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 三人目の駒が動き出す。

 ◇

 オフィス街は静まり返っていた。
 無音、無声、無感。何もかもが死んでしまったかのような夜の街を、桐生穿理は緩慢な足取りで歩いていた。
 空は暗雲が立ち込めている。今夜は月さえも見えない。
 ――世界は闇に覆われ、息づく暇さえ与えない。
 穿理はその場所まで歩くと立ち止まった。昨晩、三人目の犠牲者が落ちてきた場所だ。
 死体は既に警察によって処理されているのだろう、今では血痕さえも残っていなかった。
 次いで、穿理は上空を仰いだ。――何もない中空。そこには確かに何もなく、存在というモノが不在している。
 電子腕時計を確認した十分前から、穿理は脳内で時間を数えていた。――残り二十三秒まで達したその時、彼女は『連動』を開始する。
 桐生穿理という人間の内界に宿る『負の感情』を、身体の隅々まで行き渡らせる。ただひたすら念じるのだ。
 ――繋がれ、と。
 そして、二十年という歳月の中で培ってきた負の感情が、桐生穿理を異なる人間へと乖離させた。
 瞳の色が毒々しい赤色に成り、前準備は整った。
 残り五秒。

 ――カチ。

    ――カチ。

      ――カチ、カチ、カチ……ッ!

 瞬間、穿理は真上へと高く跳躍した。見惚れるような優雅さを保って、その『次元』へと接近する。
 その前に人が落ちてきた。四人目と予想されるであろう生きている被害者。穿理は五指に巻きつけている鷹塔が造形した特別製のワイヤーを巧みに操り、生きている被害者の体を縦に両断させた。
 あっさりと人を殺したにも関わらず、穿理の表情に変化は窺えない。
 穿理はさらに上空を目指す。
 高さ十メートルほどまで到達した時、その少女の腕を掴み、次元の穴から引きずり出した。
「捕まえた」
 微笑いながら、穿理は言う。
 狂気に似た笑みは、普段の穿理からは想像もつかない。
 だが、今の桐生穿理は桐生穿理ではない。
 人格が負の感情によって再形成された今、穿理はただ別の人格へと変革を遂げていた。
「あ――」
 次元の穴から引きずり出された、黒いワンピースを身に纏った少女は、桐生穿理という存在に戦慄と畏怖の感情を覚える。
『負の感情』を体現した少女と、
『逃避の感情』を行動に移した少女。
 互いに誤った答えを見つけ、その道を歩んだ『存在異端者』。
 しかし、穿理に引きずり出された少女は、その答えに無自覚だ。
 故に、まだ自分が正しいと認識できる。
「くっ……!」
 共に地面へと落下していく少女達。しかし黒い少女はどうあっても地面に落ちるわけにはいかない。
 ――もう、痛いのは御免だ。
 ――もう、心に傷を負うのは嫌だ。
 それだけの『逃避概念』が、黒い少女を行動へと移行させた。
 黒い少女は、落下地点に次元の穴を開ける。これで穴に潜り込めたら、また次元という地面がない場所へと帰られる。
 ――だが、その穴に潜り込む前に。
 
 何の前触れもなく、穿理は次元の穴を消失させた。

「――――ッ?」
 驚愕を顕わにする少女。
 穿理は変わらず無表情で、黒い少女の腕を掴んだままで――口を開いた。
「あなたの負の感情の根源は『逃避』ね。それなら、『連動』している私には根源の消滅は可能だわ」
 ……血のように赫い瞳が、黒い少女を捉える。
「負の感情に支配された人間は、遅からず死を迎える事になる。……あなたがあいつと関わっているかどうかは判らないけど、あなたを楽にしてあげられるのは私のようだわ」
 穿理の五指に絡み付いていたワイヤーが、黒い少女の体を束縛し、自由を奪った。
 それは、まるで十字架に張り付けられた罪人のよう。
「――だから。あなたを苦しめた理を穿ってあげる」 
 穿理は実行に移す。
 指先を動かすだけで事は済んだ。
 そうして、黒い少女は両足と両手を切断された。

