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 地面がある場所が嫌いだった。

 幼い頃、転んで膝を擦り剥いた。

 初めての痛みが、私の心に亀裂を入れた。

 だから、地面のある場所が嫌いになった。

 でも、地面がない場所なんてどこにもない。

 でも、地面がない場所に行きたかった。

 私と同じ気持ちを持っている人を探した。

 でも、いなかった。

 あぁ、それなら。

 私が連れてくればいいんだと、そう思った。

 ◇

 ――暦は三月に突入した。
 けれど町には、未だに冬の名残が深い。
 日中は気温が上がってきたが、夜の八時を過ぎると低下も激しい。冷めきった夜気が服の中を潜り抜けて肌を凍えさせる。
 夜という時間が好きな私としても、早く暖かくならないだろうか、などと勝手な期待を抱いてしまう。しかし、そんな期待を抱いても、私個人の考えで自然の摂理に変化が生じるはずもない。なので、この考えは心の底に眠らせておくことにする。
 深夜十一時を過ぎた現在、街は静謐な夜を形作っていた。物音ひとつ聴こえない静けさは、同時に私の心を安心させてくれる。
 元々シンとした、雑音のない場所を好んでいる私にとって、夜に出歩くのは一種の娯楽といえた。実家も一般家庭とは違って物静かな人達ばかりだった。そのような環境で育ったものだから、自ずとそういう場所を嗜好するようになってしまったのだろう。
 かつん、かつんと地面から響く自分の足音が少し気に食わないけど、それは程度として許容できるから文句はない。というか、自分の行動で起こっている現象なのだから、文句の言いようがないのだが。
 ともあれ、こうして静かな夜の街を歩いていると、やはり安心感と心地良さを実感できる。
 そして、私がこうして理想の時間を過ごせるのは、皮肉なことにこの街で不可解な事件が起こっているからなのだが。
 皮肉……というのは、事件という単語だけで、私に過去を思い出させるからである。
 二年前。高校卒業を間近に控えた冬の季節に、街では殺人事件が勃発していた。その事件というものが、どうも一般世界での出来事では扱えなかったのだ。
 知人の鷹塔(たかとう)曰く、一般世界から逸脱した事件には、二属性が存在するそうだ。
 ひとつ。その事件が、人間の持つ常識と良識を蔑ろにした犯行であった場合。
 ふたつ。その殺人方法が、一般人に行える常識から逸脱していた場合。
 前者は人間の持つ尊厳から除外された人間――『存在異端者』と呼称されている存在が行う行為である。
 後者は――簡単に言うならば、鷹塔側の人間にしか行えない犯行であるらしい。
 二年前の事件は完全に後者といえた。
 二年前の殺人事件は、一言で言えば異常な出来事だった。何故なら、被害者の全員が首から上を失くしていたのだから。
 しかし、それは刃物などによる切断ではなかった。
 引き千切られたのだ。手で後頭部をがっしりと掴み、冗談のような腕力と握力で首から解体させた。
 ――その光景を目の当たりにしたのは、私があいつを殺そうと決意した瞬間だった。
 思い出すと、奥歯を軋ませるのは自然な行為といえた。
 その後、なぜか私は一週間ほど眠り続けたらしい。
 一週間後。私が目覚めたときには、葵は何事も無かったかのように自然に振舞っていた。
 そして、目覚めると私は何かしらの変化を遂げたということを自覚していた。
 言うならば、一週間前の私と、目覚めたあとの私は思考することが変わっていたのだ。
 そして、私は過去の異常思考から乖離された思考を用いて、二年間を過ごしてきた。
 一週間の眠りに堕ちる以前の私――十八年間生きてきた桐生(きりゅう)穿理(せんり)の思考は、正常なモノとは断じていえなかった。
 ――言うならば、負の感情で構成された人間であった。
 人間の誰しもが用いている邪な感情。絶望、孤独、不義、疑心――その他にも様々な感情が存在するが、二年前の私は、その全てを受用して生きていた。
 孤独に恋焦がれ、絶望に身を任せ、疑う心を忘れず、絶望が当たり前だという思考を抱いて生きてきた。
 傍から見れば、おかしな人間だと思われていたことだろう。正の感情の欠片も持ち合わせていなかった私は、会話にも必然的に齟齬が生じて、人と接することも出来なかった。
 彼は、そんな事はお構いなしと言わんばかりに接してきた。変人でもある私と平等に、対等な対場で接してきたのだ。
 しかし、その頃の私は疑心を忘失していなかった為、彼を疑い続けていた。
 こんな私に接する理由はなんなのだろう、と。
 だけど、私には人の心が読める訳がなく、人の心を探る勇気もなかった。
 滑稽な自分は、今になっても自分を嘲笑いたくなってくる。
 ――でも、それが正しく過去である以上。

 私は、変わってしまったということを意味しているのだ。

 ◇

 一時の間、何も考えずに呆と歩いていると、不可解な事件が起こる場所――東区のオフィス街まで来ていた。
 件の事件の心臓とも呼べるオフィス街には、三十階を有に越えているであろうビルの群集が鎮座している。午前零時に近づきつつあるこの時間帯。散歩のついでに、私はそれを確認することにした。
 鷹塔の話によると、それが起こるのは日付が変更された『瞬間』であるらしい。彼から貰った電子腕時計に目をやると……残り三十五秒だった。
 
 ――カチ、カチ、カチ。
     ――カチ、カチ、カチ。
         ――カチ、カチ、カチ。

 ……腕時計の秒針がやけに煩く感じる。
 時が止まったかのように、風景は乱れない。
 一切の音が絶えたオフィス街は、まるで退廃した死街のようだ。

 ――カチ、カチ、カチ。
    ――カチ、カチ、カチ。
      ――カチ、カチ、カチ……!

                      ぐちゃっ

 聞き慣れない音が、両の鼓膜を刺激した。
 振り向き、その場所まで足を運ぶと、そこには人間の死体が在った。
 二車線道路の真ん中に存在する、魂の不在した肉塊。
 首、腕、脚はこれ以上とない程に拉げており、その箇所をよく見ると、折れた花を連想させた。
 周辺に漂い始める濃厚な死の臭い。路上に飛び散った体液は、この時間帯ともあってか黒く淀んで見えた。
 ――私の眼前に、死が体現されている。
 二年前の記憶が脳裏に蘇りそうになり、狼狽しそうになった私は慌てて頭を振った。
 そのように幻視させるのは、やはり二年前を引きずっているからか……。
「――だけど、これは違う」
 そう。これをあいつだと思ってはいけない。
 連想させようが幻視させようが、そう思うこと自体、あってはならないのだ。
 この死体がどんな原理で堕ちてきたかなんて知ったことではない。
 
 ――感じるのは、私を惑わそうとしている『存在』に対する怒りだけなのだから。

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