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 鷹塔さんの事務所に初めて立ち入ったあの日から、二日はあっという間に過ぎていった。
 その間、俺は地道に大学の出席日数を確保していたのだが、気になる事が一つ増えていた。
 今日の大学の授業の一限目を終えた後の帰宅途中、ちゃんと飯を食ってるか確認しに穿理の住むアパートに立ち寄ったのだが、インターホンから聞こえてくる小さな否定によって家に入ることを拒否られた。理由を訊ねたところ、俺と会いたくない、顔も合わせたくないとの言い分だった。
 ……何かしたっけな? と考えた末、二日前に鷹塔さんの事務所に行くのを内緒にしたのがいけなかったのだろうと思い至った。しかし、穿理自身の事で相談をしに行ったと言うのもどこか恥ずかしかった。なので、彼女の機嫌が直るまでそっとしておこうと結論付けた。
 穿理のアパートから郊外まではおよそニキロといったところか。電車を利用した方が早いが、約束の時間まで時間はそれなりに余っていたので徒歩で向かうことにした。

 郊外地区に辿り着くと、二日前と同様に大きく息を吸って新鮮な空気で肺を満たした。ここ周辺は本当に良い空気をしていると思う。中心街の空気と比較できるほどに淀みの無い大気なのだ。
「そういえば、桐生の実家近辺もこんな景色なんだよな……」
 過去を思い出しつつ、俺は二日前と同じ場所を目指して歩を進めた。すでに地図がなくても場所は把握できていたので、辺りを呆と見回しながら単調な足取りで歩き続けた。
 そして――なぜか高校三年の頃の思い出していた。
 あの頃、俺と穿理を取り巻く環境は確かに正常で普通だった。会話が成り立たないのもいつしか当たり前の日常と化していて、そんな日常を楽しんでいた自分も在った。
 さらに想起すれば……一年前の十二月。クリスマスにシルバーアクセをプレゼントしたあの時だけ、穿理は「ありがとう」と言ってくれたんだよな。
 あの時は、一瞬だけ会話の齟齬が生じなくて物凄く動揺したけど、穿理は気にしていない様子だった。いや、それ以上にどこか嬉々としていた。それからすぐに会話の齟齬は再開となったけど、なんであの時だけ会話が成立したのか未だに疑問と思っている。
 ……まあ、あの時の穿理の嬉しそうな笑顔を思い出すと、そんな事はどうでもいいって認識に変わっちゃうんだけどな。
 と、そうこう過去を思い返していると、視界に鷹塔さんの姿が映った。彼は片手を上げながら俺を待っている。
「すみません。わざわざ待っていてくれたんですか?」
「まあな。俺としても早く話を始めたいところだったし、焦っていた部分もある」
 ……焦る? 俺との用の後に何か急用でもあるのだろうか。
「まあ、とりあえず中に入ろう」
 気にかかりながらも、俺は鷹塔さんの促しに頷き後を追った。