 ◇

 黒い少女を殺害した穿理は、もう用はなくなったとばかりにその場から立ち去った。

 ◇

 ……私の体を解体した女の子は去っていった。
 地面に倒れ付している私の心に、様々な苦痛や悲痛が交じり合って、鬩ぎ合って、やがては消えていく。
 数年ぶりに地面という場所を体感した私は、驚くことに痛みを感じていなかった。
 ――それはきっと。精神面での痛みよりも、身体的な痛みの方が勝っているからだろう。
 両手両足を切断された私は、もう地面に立つことが出来ない。
 
 ――あぁ。あれほど地面を嫌っていたのに、今では地面が何よりも恋しい。
 
 幼い頃、初めて地面で転んだ私は、何で地面なんかが存在しているのだろう、と思っていた。
 それは、私個人の勝手な苛立ちに過ぎなかった。
 皆は、地面を歩くのが、地面に立のが当たり前だと言っていた。
 それを理解しきれなかった私を唯一理解して救ってくれたあの人が、この場に現れてくれないだろうか、という幻想を抱いてしまう。
 だけど、そんなのはただの妄想だ。
 ……背中に感じるアスファルトの感触。
 未だ私が生きていると認識させてくれる地面。
「私は、間違っていたのかな……」
 荒い呼吸のまま、一人呟く。

「あぁ、間違っているぞ」

 ……どこからか、男性の声が聞こえてきた。
立華(たちばな)零香(れいか)。……真名の通りの在り方をしていれば助かっていたものを。不運を呼び起こしたのは存在に対極する行動か。運がなかったな」
「あなた、誰……?」
「名乗る必要性は皆無だ。君は死という体験をする事で、俺という存在すら忘却してしまうからな」
 ……確かに。両手両足を断ち切られた私は、酸素欠乏によって遠からず死ぬだろう。もうすぐ死んでしまうヤツ――それも見知らぬ他人に名前を教えても、何かが変わるわけがない。
「穿理に斬られた切断面を見るに、長くは保たないだろう。しかし、十四歳そこらの成熟していない子供がよく十三分間も生きていられる。それも、負の感情の根源が『逃避』であるからか。……なるほど。君は逃げ続けるという行動概念の恩恵を受けているという訳か」
 男性はただ冷静だ。もうすぐ目の前にいる人間が死んでしまうというのに、この人は情すらもくれない。
「四人の一般人を連れていった理由を聞きたい。口が開けるなら話してくれ」
「――私は、自分と同じ感情を持つ人をずっと探してたの。地上を嫌う人、地面に佇む事を嫌悪する人。地面で転んで心に傷を負った人。……でも、そんな人はいなかった」
 そう。そんな正常ではない思考を持った人は、いなかった。
「でも、逃避っていう感情を持った人はたくさんいた。何かから逃げたい。この現実から逃避したい。それが……私の持つ感情と同じだったの」
 ――だから。逃避という感情を抱いている人は、地面を嫌う人だと錯覚してしまった。
「でも、その錯覚を事実だと受用しちゃった。あの人達は逃避したかったらしいから、私が連れていっただけ」
「――君の家は、人間の『感情』を無意識下で読み取れる家系だったな。『立華』の血は君にも受け継がれていたというわけか。だが疑問は存在する。『立華』は感情を読み取る能力があっても、今回の事件のような、次元に穴を開ける能力などは用いていなかった筈だ。答えてもらおう。その人ならざる能力を、君はどうやって身に付けた?」
 そんな質問をされても、答えられるわけがない。
 幼い頃に私の感情を受け入れてくれたあの人は、どこに行ってしまったのかも判らないから。
「――そろそろタイムリミットらしいな。
 逝(い)く前にひとつだけ助言しておこう。逃避に走った人間は、その感情を他人と共有するこは許されない。逃避を行うと決めた人間は、自分一人でこれからの生涯を生きていく責任があるからだ。誰の力も借りず、誰にも縋らず、孤独を背負って存在し続ける義務がある。
 君の感情の方向はとうに誤ってしまっていたが、久方ぶりに地上という場所を経験できただけでも、穿理に感謝することだな」
 そう言って、男性の足音が遠ざかっていった。
 私は、仰向けになったまま空を見つめた。
 星々が煌く夜に、私という存在が失われようとしている。
 ――でも、今は。除々に失われていく体温よりも、地面の冷たい感触の方が懐かしく思えて、小さく微笑えたのだ。
 
 それは、地上で生きる者だけに与えられる権利だった。

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