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 目を覚ますと、日は完全に落ちていた。
 私はベッドからゆっくりと腰を上げ、壁に背を預けて布団の上に座り込んだ。
 掛け時計に目をやると、時刻は午後十時半を回ったところだった。確か、今日は朝葵が家を訪ねてきて、それで一度起きたんだっけ……。
 そこからの記憶は曖昧だ。おそらく葵を追い払った後にもう一度寝てしまい、この時間まで微睡みの世界に浸っていたのだろう。我ながら規則正しい生活などこれっぽっちも意識していない。眠り過ぎだ。
 私はベッドから降りて私服に着替え始めた。のだが、玄関脇に置いてる電話機の留守番ボタンがチカチカと赤く点滅していることに気づき、片手で白地のシャツのボタンを嵌めながらもう一方の手で留守番ボタンを押そうとした。のだが――
「五件……葵も暇してるわね」
 ため息混じりにそう呟いた。
 私の家の電話番号を知っているのは月宮葵だけだ。となるとこの五件の留守電は全て葵からの着信になる。迷惑極まりないが、五回も着信が鳴ったのに一度も起きなかった私自身にも少し驚きを抱いた。
 私は留守電を三件だけ再生した。やはり着信は葵からのもので、六月十日が云々と機械音が再生され「飯くらい食べろよ」「寝てばかりいないでちゃんと起きとけよ」「ニュースくらい見ろよ。外は物騒だからな」という用件が録音されていた。
 私は、葵の要らない世話に苛立った。そんなに心配されやすいのだろうか、私は。
 考えると苛立ってきた。留守電は二件残っているけど、もう聴いてやるものか。
 私は不愉快になって、着服を終えるとすぐに家を後にした。こういう時は、夜の街で一人散歩をすると頭が冷えると思い至ったからだった。

 ◇

 ……留守番電話サービスに接続します。ご用の方は、ピーッという発信音の後にメッセージをどうぞ。
『もしもし、葵だけど。穿理、まさか二日間も眠りっぱなしってわけじゃないよな? ちょっと用があって家の方には行けなかった。留守電ばかりで悪い。今日は絶対に外に出るなよ。何故かは明日会って話するから。じゃあ、また明日』
 ……六月十二日・午後十時四十三分、メッセージを録音しました。

 ◇

「出ない……何やってるんだ、穿理のヤツ……」
 はあ、とため息を漏らしながら、月宮葵は事務所内の受話器を戻した。
「出なかったのか?」
 傍らんにあるチェアに足を組んで座っている鷹塔は、葵に尋ねた。
「たぶん、出かけてるか寝てるかのどちらかだと思います。この時間だと、街に出かけている可能性の方が高いと思います」
「しかし、こうしている間に新たに二つの死体か。犯人も相当餓えているんだろうな」
 強引にでも携帯電話を持たせるべきでした、と葵は頭を掻き毟った。
「それより、事件の犯人が高校生って本当なんですか?」
 葵の問いに、鷹塔は険しい顔付きで首肯した。
「俺の知り合いが観測したから絶対だ。だが、気になる点が在るのも事実だな」
 鷹塔は内ポケットから一枚の写真を取り出し、デスクに置いた。
 そこに写っているのは、取り立てて特徴というものが見当たらない黒髪の少年だった。
「御堂彼方、十七歳。裏家系とも、非日常とも無関係の少年だ。ただ一つの点を覗いてな」
「ただ一つの点?」
「あぁ。この少年は過度の動物好きなんだ。知り合いの調査によれば、趣味は動物園、水族館巡り。ペットを何十匹も飼っているらしい。まあ、これだけで言えば過度の範囲外だ。だが――」
 と、鷹塔はチェアに深く背を預けたまま、言葉を紡いだ。
「この少年は動物の心を知りたいという願いがあったそうだ」
「……はい?」
 鷹塔の言っていることの意味が解らず、葵は首を傾げた。
「過度、いや狂っていると言ってもいいほどの動物嗜好症。さらには己が存在理由――心界を無自覚ながらに認識している。その辺りが目を付けられたんだろうな」
 この世界に生きる人間は、自己の内界に【心界】と呼称される存在理由を保持している。自身の生きている理由というのが一般的な使われ方だが、その本質は鷹塔のような非日常側の人間しか知りえない。
 自身の進むべき【絶対的な方向性】――。この心界を認識した者は、その方向性のみにしか道を進めなくなる。否定や拒否などは一切通用せず、完全な強制を心的に促されるのだ。
 ――世界というモノを導く方向性である【極界】。
 ――人間個体の生きるべき方向性である【心界】。
 なるほど、と鷹塔は一人納得する。
 確かに、最初の駒とするならば良い手を打ってきている。しかし――
「心界覚醒者ごときが、極界と連動できる者を相手にしようとした時点で勝敗は決している」
 鷹塔はチェアから腰を上げた。
 こちらに得など全くないが、見えない相手に踊らされるのも癪だ。
「葵くん、君はここで待ってろ。桐生穿理が街に出かけているかはまだ不確定だが、見つけ次第俺が保護する」
「お、俺も――」
「駄目だ」
 言い切らせる前に、鷹塔は強く言った。
「行ったところで君には何もできない。足手まといになるだけだ。だが――」
 と、鷹塔は葵の肩に手を置き、小さく笑いかけた。
「お姫様を最初に癒すのは君が適任だ。格好の良い言葉の一つでも考えておけよ」
 葵は反論しなかった……いや、反論する前に自分が何をするべきか思考したからこそ、強く頷いた。
「では、行ってくる」
 そう言い残した鷹塔は、片手を上げながら事務所を後にした。

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