給湯室でコーヒーを淹れ直して部屋に戻ったら、思わず咳き込んでしまった。
俺が給湯室に居た間に、鷹塔さんは煙草を何本か吸っていたらしい。部屋は濃密な紫煙で充満している。
「……鷹塔さん、吸いすぎはよくないですよ」
「うん? あぁ、悪いな。俺は一日一箱吸わないと我慢できないんだ。――人を魅了し、惑わす効力があるモノは世界にいくらでも存在するが、煙草はそれの最も足るモノだな」
「要するに、鷹塔さんはニコチン中毒者ってわけですね」
適当な相槌を打つ。それが真実に近い言葉だったつもりだけど、「いいや、それは違うな」と鷹塔さんは否定した。
「中毒者と呼称される者は、その不特定の『何か』がないと生きていけない状態である者を指す。その『何か』に魅了、魅惑され、自己の存在を共有するんだ。真実、俺は煙草を愛煙しているが、魅了も魅惑もされていない。本当に我慢できない人間というのは、一日に三箱でも吸いきるさ。――まあ、好んで吸っているのは事実だがな」
と、長い説明をする鷹塔さん。……俺からすれば、ただの言い訳にしか聞こえないのだが。
「と、コーヒーが出来たみたいだな。早くくれ」
新しい煙草を取り出しながら、そう催促する鷹塔さん。
俺はデスクに淹れたてのコーヒーを置いて、空いているソファーに腰を下ろした。
「そういえば、穿理、何か怒ってませんでした?」
ふと、思い出した事をそのまま口にする。鷹塔さんはカップを手に取って、音を立てながらコーヒーを飲んだ。
「……鈍感なお前には解らなかっただろうが、おそらく、事件を起こしている犯人に対しての怒りだろうな」
「え……? 何でですか? 今回の事件は、穿理とは何ら関係性がないと思いますけど」
「だからお前は鈍感なんだ。……まぁ、事件の本質を話していない以上、理解できる訳がないな。葵、穿理が嫌いなモノを二つ挙げてみろ。嫌いな食べ物とかじゃないぞ。あいつが心の底から嫌悪している『感情的なモノ』だ」
……穿理が心の底から嫌っている感情的なモノ。彼女は好き嫌いがはっきりしている性格だから、思い浮かべるのは容易だった。
「――下位からいうと逃避、迷い……だと思います」
それは今の彼女に適しているモノだ。
鷹塔さんは満足したように笑った。
「解っているじゃないか。なら、その二つの内で今回の事件に当てはまるはなんだ?」
畳みかけに問うてくる鷹塔さん。俺は先ほどまでの会話を思い出しながら、数秒間思考を駆け巡らせた。
「えっと……逃避、だと思います」
「その根拠は?」
「さっき鷹塔さんが言っていた、死を辿るなら足場のない場所に行けば良いって言葉が、逃避の行動に思えたからです。死を辿るって事は、自ら自己の生涯を終わらせるって意味と連結していますし――俺から言わせれば、自ら死ぬという行為に走るのは逃避だと思います」
はっきりと、俺は自身の倫理観を述べた。
――それは。二年前の穿理がそれに合致していたからだ。彼女は、自分の価値観を誤った方向性へと定めてしまい、結果的にあんな事態へと陥ってしまった。
だから、あの時の穿理の行動は間違っていた。それは断言できる。
「顔を上げろ。思いつめるのは体に毒だぞ」
と、無意識に下げていた顔を上向ける。鷹塔さんは真剣な表情で俺を見据えていた。
「穿理の事は一端置いておこう。――あいつの前では口にしなかったが、今回の事件は、お前に話した次元空間の理論、そして逃避という観念的言語が深く関わっているんだ」
「……そうなんですか?」
何故、穿理の前では話さなかったんだろう、という疑問は残るが、俺は努めて話を促した。
「穿理が来る前にも言ったが、次元空間の理論とは、魔術の世界でも未だ立証されていない理論だ。一般的に空間利用は可能でも、次元の利用は、現代に現存する魔術師では不可能と言われている。まぁ、一世代前は可能という説もあったんだが、これは話に無関係だな。
前者である空間の利用は、『結界』が例として挙げられるな。人間を無意識的に遠ざける人払いの結界、その場所への侵入を不可能にさせる結界、座標と座標を連結させ、居た場所から特定した場所へと位置関係を交わらせる結界。これらは全て、『空間』という概念を活用して行う。
対して、『次元』という概念は利用そのものが難しい。扱える面積、扱える距離が限られている『空間』とは異なり、次元は『時間』に干渉しなければならないからだ。時間に干渉するというのは、現実世界の律(バランス)を崩す事と同一だ。どちらか一方の律が狂えば、もう一方の律が狂うのも自然な流れとなってくる」
……全てを把握したわけじゃないけど、空間よりも次元を操る方が難しい、という解釈で良いのだろうか。
「それが、さっき言っていた逃避と何の関係があるんですか?」
これまでの話にその単語が入っていなかったため、俺はそう訊ねた。
「それは後に答える。話の優先順位を間違えるのは嫌だからな」
そう言って、鷹塔さんはコーヒカップを持ち上げた。
「葵。今回の事件はな、被害者が落下してくる時間が全てにおいて午前零時ジャストなんだ」
「……? そうなんですか?」
「あぁ」と肯いて、鷹塔さんはコーヒーカップに口をつけた。
「――深夜零時。それは日付が変更される刻であり、世界が変わる刻でもある。今のオフィス街は、完全に後者に当てはまっているんだ。さっき言っただろ、次元――『時間』を操る者は、現実世界の調律を崩すと。昨夜、お前とオフィス街に立ち寄った時に調べたが、あそこは、深夜零時になると次元に亀裂が生じる仕掛けが施されていた。亀裂の場所は三箇所。その場所から地上を俯瞰すると解るだろうさ。その下が、被害者が落下した場所であるとな」
魔術師である鷹塔さんを以って言う事だから、それは間違いのない事実なのだろう。
鷹塔さんは続けた。
「さて、じゃあ最後である『逃避』という謎だが、これは単純明快な解だ。犯人はな、逃げたんだよ」
「逃げた……?」
意味が解らず、思わず問い返してしまった俺に「そうだ」と、煙草を取り出す鷹塔さん。
そうして、黒色のスーツを身に纏った魔術師は事件の本質を語ったのだ――。