 昨日と同じく、俺はソファーに座った。鷹塔さんは「少し待っていてくれ。良い代物が手に入った」と笑いながら給湯室へと向かった。
 それから約五分後。給湯室の扉を開けて現れた鷹塔さんの両手にはコーヒーカップがあり、その一方をソファー前に設置されてある木製の机に置いた。
「良い代物って、このコーヒーですか?」
「あぁ。イギリスにいた頃に初めて口にしたんだが、これがあまりにも美味くてな。昨日の朝に中心街まで赴いて購入してきた。まあ飲んでくれ」
 嬉しそうな笑みを浮かべながらそう促すので、俺はコーヒーカップを手に取り、口元まで運んだ……のだが、何か違和感に気づいた。
 試しに一口飲んでみた。……間違いない。これは――
「あの、鷹塔さん……」
「ん? どうだ、美味いだろう? いや、まさか粉に熱湯を注ぐだけで本場の美味いコーヒーが飲めるとはな。わざわざロンドンにいる同僚に尋ねた甲斐があった。コンビニエンスストアで三百円足らずで買えるなんて良い時代になったもんだ」
 ――やっぱり。これ、インスタントコーヒーだ……。
「あの、鷹塔さん。凄く言い難いんですけど……」
「なんだ?」
「……これ、インスタントコーヒーですよ?」
「……コーヒーじゃないのか、これは?」
「いや、コーヒーであることに変わりはないんですけど、粉末にお湯を注ぐだけで作るのは本場とは言わないと思います」
 それから、俺は勘違いをしている鷹塔さんに説明を始めた。
 まず、インスタントコーヒーは香りやコクが豆から挽いて淹れたモノとは段違いに不味いということ。コーヒー豆にも膨大な種類があり、本当に好きな人は自分好みの豆を選別して購入すること。さらにいえば豆をから挽いて淹れる用の器具が存在すること。
 結論。俺は十四歳から親父の影響で豆から挽いたコーヒーを飲んでいたので、これは断じて本場のコーヒーではないと断じた。
 ――で。説明を終えた後、鷹塔さんはデスク上に置いてある古びた電話機に手をかけ、キーボードをタイピングするように物凄い速さで番号を押していった。
 そして、受話器を耳に当てて相手が出た瞬間、
「――ハメたな? お前、ハメたな? 聞いたぞ、コーヒー好きは豆から挽いたモノを飲むらしいじゃないか。……おい、聞いてんのかコラ。なに笑い堪えてやがる。もしやお前、ロンドンで俺に出したコーヒーも粉末だったとか抜かさないよな? おい聞いてんのか! 爆笑すんじゃねえ! 次にハメたら殺すぞ! 覚えておきやがれッ!」
 ガチャンッ! と乱暴に受話器を戻し、なぜか片手の掌で顔面を覆う鷹塔さん。
 嫌な沈黙が続き、二分ほど経ってから鷹塔さんは大きくため息を吐いて、
「さて、では二日前の話を再開するか」
 と、チェアに座って足を組み、背もたれに寄りかかる鷹塔さん。……なんか仕切りなおしみたいな雰囲気になっていた。
 とはいえ、先程の事を追求すると嫌な目に遭いそうな気がしたので、俺は鷹塔さんに話の先を促した。
「最初に一つ尋ねたいんだが、葵くんはなぜ自分が生まれてきたと思う?」
「……はい?」
 話が突飛すぎて、思わず首を傾けてしまった。しかし、鷹塔さんは至って真剣な面立ちをしていた。
「深く考えこまなくていいぞ。君が考える、君がなぜ生まれてきたのかを思考すれば良い」
「えっと、そりゃあ親が産んでくれたからじゃないですか? 人間は誰でもそうやって生まれてくるものでしょう」
 一番簡単に思いついた回答を述べたのだが、鷹塔さんは「二十点といったところか」と返答した。
「まあ、君のような普通の人間の見解ではそうなるだろうな。だが、君の回答はあくまで世間一般論であり『「普通」の回答』に過ぎない。当然と言えば当然だな。君は普通の世界(にちじょう)で生き、普通の人生を送ってきたからだ。だが、非日常に踏み込むとそうはいかない。『「普通」の人間』が非日常の事柄を認識するというのは、同時にその人間が非日常側に立ち位置を変えるということだ」
「つまり……鷹塔さんが言いたいのは、非日常の事柄を知りたいのなら、非日常側に立ち位置を変えろってことですね?」
「あぁ。これまで君が培ってきた普通の人生を、非日常の人生に変えてもらう。それを誓うなら、今回この町で起こっている事件の本質を教えよう」
 どうする? と鷹塔さんの真剣な眼光が尋ねていた。
 ……普通の人生を非日常の人生に変える。
 ――迷いはあった。逡巡は当たり前だった。決断が怖いのも当然だった。
 でも、俺は――
「穿理を守れるのなら、答えは決まっています。俺は非日常側の人間になります」
 そう、はっきりと言えた。
「――ちゃんと考えたのか? 随分と早い決断のようだが。死ぬかもしれない運命に足を踏み入れるのは馬鹿のすることだぞ」
「死にかけるのは慣れていますので。生憎、俺は一年前に誓ったんですよ」
 そう。もう二度と、穿理を悲しい目に遭わせないと。
 その為なら何でもやる。非日常でも何でも、足を踏み入れてやる。
「――なるほど。君は馬鹿だな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「よし、なら話の本題に入るか」
 どこか楽しげな笑みを浮かべながら、鷹塔さんはデスクの上に置いてあった一枚の用紙を俺に投げ渡した。
 中空でそれをキャッチして、その用紙を見やる。
「なんですか、これ?」
「今回、西区の住宅街で犠牲者となった人間の裏情報だ。この二日間で俺が直々に現場を回って調査した」
「調査って、それは警察がもう――」
 と、そこまで口にして俺は気づいた。
 ――鷹塔さんは、俺が非日常の人間になったからこそこの用紙の拝見を許可した。
 警察は非日常側の人間じゃない。彼らに行える調査はあくまで『「普通」の調査』だ。
 普通の人間には普通の調査しか行えない。つまり、ここに記されている概要は――
「読んでみろ。未知を知る第一歩だ」
 いつの間にか煙草を咥えていた鷹塔さんに向かって一つ頷き、俺は用紙に記入されてある文章を読み始めた。
「――第一の犠牲者。負極侵蝕率一五%……。殺害前の存在衰弱、レッドライン。第二の犠牲者。負極侵蝕率二三%……殺害前の存在衰弱、イエローライン。追加、死体から半径五メートル範囲に負極の残滓」
「これが非日常の人間が行った際の一般的な調査だ。何の事だか全く理解出来ないだろう?」
「ええ、さっぱり解りません」
 素直に首肯する俺だが、一つ引っかかることもあった。
「鷹塔さん。この負極って……」
「あぁ。君の推測通り、この事件は桐生穿理と関連性があったぞ」
 そう。二日前、鷹塔さんは穿理のことを【負極連動者】と言ったのだ。
「――今日は長話になりそうだな。葵くん、コーヒー淹れてきてくれ。君の方が淹れるのは上手いだろう」
 空になったカップを投げ渡しながら、鷹塔さんは話を紡ぐ。
「今日は俺の外出時間まで話せるだけ話そう。まあ、ゆっくりとしていけ」
 俺は大きく頷き、これからどんな話が聞かされるのか緊張を抑えながら給湯室に向かった。

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