも――遠近翔は『家族』だったから。
日常と非日常なんかどうでも良い。おそらく、彼女はそう想っていたのだろう。
彼女は、きっと三人は解り合えると最後まで思っていたのだろう。
それを信じていた彼女は、殺されてしまったというのに。
「夢を見せてくれた本人が夢を失うなんて――馬鹿としか言いようが無い」
……鏡夜は、その日々を回想した。
――思えば。夢は、放課後の教室から始まった。
「そうだろ? オレ達は『日常』なんかに行けはしない! 六年前、コイツ自身が気づかせてくれた。礼を言わなくっちゃなぁッ!」
『遠近翔』は、歪んだ顔で涙を流しながら、遠近湊の頭部を蹴り上げた。
――何で泣いてるのって、自分を心配してくれた。
「湊が笑っていると、俺はどんどん狂っていったんだ」
――彼女はいつも笑っていた。その心に、誰よりも孤独を抱え込んでいながらも。
「それでも、湊は笑っていたんだ」
――笑顔は絶えなかった。雪の降る日、彼女はこう問うた。
「俺は湊を否定していた。だけど、俺は湊を肯定していた」
――楽しかった? 嬉しかった? 哀しかった?
「――あぁ、今でも思う。全部だ」
――楽しくて、嬉しくて、哀しかった。
「だけどな。俺にとって、それは夢を叶える為のカケラだったんだ。だから、俺は――」
それを奪った奴を、どうしても殺したくなったのだ。
◆
裁我は、目の前に在る光景を疑った。
前方に佇んでいる千堂鏡夜が、千堂鏡夜とは思えなくなってしまったのだ。
純粋な殺人意志は、無垢であるが故に封殺者の宿すモノとは思えなかった。
こんなのは、鏡夜じゃない。
「どう、なってやがる……!?」
歯がガチガチと軋む。見てはいけないと解っていても、その存在感から目を離せない。
死ぬ。死は直前まで迫っている。
背筋に強烈な悪寒が走った。『千堂鏡夜』という人間のデータでは、このような存在感を醸し出すことは不可能だった筈だ。
このままでは、自分は破滅する。裁我はそう直感した。
故に、裁我は抑止力である鏡夜を完全に殺す為――疾走した。
◆
工藤千雨はこう言った。
『存在理由を完全に認めた時のみ』、と。
カイン・エレイスはこう諭した。
『答えを出せ』、と。
天美戒は、最後にこう告げた。
『抑止力が解ける時間は、起動開始から一分だ。だが、解放したら最後、お前は「終わる」だろう』、と。
「――ああ、夢は終わりを告げた。俺の夢は、この瞬間に消え去った」
裁我が迫る。その疾走に、『個別戦闘論理』を使用しているようには見えなかった。
何もしなかったら、鏡夜は死ぬだろう。でも、鏡夜は何かをする事にした。
それは、子供の頃から教えられてきた行為。
逃れられない絶対の運命。
だけど、最後だけはそうで在りたかったから。
「だから、認めよう」
故に、鏡夜はこう口にした。
「想像心界」
そして、体が異常なまでの活性化を始める。
自分が自分でなくなるような圧倒的な畏怖が鏡夜に襲い掛かる。
考える事柄が一つに定まり、しかし鏡夜はそれに全てを委ねた。
結局、自分はこうすることしか脳がない存在だった。
湊と過ごした一週間も、封殺者として確立された年月も失う事になるけれど。
今は、今だけは。
――この存在を証明しよう――
◆
鏡夜を殺そうとした裁我は、逆に鏡夜によって殺された。
魔力も収束していないただの手刀。だというのに、その手刀は裁我の胸部を勢いよく穿った。
その動作は、ただ流麗で――ただ、美しかった。
鏡夜の右腕が、赤色を帯びていく。
『何も無い』鏡夜は、胸部を突き刺したままの裁我を、フェンスの外に投げ飛ばした。
……何も、感じない。
今の鏡夜は、慈悲というものを覚えることすらできなかった。
――悲哀も、憎悪も。
遠近翔の味わってきた苦痛も。
遠近湊の背負ってきた孤独も。
そして、自分の存在している意味さえも。
感情が無くなれば、それを感じることができなくなるのも当然だった。
『何も無い』鏡夜は、夜空を仰いだ。
月は、キレイだった。
でも、どんなに神々しい輝きでも、こうなってしまった自分を癒してくれることは決してありえない。
最後に。
――夢は、叶わないから夢っていうんだな――
意識的か、無意識的かは定かではないが、そう思えた鏡夜は、地面に倒れた。