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 動物が好きだった。

 愛しくて、愛しくて、たまらなく愛くるしくて。

 彼らと遊ぶのが、僕の娯楽だった。

 でも、僕は人間で、彼らは動物だった。

 だから、僕の言葉が彼らに伝わるわけがないし、

 彼らの言葉を僕が理解できる筈もなかった。

 解り合えないなんてとうに識っていた。

 でも、彼らの意思を知りたかった。

 そんな時、困っていた僕を助けてくれる人が現れた。

 ◇

 巷で有名になっている事件とやらを初めて耳にしたのは、葵が今日の授業を終え、大学の正門前で落ち合った時だった。
「どういう意味、それ?」
 彼が口にした言葉が些か物騒だったからか、私は思わず聞き返してしまった。
 二人揃って帰り道を辿る。葵はなぜか肩を落としながら疲れきった様子だ。私の問いに応じるのも三十秒ほど過ぎた後だった。
「俺も教授から聞いただけなんだけど、今言った通り異常な事件ってことだよ。事件の概要は昨夜のニュースとかで報道してるはずだけど――まあ、穿理(センリ)がテレビなんて見るわけがないか」
 うん、と首を縦に振りながら、勝手に納得する葵。馬鹿にするな。私だってテレビくらい見る。昨日は……偶々見なかっただけだ。
「なんか、西区の住宅街で殺人事件があったんだよ。被害者は昨夜だけで二人。周囲で悲鳴や叫び声は一切聞こえなかったらしい。で、異常っていうのは、その殺害方法のこと」
 曰く、二人の被害者の腹部には直径三十センチほどの大穴が空いていたらしい。それは刃物で穿たれたような小さな痕ではなく、まるで大鳥類の鋭利な(くちばし)で貫通されたような痕跡だったらしい。
「確かに、異常な事件ね」
 私は納得して頷いた。
「でも、周囲に悲鳴が聞こえなかったっていうのは不可解ね。殺人に遭う前の人間って、大抵の人は叫び声を上げると思うけど」
 私個人の意見に、彼も「あぁ」と同意するように首肯する。
「一般的に考えればそうだろうな。まあ、教授が異常な事件って銘打ったのもその辺りを考慮してのことだと思う。普通、殺害前の人間は精神混乱で悲鳴は上げるものだろ? なのに、周囲に住んでいた人達は悲鳴なんて聞こえなかったって証言してるらしいからな」
「加えて直径三十センチほどの大穴ね。確かに、異常な事件って言うに相応しいわね」
 葵の言葉に返答こそするが、私はそれほど興味を持てずにいた。
 誰がどんな目に遭おうと、所詮部外者である私には関係のないことだ。その被害者が死んで悲しむのは親族や友人だけだと思うし、名前も知らない他人に情を抱くのもおかしい。
 対照的に、隣を歩く葵は険しい顔をしながら低く唸っていた。
「葵。無関係の私達が考えても仕方のないことでしょ。こういうのは警察に任せるのが一番よ」
「まあ、そうなんだけどな。気掛かりなこともあるから、俺にとっては無関係とは言えないんだよ」
「気掛かりって?」
 気になって問いかけると、葵は「まだ確証があるわけじゃないから言えないよ」と肩を竦めた。
 ……何か隠し事をされているみたいで、私は少なからず気分を悪くした。

 ◇

 二人で帰路を辿っている途中、葵は用事があるから先に帰ってくれと言い残して、私達は中心街で別れた。どこに寄るのか興味があったのだが、追求するほどのことでもない気がしたので、敢えて尋ねはしなかった。
 時刻はまだ午後四時半だ。夕暮れ時の空は橙色に染まっており、それを直視した私は、悲痛めいた感傷を蘇らせていた。
 夕焼け空を眺めると、否応無しに一年前の出来事を思い出してしまう。いや、夕焼けの空自体は想起の起因となっていない。私があの出来事を思い出す根源的な原因は、午後四時から深夜十一時という時間帯を経験することに依る。
 その時間を生きるだけで、忘却したいはずの過去が脳裏に蘇る。それは私の意思を完全に放棄して――まるで、それが当然のように意識を齎してしまうのだ。
 私は、この午後四時から午後十一時までの時間を生きるのが嫌いだった。その、たった七時間が我慢できないのだ。
 それは一種の逃避。人間として生きている限り、その時間帯は絶対に経験するものだ。それを否定するのはもはや人間の考えることではない気がする。
 ではなにか? 私は人間じゃないのだろうか。
 答えは否だ。私は人間としてこの世界で生きている。人間として十九年間を生きてきた。私はれっきとした人間なのだ。
 なんて矛盾だ。人間として生きているのに、夕方から深夜の時間帯が我慢できないなんて。
 それもこれも、一年前にあんな出来事があったからだ。あの出来事さえなければ、私は普通にこの七時間を意識せず生きることが可能だったのだ。
 葵も少しは気に掛けろと思えてくる。発端はお前だ、と言う勇気は未だに持てていないけど、いつかは怒りをぶつけてやりたい。
 そうすることで、きっと少しは気が楽になると思えるから。

 ◆

 月宮葵は町の郊外に訪れていた。見渡す限り田園風景が広がり、思わず大きく息を吸って清浄な空気を肺に取り込む。
「とはいえ、こんな所に事務所があるのか?」
 葵はジーパンのポケットに仕舞っていた折り畳んだ用紙を取り出し、場所を確認した。そこには事務所までの詳しい道取りが緻密に描かれている。
 しかし、目的地の付近まで訪れても、そこには何もなかった。ただ田んぼだけが風景として認識される。電話で言っていた事務所など、どこを見渡しても存在しない。
「初めまして」
 と、多少の混乱に陥っていた葵は、背後から声をかけられた。
「……?」
 怪訝に思い振り向くと、そこにはいつの間にか、黒いスーツを身に纏った男性が立っていた。
 身長は葵より二、三センチほど大きく百七十八センチはあるだろう。体格は成人男性と同等のもの。肩まで届く長い黒髪が不意に吹き抜けた風によって静かに靡いた。
 口元には笑み。表情も飄々としたもので、どこか不敵な面立ちに思える。
「月宮葵くんだな。俺が鷹搭祭だ」
「あなたが、ですか?」
 思っていたよりも若い。それが第一印象だった。歳は二十代後半ほどだろうか。電話で話した時は大人びた口調だったので、それなりに歳を取っていると葵は推測していたのだ。
「ああ。しかし……月宮のご子息も大きくなったものだな。写真でしか拝見したことはなかったが、立派な大人になっている」
 その言葉で、葵はこの人物が鷹塔祭であると正しく認識した。
「初めまして、月宮葵です。この度はご相談をお受け下さり、本当にありがとうございます」
 葵は深く頭を下げながら謝辞を述べた。
「いや、いいぞ。君のお父上からの伝手ならば断るわけにもいかんからな。とりあえず事務所に入るか。いつまでも外にいても現状は変わらん」
 そうして、鷹塔は親指で何もない虚空を指さした。
 葵は首を傾げる。
「あの、その事務所ってどこにあるんですか?」
「ここだよ」
 葵の問いに間髪入れずに返答した鷹塔は、不意に口元を小さく動かした。
「――gate open」
 どうにか聞き取れた言葉がそれだった。
 瞬間、何かがカタチを成していく。それはまるで、光学迷彩で隠されていたモノが顕わになっていく様であった。
「――」
 完全に姿形を現したそれは、なんとも形容しがたいカタチをした建造物であった。造り事態はコンクリートで出来ているようだが、外見を眺めると唖然とするしなかった。
「……ソフトクリームみたいですね。これが事務所なんですか?」
「――バベルの塔を意識して構築したつもりなんだが、君も中々に失礼だな。まあいい。とりあえず中に入るぞ」
 ため息混じりの促しに、葵はだらしなく口を開けたまま頷いた。

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